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清らかが空間に身を置くと、自然と心も整うようになる

『禅と掃除』より 掃除とは、自分の心を洗い、磨くこと ⇒ 身体は「外なる世界」。だから、部屋も家も「外なる世界」です

部屋の乱れは心の乱れ

 「禅と掃除」にまつわる一番大事なことからお話ししましょう。

 あるとき、若い男性の方とお話をする機会がありました。仕事や人間関係などで悩みを抱え、「坐禅でも始めたら、少しは心の迷いも晴れるでしょうか」とおっしやいます。

 私は、アパート暮らしというその若い方にお尋ねしました。

  「あなたのお部屋はきれいに片づいていますか」

 すると、そんなことが自分の人生の問題といったいなんの関係があるのか、と思ったのでしょう。怪訂そうな顔で、こう返されました。

  「めったに掃除はしないので散らかっています。でも一人ですから、誰に迷惑をかけるわけでもないし、別にたいして困ることもありません。どうせ寝に帰るだけですし」

 それを聞いて、ああ、この方は大変な考え違いをされているな、と思いました。

 部屋には、そこに住む人の心の状態がそのまま現われます。日頃から掃除を欠かさず、きれいに片づいた部屋で暮らす人は、心もきちんと整い、自分のやりたいこと、やるべきこともよくわかっています。ですから余計な不安や悩み事などに煩わされることも少ない。

 きれいに整えられた空間では、心もすっきりと整えられ、クリアになるのです。

 ところが、衣類や雑誌や生活雑貨などが散らかり放題で足の踏み場もないような部屋に住んでいる人は、やるべきこともよくわからなかったり、集中力を欠いたり、気ばかり焦っていらいらしたり、あれこれ思い悩んで欝々とした感情にとらわれたりしがちです。

 乱雑な空間では、心も落ち着かず、迷いや妄想、執着心などが生じやすいからです。それはごみの数だけ、ものが散らかっている分だけ、心が雑念に支配され乱れた状態です。

 部屋の乱れは、心の乱れの証なのです。

 私はその若い方に申し上げました。

  「部屋が乱雑なのはあなたの心が乱れているからで、誰にも迷惑をかけていないどころか、あなた自身が雑念にとらわれ大変な迷惑を被っているのです。坐禅を始めるのはとてもよいことですが、その前に部屋をきれいに片づけて、心を整えてみてはどうですか」

 この方に限らず、世の中には、部屋がどんなに散らかっていようが、自分は平気だ、かまわない、という人がいます。掃除をしたほうがいいのはわかっているのですが、面倒だからそのままほったらかしにしている、という人も少なくないでしょう。

 ひょっとしたら、この本を手に取ってくださったあなた自身がそうかもしれません。

 しかし、それはほんとうは、とても怖いことなのです。

 部屋が散らかり放題でも平気なのは、汚れた状態がもはや当たり前で、汚れに対する感覚がすっかり麻挿してしまっている証拠だからです。それはそのままあなたの心の乱れの深刻さを示しています。そのことにぜひとも気づいていただきたいと思います。

 人間というのは、元来がものぐさにできています。ですから、ちょっと油断をするとすぐに楽なほうへ楽なほうへと流されてしまう。面倒なことはしたくないし、なるべく避けて通ろうとします。住まいの掃除などは最たるもので、放っておけば、すぐさま塵や埃がたまり、あちこちにものが散らかってしまいます。人は易きに流れやすいのです。

 これに歯止めをかけるには、まず身の回りを整え、自分の生活を律することです。お釈迦さまもおっしやっています。「心は乱れやすい。だから律する必要がある」と。

 幸い人はきれいに整えられた空間に身を置くと自らを律する気持ちが強くなります。それまでなら「面倒だから、ま、いいか」と後回しにしていたような些細な汚れであっても気づけばその場ですぐにさっとひと拭きできるようになる。心が整ってくるからです。

 掃除は、心を整え、律するための大事な大事な最初の一歩なのです。

掃除とは、己の心を磨くこと

 禅には人が美しく丁寧に生きるための知恵がたくさん用意されています。

 たとえば、「一掃除二信心」という禅の言葉があります。これは、最初にやるべきは掃除であり、信心は掃除が済んでからのこと。塵や埃をきれいに払い、丁寧に拭き清め、空間をきちんと清浄に整えてこそ、心、が整い、信心も生まれる、という意味です。

 信心をするには清らかな空間が必要であり、そうした清浄な空間に身を置かないと心も整わない、美しくならない、というのが禅の基本的な考え方なわけです。

 このため修行僧のいる禅寺では、掃除を坐禅と同じくらい大切な修行ととらえ、徹底してこれを行ないます。一日三回(朝食前、午前中、昼食後)、本堂や諸堂の隅々まで雑巾がけをするほか、風が強く、埃が舞う日などはさらにI、二回拭き掃除をします。また、境内の掃き掃除もお天気を見計らいながら随時行ないます。

 これだけ念入りに掃除をしていますから、塵や埃はほとんどつきません。境内も本堂もほんとうにきれいです。それこそ廊下などは鏡のようにピカピカで顔が映るほどです。

 それでも修行僧たちは、日々何度も行なう掃除を欠かしません。なぜでしょうか。

 掃除というのは、汚れをとるのが目的ではなく、心を磨くために行なうものだからです。

 このため禅寺の修行僧は、掃除についてこう教えられます。

  「己を磨くつもりで床を磨きなさい」

 人はみな純粋無垢な心を持って生まれてきます。赤ちゃんの心はまっさらで一点の曇りもありません。誰もが「仏性」(仏様になれる可能性)を持って生を受けるのです。

 ところが成長するにつれて人の心には、さまざまな塵や埃がたまるようになり、だんだん仏性が曇っていきます。欲、怒り、執着、嫉妬、偏見などは最たるもので、これらは放っておけば、垢のようにこびりついて、心にまといつきかき乱す煩悩、雑念となります。

 それに振り回され、もがき、苦しむのは、ほかの誰でもない自分自身です。であるからこそ、心に塵や埃がつかないようにいつもきれいに磨いておく必要があるのです。

 坐禅が「静の修行」なら、掃除は「動の修行」です。掃除をするときは、ただ掃除をすることだけに集中します。掃くときは掃くことだけに、拭くときは拭くことだけに、目の前にあるいまこの瞬間に没頭する。禅の修行の根本です。そうやって仏性を磨き出す。

 汚れを一つ落とす、ごみを一つ片づける。そのたびに、一つ、また二つと、心が軽くなり、気持ちがすっきりします。心の曇りが取れ、整っていくのです。

 みなさんがお家で掃除をする場合、最初のうちは「面倒くさい」という思いが勝ちすぎて、なかなか掃除をすることに集中できないかもしれません。

 たとえば、掃除のしにくい部屋の隅を「面倒だから」とやらなかったり、やり残した場所があったことに気がついても、「いいや、今度で」とそのままにしてしまったり。散らかり放題の部屋にお住まいなら、心の乱れも大きいですから、なおのことそ

 そんなときは、自分の弱さを嘆いたり、克服しようと無理して立ち向かうのではなく、むしろいまこの瞬間に意識を集中して、それまで以上に、ただひたすら丁寧に掃除をすることです。雑念を抱えたままでは、掃除はいつまでたっても面倒くさい苦役のままです。

 大事なことは、ただ無心になって目の前の作業に集中すること。無念無想で体を動かし続けることです。そうすれば、自ずと心は整うようになり、たとえ掃除のやり残しがあったとしても、躊躇することなく、すぐに片づけることができるようになるはずです。

 そうやってきれいに整えた部屋を見るのは、ほんとうに気持ちがいいものです。

 その清々しさこそが、自分の心が磨かれた証なのです。
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