『ドイツ軍事史』より ドイツの対米開戦 1941年--その政治過程を中心に ⇒ ドイツはなぜ、アメリカと戦うことになったのか。それもソ連攻撃が失敗したときに。
対ソ戦における緒戦の勝利が、ヒトラーにすでにソ連は打倒されたがごとき楽観を与えたことはすでに記した。しかし、実際には、短期戦の見通しを疑わしめるような兆候が表れはじめていたのである。一例を挙げれば、陸軍人事局長カイテル大将は1941年8月15日に、50日間で1万人、1日に200人の将校が失われたとし、1941年中に1万6000人の将校が必要であるが、補充は5000人しかいないと報告していた。
こうした兆しは現実を先取りしていた。ソ連軍の抵抗にあって、次第に短期戦の見通しは消えつつあったのである。かくて、いままで漠然としか考えられていなかった長期戦が具体的なものとして表れてきた。そこで打ち出されてきたのが、米英が反攻に出ないうち、1942年にもう一度攻撃をかけてソ連を打倒しようという発想であった。ヒトラーの承認を受けて、1941年9月1日に陸海空三軍総司令官並びに外務大臣に配付された「以後の政治的・軍事的計画の基盤としての1941年晩夏の戦略的情勢」と題する国防軍最高司令部長官の覚書をみよう。そこでは、まず対ソ戦で大戦果を挙げたものの、未だ完全にソ連を崩壊させるに至ってはいないことが確認され、41年中に対ソ戦を完了できなかったことが各国に与える影響が考察されている。続いて、今後取るべき作戦について触れられ、イギリスを屈服させる可能性が検討される。しかし、これには困難があることを確認した上でソ連打倒が重要であるとし、以下の結論を出すのである。
「ロシアの崩壊は、他の戦線から引き抜けるすべての兵力を使用して強制しなければならない。次の、決定的な目標である。それは1941年中に完全に実現しない限り、1942年の東部作戦の継続が第一となる」
この覚書に端的に示されているように、ドイツの戦略に残された選択肢は、米英のドイツの背後への攻撃が本格的にならないうちに一刻も早くソ連を打倒することであった。しかし、西方における状況はドイツにとって独ソ開戦当時よりも一層厳しいものになっていた。というのは、41年夏以降のアメリカのドイツに対する姿勢は、「宣戦布告なき戦争」へとエスカレートしていたからである。1941年9月4日、ドイツ潜水艦U‐652は米駆逐艦「グリーア」に追跡され、魚雷を以て反撃した。その規模からすれば単なる小戦闘であったが、この小競りあいは上記の如き状況から単なる偶発的戦闘とはみなされないこととなった。ワーズヴェルトは9月H日に、ドイツ海軍の行動は海賊行為であるとし、この事件を契機として、護送海域においては独伊艦船に対し発見次第発砲すると宣言したのである。こうして、10月17日には米駆逐艦「力1ニー」の被雷撃、10月31日には同「ルーベン・ジェイムズ」の沈没と、一連の遭遇戦が生じ、以後大西洋における独米紛争はより緊迫した状態を迎えることとなる。これに加えて、アメリカの軍備は1942年には完成をみるというかつての情勢判断が、ドイツの国家指導者たちの脳裡に浮かんだであろうことは容易に想像がつく。
ドイツの戦略において、かようなアメリカの参戦への傾斜を抑制する役割を担っていた日本の態度も未だ不鮮明であった。松岡の後任外相豊田貞次郎は、日本は三国同盟の側に立つと言明しながらも、日本の進路について言質を与えるようなことはしなかったのである。そのため、日本が枢軸を離脱してアメリカと和解するのではないかという疑念は、この時期のドイツ外政につきまとって離れぬ問題であった。
以上の状況をまとめるならば、独米の対立は高まる一方であり、それを抑制すべき日本の動向は定かではない。ドイツにとっての諸困難を打開するはずであった対ソ戦の勝利も41年中には達成できそうもない。いわば、ドイツ外政の状況は閉ざされてしまい、取るべき手段を失ってしまったといえる。
かかる状況の下で、それぞれの政策参画者たちの活動もまた従来打ちだしてきた政策を繰り返し主張するのみとなっていた、海軍は米艦船攻撃制限の緩和を言い、外務省伝統派はアメリカの参戦意図について警告する。が、結局は手詰まりなのであり、彼らの活動が新味を欠いていたことは否定できない。こうした閉塞状況をヒトラーもまた切実に感じていた。彼は戦争を有利に展開する決め手に欠けることを自覚していたと思われ、11月19日のハルダーとの会見においては、両陣営とも互いに相手を撃滅することはできないという認識から交渉による平和に至ることが期待されるという退嬰的な情勢判断をしている。
このように他の政策参画者たちが停滞している間、リッベントロップにおいては注目すべき政策の転換が行われていた。彼は日本の対ソ参戦推進から、独米戦争に日本を参戦させることに政策を転換したのである。ペティヒャーのアメリカの軍備は未完成という報告に囚われていたリッペントロップも、アメリカが大西洋において事実上の戦争を仕掛けてくるに至り、独米戦争はもはや不可避であると考えたらしい。その転機は枢軸国艦船に対し視認次第発砲するという前述のローズヴェルト声明であった。9月13日、リッベントロップはオットに指令を出している。そこでは、ローズヴェルトの声明は大西洋での偶発的戦闘から戦争に突入するきっかけを作ろうとする試みであるとされ、かかる挑発から独米戦争が勃発した場合には三国同盟に基づく参戦義務が日本にあることを確認せよとされているのである。この外相の政策転換をドイツの政府内政治の観点からみるならば、対米戦争を肯定するという点において、ヒトラー、リッベントロップ、海軍の政策連合が潜在的に成立したことを意味する。しかも、かかる連合に参加する政策参画者たちの積極性の度合いは様々であるにせよ、この政策連合は、アメリカの参戦政策強化により、妥当性を失っていた外務省伝統派の隠忍自重政策を圧倒したのであった。従って、対日・対米政策をめぐって分裂と競合の様相を呈していたドイツ外政は、この9月のリッベントロップの政策転換によって、密かに対米戦争という針路に向けて再結集していたといえよう。
しかし、ドイツ外政はなおも閉塞状況にある。対米戦争を是認する潜在的政策連合がその具現化をみるには、その状況を開くための環境の変化が必要とされるであろう。かかる変化の動因は極東よりもたらされることになる。日本の政治過程はそれまで混迷を極めてはいたけれども、ようやく開戦という決定を導きだそうとしていたからである(1941年11月2日の大本営政府連絡会議)。だが、11月15日に決定された「対米英蘭蒋戦争終末促進二関スル腹案」によく示されているように、日本の戦争指導は独伊の対英勝利を前提としていたのだった。ために、日本はドイツに向けて積極的なアクションを取り始めるようになる。かくて、外政上のイニシアチヴにおいて、日独はところを替えるのである。
対ソ戦における緒戦の勝利が、ヒトラーにすでにソ連は打倒されたがごとき楽観を与えたことはすでに記した。しかし、実際には、短期戦の見通しを疑わしめるような兆候が表れはじめていたのである。一例を挙げれば、陸軍人事局長カイテル大将は1941年8月15日に、50日間で1万人、1日に200人の将校が失われたとし、1941年中に1万6000人の将校が必要であるが、補充は5000人しかいないと報告していた。
こうした兆しは現実を先取りしていた。ソ連軍の抵抗にあって、次第に短期戦の見通しは消えつつあったのである。かくて、いままで漠然としか考えられていなかった長期戦が具体的なものとして表れてきた。そこで打ち出されてきたのが、米英が反攻に出ないうち、1942年にもう一度攻撃をかけてソ連を打倒しようという発想であった。ヒトラーの承認を受けて、1941年9月1日に陸海空三軍総司令官並びに外務大臣に配付された「以後の政治的・軍事的計画の基盤としての1941年晩夏の戦略的情勢」と題する国防軍最高司令部長官の覚書をみよう。そこでは、まず対ソ戦で大戦果を挙げたものの、未だ完全にソ連を崩壊させるに至ってはいないことが確認され、41年中に対ソ戦を完了できなかったことが各国に与える影響が考察されている。続いて、今後取るべき作戦について触れられ、イギリスを屈服させる可能性が検討される。しかし、これには困難があることを確認した上でソ連打倒が重要であるとし、以下の結論を出すのである。
「ロシアの崩壊は、他の戦線から引き抜けるすべての兵力を使用して強制しなければならない。次の、決定的な目標である。それは1941年中に完全に実現しない限り、1942年の東部作戦の継続が第一となる」
この覚書に端的に示されているように、ドイツの戦略に残された選択肢は、米英のドイツの背後への攻撃が本格的にならないうちに一刻も早くソ連を打倒することであった。しかし、西方における状況はドイツにとって独ソ開戦当時よりも一層厳しいものになっていた。というのは、41年夏以降のアメリカのドイツに対する姿勢は、「宣戦布告なき戦争」へとエスカレートしていたからである。1941年9月4日、ドイツ潜水艦U‐652は米駆逐艦「グリーア」に追跡され、魚雷を以て反撃した。その規模からすれば単なる小戦闘であったが、この小競りあいは上記の如き状況から単なる偶発的戦闘とはみなされないこととなった。ワーズヴェルトは9月H日に、ドイツ海軍の行動は海賊行為であるとし、この事件を契機として、護送海域においては独伊艦船に対し発見次第発砲すると宣言したのである。こうして、10月17日には米駆逐艦「力1ニー」の被雷撃、10月31日には同「ルーベン・ジェイムズ」の沈没と、一連の遭遇戦が生じ、以後大西洋における独米紛争はより緊迫した状態を迎えることとなる。これに加えて、アメリカの軍備は1942年には完成をみるというかつての情勢判断が、ドイツの国家指導者たちの脳裡に浮かんだであろうことは容易に想像がつく。
ドイツの戦略において、かようなアメリカの参戦への傾斜を抑制する役割を担っていた日本の態度も未だ不鮮明であった。松岡の後任外相豊田貞次郎は、日本は三国同盟の側に立つと言明しながらも、日本の進路について言質を与えるようなことはしなかったのである。そのため、日本が枢軸を離脱してアメリカと和解するのではないかという疑念は、この時期のドイツ外政につきまとって離れぬ問題であった。
以上の状況をまとめるならば、独米の対立は高まる一方であり、それを抑制すべき日本の動向は定かではない。ドイツにとっての諸困難を打開するはずであった対ソ戦の勝利も41年中には達成できそうもない。いわば、ドイツ外政の状況は閉ざされてしまい、取るべき手段を失ってしまったといえる。
かかる状況の下で、それぞれの政策参画者たちの活動もまた従来打ちだしてきた政策を繰り返し主張するのみとなっていた、海軍は米艦船攻撃制限の緩和を言い、外務省伝統派はアメリカの参戦意図について警告する。が、結局は手詰まりなのであり、彼らの活動が新味を欠いていたことは否定できない。こうした閉塞状況をヒトラーもまた切実に感じていた。彼は戦争を有利に展開する決め手に欠けることを自覚していたと思われ、11月19日のハルダーとの会見においては、両陣営とも互いに相手を撃滅することはできないという認識から交渉による平和に至ることが期待されるという退嬰的な情勢判断をしている。
このように他の政策参画者たちが停滞している間、リッベントロップにおいては注目すべき政策の転換が行われていた。彼は日本の対ソ参戦推進から、独米戦争に日本を参戦させることに政策を転換したのである。ペティヒャーのアメリカの軍備は未完成という報告に囚われていたリッペントロップも、アメリカが大西洋において事実上の戦争を仕掛けてくるに至り、独米戦争はもはや不可避であると考えたらしい。その転機は枢軸国艦船に対し視認次第発砲するという前述のローズヴェルト声明であった。9月13日、リッベントロップはオットに指令を出している。そこでは、ローズヴェルトの声明は大西洋での偶発的戦闘から戦争に突入するきっかけを作ろうとする試みであるとされ、かかる挑発から独米戦争が勃発した場合には三国同盟に基づく参戦義務が日本にあることを確認せよとされているのである。この外相の政策転換をドイツの政府内政治の観点からみるならば、対米戦争を肯定するという点において、ヒトラー、リッベントロップ、海軍の政策連合が潜在的に成立したことを意味する。しかも、かかる連合に参加する政策参画者たちの積極性の度合いは様々であるにせよ、この政策連合は、アメリカの参戦政策強化により、妥当性を失っていた外務省伝統派の隠忍自重政策を圧倒したのであった。従って、対日・対米政策をめぐって分裂と競合の様相を呈していたドイツ外政は、この9月のリッベントロップの政策転換によって、密かに対米戦争という針路に向けて再結集していたといえよう。
しかし、ドイツ外政はなおも閉塞状況にある。対米戦争を是認する潜在的政策連合がその具現化をみるには、その状況を開くための環境の変化が必要とされるであろう。かかる変化の動因は極東よりもたらされることになる。日本の政治過程はそれまで混迷を極めてはいたけれども、ようやく開戦という決定を導きだそうとしていたからである(1941年11月2日の大本営政府連絡会議)。だが、11月15日に決定された「対米英蘭蒋戦争終末促進二関スル腹案」によく示されているように、日本の戦争指導は独伊の対英勝利を前提としていたのだった。ために、日本はドイツに向けて積極的なアクションを取り始めるようになる。かくて、外政上のイニシアチヴにおいて、日独はところを替えるのである。
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