『地理学入門』より
先進国の都心周辺の旧市街地では、過密化により高所得者や若い世代が郊外に移住して、人口が減少し、高齢化が進み、購買力の低下やコミュニティの崩壊に加え、貧困層、移民、外国人労働者の流入によるスラム(不良住宅街)の形成、それによる失業率、犯罪の増加などのインナーシティ問題が生じている。スラムやその周辺では、路上や公園などで生活するホームレスの数も多い。
かつてアメリカのデトロイトはゼネラルモーターズ、フオード、クライスラーのビッグ3による自動車産業がさかんで繁栄したが、1967年にアフリカ系アメリカ人による大規模なデトロイト暴動が起き、多数の死傷者を出した。これをきっかけに白人の郊外への移住が加速した。
1970年代頃から日本車の台頭により自動車産業が不景気になると、企業の社員の大量解雇、下請けなどの関連産業の倒産により、市街地の人口流出が深刻化していった。それと同時にダウンタウンに増えていったビルの廃虚にホームレスの人々が住み着くなどして、治安が悪化し、ますます人口流出が進んだ。税収が改善されないデトロイトは2013年には財政破綻を声明し、ミシガン州の連邦地方裁判所に連邦倒産法適用を申請した。負債総額は180億ドルにのばった。市内の住宅の3分の1が廃虚か空き家になり、失業率は18%に達し、子供の6割が貧困生活を強いられているという。
ニューヨークでは1950年代には倉庫や低賃金の零細工場などが入居するだけの荒廃したソーホー地区に、1960~70年代、安価な住居を求めて芸術家やミュージシャンらが移り住み、それらの活動により地域が活性化し、中産階級や商業施設が流人するようになった。このような都市の居住地域が再開発されて高級化することをジェントリフィケーションと呼ぶ。この結果、貧困地域の家賃の相場が上がり、それまで暮らしていた貧困層が住めなくなったり、地域特性が失われるという問題が生じている。同じニューヨークのハーレム地区でもアフリカ系のアメリカ人が多く住み、貧困や犯罪といった問題を抱えていたが、1990年代に徹底的な治安改善政策により環境が改善され、街の再開発が進んで、高級化(ジェントリフィケーション)していった。
私は2000年6月に、かつてベルリンの壁があったところの中心、ブランデンブルク門のすぐ北にある帝国議会議事堂(旧西ベルリンと旧東ベルリンの境界付近の西ベルリン側にある)を訪れた。ドイツの首都ベルリンの中核をなす帝国議会議事堂は、そのとき、まさに大きな工事現場に取り残された遺物であった。1884~1894年に、P・ヴァロットの設計プランに基づいてイタリア・ルネッサンス風につくられた帝国議会議事堂は、1918年に崩壊したドイツ帝国、ワイマール共和国、第三帝国の議会が開かれたところである。第二次世界大戦後は西ドイツ側にあったが議会としては使用されず、東西ドイツ統一後、8年の年月をかけた改築を1999年4月に終え、9月から連邦議会本会議場となった。正面入り口の前でP・シヤイデマンが1918年11月9日に共和制を宣言、その15年後の1933年2月27日には放火によって、建物内部がほとんど焼失してしまった。ナチスはこの放火事件を口実としてたくさんの左翼政治家を逮捕した。1945年4月30日には、ヒットラーのファシズム政権が倒れ、ソ連軍が赤い旗を議事堂の上に掲げたのである。
このドイツの歴史を見てきた議事堂は、そのとき周りがほとんど建築中だったため、工事現場の中に忽然と建っているという、とても不思議な光景を作っていた。アクセル・シュルテスとシャルロッテ・フランクがこの首都中枢の再開発計画を展開し、長さ1.5kmにわたって、議会や政府の建築物が次々と建てられ、「Federal Belt(連邦地帯)」を建設する予定になっていた。
次に訪れたのは、ポツダム広場(旧西ベルリンと旧東ベルリンの境界にある)である。1920年代、ベタリンはパリと並ぶ世界屈指の文化都市であって、とくにこのポツダム広場周辺はヨーロッパ一混雑する交差点と言われ、当時すでに1日2万台の車、10万人の人の往来があったという。東京で言えば銀座のようなこの区域は、訪れたときには荒れ地を造成して新都心をつくるような巨大な工事現場だった。このポッダム広場付近は第二次世界大戦の空爆で徹底的に破壊され、その焼け野原の上をちょうどベルリンの壁が建設されたため、壁が崩壊するまで空白域のままでめった。その50年開放置された「焼け野原」を再生するために進められた二大プロジェクトが、ダイムラー・ベンツ社によるダイムラーシティとソニー欧州本社によるソニーセンターだった。ベンツはレンソ・ピアノ、ソニーはヘルムート・ヤーンの都市再開発プロジェクトを採用し、オフィス、ホテル、劇場、住居などを建設した。
まず、1998年10月に、4年の歳月をかけてショッピングアーケード、映画館、カジノなどを含むダイムラーベンツ・コンプレックスがオープンした。このショッピングアーケード、「アルカーデン」には、スタート時には110店のショップ、30店以上のカフェ&レストラン、20館もの映画館があった。また、もう一つのソニーセンターは2000年6月にオープンした。ヘルムート・ヤーンは、ソニーセンターを六つの建物のリズミカルな都市的調和で飾った。オフィス、娯楽施設、住居施設の中央には、ドーム状の巨大な屋根を持った公共広場をつくり、レストランやカフェ、ショップ、映画館などに収り囲圭れて、丈化的イベントのためのスペースを提供している。
このポツダム広場区域には、近くに建設されたセンターからガスとスチームタービンによるセントラルヒーティングが供給され、また、オフィス、娯楽施設、住居施設などの膨大な種類のケーブルのための電気通信施設がつくられ、それは人口約5万5000人の小都市に匹敵するという。
次に訪れたのは、ハッケシェル・マルクト(旧東ベルリン)という地域である。そのとき旧東ベルリンは、ペルリンの壁ができてから時計の針が止まってしまったかのようだった。ペルリンの壁が崩壊して10年だっても、ハッケシェル・マルクトあたりぱ、東西ベルリンの差をとくに感じた。バスでベルリン市内を移動していても、そこがかつて東ベルリンだったか西ベルリンだったかは一瞬にしてわかった。ビルの色を見れば一目瞭然だからだ。東ベルリンは、壁が崩壊してドイツが統一されるまで、ほかの旧社会主義国同様、建物はすべてコンクリートの色、つまり灰色である。つまり、建物が国有財産のため、国はお金を使って建物の壁にペンキを塗るようなことはしない。したがって、西ヨーロッパに見られるようなカラフルな建物はほとんどなかった。ドイツが統一されて10年のあいだに少しずつ壁に色が塗られたが、そのときはまだ、あちこちのビルがリニューアルのため工事中であった。
ハッケシェル・マルクトには、かつて労働者階級の人たちのアパートだった建物を、ドイツ統一後りニューアルして、1階に各種のおしゃれなショップを入店させ、2階以上をアパートにした複合建造物があった。しかし、リニューアルされた新しい部分とかつての東ドイツ時代の古い部分が隣接して奇妙な感じを受ける。このあたりの路地に入っていくと、戦前の古い建物がそのまま残っていた。路地の中に、戦後55年たってもまだ壁に残っている弾痕を見たとき、戦後時計が止まってしまった東ベルリンの街の沈痛さを感じた。近くには、ユダヤ人の教会もあり、戦争で破壊された建物が戦後再建されていた。まわりを何人もの警察官が巡回するようすは、ナチスに迫害されるという戦前の忌まわしい悲劇が終わった現代でも、またしてもネオナチによって攻撃されるという、やるせない憤りを感じさせるのだった。
先進国の都心周辺の旧市街地では、過密化により高所得者や若い世代が郊外に移住して、人口が減少し、高齢化が進み、購買力の低下やコミュニティの崩壊に加え、貧困層、移民、外国人労働者の流入によるスラム(不良住宅街)の形成、それによる失業率、犯罪の増加などのインナーシティ問題が生じている。スラムやその周辺では、路上や公園などで生活するホームレスの数も多い。
かつてアメリカのデトロイトはゼネラルモーターズ、フオード、クライスラーのビッグ3による自動車産業がさかんで繁栄したが、1967年にアフリカ系アメリカ人による大規模なデトロイト暴動が起き、多数の死傷者を出した。これをきっかけに白人の郊外への移住が加速した。
1970年代頃から日本車の台頭により自動車産業が不景気になると、企業の社員の大量解雇、下請けなどの関連産業の倒産により、市街地の人口流出が深刻化していった。それと同時にダウンタウンに増えていったビルの廃虚にホームレスの人々が住み着くなどして、治安が悪化し、ますます人口流出が進んだ。税収が改善されないデトロイトは2013年には財政破綻を声明し、ミシガン州の連邦地方裁判所に連邦倒産法適用を申請した。負債総額は180億ドルにのばった。市内の住宅の3分の1が廃虚か空き家になり、失業率は18%に達し、子供の6割が貧困生活を強いられているという。
ニューヨークでは1950年代には倉庫や低賃金の零細工場などが入居するだけの荒廃したソーホー地区に、1960~70年代、安価な住居を求めて芸術家やミュージシャンらが移り住み、それらの活動により地域が活性化し、中産階級や商業施設が流人するようになった。このような都市の居住地域が再開発されて高級化することをジェントリフィケーションと呼ぶ。この結果、貧困地域の家賃の相場が上がり、それまで暮らしていた貧困層が住めなくなったり、地域特性が失われるという問題が生じている。同じニューヨークのハーレム地区でもアフリカ系のアメリカ人が多く住み、貧困や犯罪といった問題を抱えていたが、1990年代に徹底的な治安改善政策により環境が改善され、街の再開発が進んで、高級化(ジェントリフィケーション)していった。
私は2000年6月に、かつてベルリンの壁があったところの中心、ブランデンブルク門のすぐ北にある帝国議会議事堂(旧西ベルリンと旧東ベルリンの境界付近の西ベルリン側にある)を訪れた。ドイツの首都ベルリンの中核をなす帝国議会議事堂は、そのとき、まさに大きな工事現場に取り残された遺物であった。1884~1894年に、P・ヴァロットの設計プランに基づいてイタリア・ルネッサンス風につくられた帝国議会議事堂は、1918年に崩壊したドイツ帝国、ワイマール共和国、第三帝国の議会が開かれたところである。第二次世界大戦後は西ドイツ側にあったが議会としては使用されず、東西ドイツ統一後、8年の年月をかけた改築を1999年4月に終え、9月から連邦議会本会議場となった。正面入り口の前でP・シヤイデマンが1918年11月9日に共和制を宣言、その15年後の1933年2月27日には放火によって、建物内部がほとんど焼失してしまった。ナチスはこの放火事件を口実としてたくさんの左翼政治家を逮捕した。1945年4月30日には、ヒットラーのファシズム政権が倒れ、ソ連軍が赤い旗を議事堂の上に掲げたのである。
このドイツの歴史を見てきた議事堂は、そのとき周りがほとんど建築中だったため、工事現場の中に忽然と建っているという、とても不思議な光景を作っていた。アクセル・シュルテスとシャルロッテ・フランクがこの首都中枢の再開発計画を展開し、長さ1.5kmにわたって、議会や政府の建築物が次々と建てられ、「Federal Belt(連邦地帯)」を建設する予定になっていた。
次に訪れたのは、ポツダム広場(旧西ベルリンと旧東ベルリンの境界にある)である。1920年代、ベタリンはパリと並ぶ世界屈指の文化都市であって、とくにこのポツダム広場周辺はヨーロッパ一混雑する交差点と言われ、当時すでに1日2万台の車、10万人の人の往来があったという。東京で言えば銀座のようなこの区域は、訪れたときには荒れ地を造成して新都心をつくるような巨大な工事現場だった。このポッダム広場付近は第二次世界大戦の空爆で徹底的に破壊され、その焼け野原の上をちょうどベルリンの壁が建設されたため、壁が崩壊するまで空白域のままでめった。その50年開放置された「焼け野原」を再生するために進められた二大プロジェクトが、ダイムラー・ベンツ社によるダイムラーシティとソニー欧州本社によるソニーセンターだった。ベンツはレンソ・ピアノ、ソニーはヘルムート・ヤーンの都市再開発プロジェクトを採用し、オフィス、ホテル、劇場、住居などを建設した。
まず、1998年10月に、4年の歳月をかけてショッピングアーケード、映画館、カジノなどを含むダイムラーベンツ・コンプレックスがオープンした。このショッピングアーケード、「アルカーデン」には、スタート時には110店のショップ、30店以上のカフェ&レストラン、20館もの映画館があった。また、もう一つのソニーセンターは2000年6月にオープンした。ヘルムート・ヤーンは、ソニーセンターを六つの建物のリズミカルな都市的調和で飾った。オフィス、娯楽施設、住居施設の中央には、ドーム状の巨大な屋根を持った公共広場をつくり、レストランやカフェ、ショップ、映画館などに収り囲圭れて、丈化的イベントのためのスペースを提供している。
このポツダム広場区域には、近くに建設されたセンターからガスとスチームタービンによるセントラルヒーティングが供給され、また、オフィス、娯楽施設、住居施設などの膨大な種類のケーブルのための電気通信施設がつくられ、それは人口約5万5000人の小都市に匹敵するという。
次に訪れたのは、ハッケシェル・マルクト(旧東ベルリン)という地域である。そのとき旧東ベルリンは、ペルリンの壁ができてから時計の針が止まってしまったかのようだった。ペルリンの壁が崩壊して10年だっても、ハッケシェル・マルクトあたりぱ、東西ベルリンの差をとくに感じた。バスでベルリン市内を移動していても、そこがかつて東ベルリンだったか西ベルリンだったかは一瞬にしてわかった。ビルの色を見れば一目瞭然だからだ。東ベルリンは、壁が崩壊してドイツが統一されるまで、ほかの旧社会主義国同様、建物はすべてコンクリートの色、つまり灰色である。つまり、建物が国有財産のため、国はお金を使って建物の壁にペンキを塗るようなことはしない。したがって、西ヨーロッパに見られるようなカラフルな建物はほとんどなかった。ドイツが統一されて10年のあいだに少しずつ壁に色が塗られたが、そのときはまだ、あちこちのビルがリニューアルのため工事中であった。
ハッケシェル・マルクトには、かつて労働者階級の人たちのアパートだった建物を、ドイツ統一後りニューアルして、1階に各種のおしゃれなショップを入店させ、2階以上をアパートにした複合建造物があった。しかし、リニューアルされた新しい部分とかつての東ドイツ時代の古い部分が隣接して奇妙な感じを受ける。このあたりの路地に入っていくと、戦前の古い建物がそのまま残っていた。路地の中に、戦後55年たってもまだ壁に残っている弾痕を見たとき、戦後時計が止まってしまった東ベルリンの街の沈痛さを感じた。近くには、ユダヤ人の教会もあり、戦争で破壊された建物が戦後再建されていた。まわりを何人もの警察官が巡回するようすは、ナチスに迫害されるという戦前の忌まわしい悲劇が終わった現代でも、またしてもネオナチによって攻撃されるという、やるせない憤りを感じさせるのだった。
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