未唯への手紙

未唯への手紙

世界史 イスラムの変容(一〇〇〇一一五〇〇年)

2016年05月06日 | 4.歴史
『世界史Ⅰ』より

イスラムの変容(一〇〇〇一一五〇〇年)

 南西アジアの経済的発展の障害となったのは、中国やヨーロッパと比較できるほどの航行可能な水路が内陸部に存在しなかったことだ。ラクダを使ったキャラバンでは比較的小さな荷物しか運ぶことができなかった。まず中国で、続いてヨーロッパで商業を支えたのは一般の人々が消費するかさの高い商品だったが、南西アジアではそれを長い距離にわたって輸送できなかったのだ。このような制約のためイスラムの船や商人は、航海術を同じように改良し、イスラム教をアフリカや南東アジアの新しい地域に伝え続けてはいても、中国がしたように南西アジアの地域社会を変容させることはできなかった。さらに、南西アジアの半乾燥地帯の中心部全域で農業に大きなダメージを与えたものとして、牧草地の拡大という要因は確実にあったし、おそらく気候変動も影響を及ぼしたのだろう。また、十四世紀に流行した黒死病も大きな被害をもたらした。

 一方でイスラム諸国は、キャラバンによる交易を補助する方法を独自に編み出していた。イスラム教徒は信仰上の功徳を施すために、各地を巡回する商人やラクダの食糧として、たいてい最大三日分の農産物を隊商宿(キャラバンサライ)に寄付することが認められていた。このような寄付は税金を免除されており、農村部をキャラバンが通過する際、夜間に作物をラクダに荒らされる心配がなくなるというメリットもあった。もちろん草原や砂漠では、ラクダは翌日の行程に備えて野生の植物から栄養を摂っていた。要するに隊商宿への寄進は、農民の定住地域でも無料でラクダに餌を与えられるということを意味した。したがって、適切な寄進を受けた隊商宿が点在している場所なら、キャラバンで商品を運ぶ直接の費用はかなり軽減された。

 ただし、これによってラクダがもっと重い荷を運べるようになったわけではない。そのため、南西アジアの地域間を結ぶキャラバンにとっては、依然として高価な贅沢品が重要な品目だった。地代や物納する税に苦しみ、遊牧民の襲撃にもしばしば脅かされた小農民は、辛うじて近くの都市の市場に参加できるだけだった。ナイル川を除いて、イスラムの土地にある河川はほとんど航行に適さなかった。要するにキャラバンの陸路輸送能力が限られていたため、イスラム世界のほとんどの農村地帯では、中国やヨーロッパの一部が一〇〇〇年以降に内陸の水路を利用して成し遂げたような商業化は達成できなかった。

 インド洋沿岸をたどるイスラムの海上貿易にはこうした制約がなかった。海岸部のいくつかの地域では、完全に商業化された農業と職人による製造業が遠方の市場を当て込んでますます盛んになっていった。だが、インドやアフリカの内陸部となると、輸送費と安全を守るためのコストが相変わらず高くついて、商業はなかなか浸透しなかった。ガンジス川のような有望な水路に沿った地域でさえ、中国の巨大な河川の流域で起きたような、小農民の暮らしの大きな変化が生じることはなかった。

 インドでもイスラム世界全体でも、このような状況を生むのに大きく関わったのは戦争と政治だった。遊牧民と、かつて遊牧民だった人々の侵略に激しくさらされた農業は大きなダメージを受け、一〇〇〇年から一三五〇年にかけてィスラム世界の農村地帯のほとんどは経済が停滞した。遊牧民は濯漑の整った農地よりも草地を好んだため、乾燥地帯の濯漑システムはとりわけ襲撃の的になった。さらに、神との神秘的な出会いを目的とする集会がイスラム世界全般に普及して、こうした宗教的な潮流も人々の注意を物質的なものからそらすことに寄与した。このような傾向によって、イスラムは以前よりも感情面で豊かになったが、神を身近に感じ世俗の事物を軽蔑する神秘主義者は、日々の生活における型にはまった保守性を強化する役割を果たした。

 一〇〇〇年から一五〇〇年までの重要な政治的出来事は、イスラム中核地域へのトルコ人の進出が加速したことだった。それと並行してペルシャ時代の文化意識とアイデンティティが復興し、この二つが混合して生じたのが、いずれもトルコ=ペルシャ的なスタイルの、宮廷文化、政府、戦争だった。やがて、イスラムの征服者たちはインドのほぼ全域にこれを強いるようになった。北アフリカでは、内陸の砂漠に住んでいたベルベル人がトルコの勢力拡大にも匹敵する動きを示し、ベルベル人の兵士は地中海沿岸地方や南スペインで宗教改革運動を立て続けに引き起こす力になった。だがトルコ人やペルシャ人と違って、ベルベル人の征服者は独自の文学を生み出すことはなく、聖なるアラビア語を使用するのを好んだ。

 トルコの膨張は騎兵を使った戦闘に熟達したことに起因する。成熟した形態のトルコの軍隊は、ステップ地帯の射手という古いスタイルと、パルティア人が発明した重騎兵を組み合わせたものだった。疾走するウマにまたがったままかなりの面確さで弓を射る、鎧をつけない射手の大部隊に加え、敵の歩兵の隊形を一気に突き崩す、鎧を身につけて大型のウマに乗った少数の騎兵がいるという組み合わせは恐るべき破壊力を発揮した。

 モンゴル人は圧倒的な力で一二四五年からコー五八年の時期に南西アジアの大部分を征服したが、トルコの進出はこの時期を挟んで二回あった。セルジュク族は一〇三七年以降、ステップ地帯から家畜の群れを連れてイスラムの中核地帯に進攻した。辺境の濯漑されていない土地では(イラン、シリア、メソポタミア、アナトリアにはこのような土地がたくさんあった)、こうした部族民の侵入により、定住型の農業は駆逐される傾向があった。その理由の一部は、気候の変動によって農耕よりも牧畜の方が生計を立てる手段として確実になったということだろう。セルジュク・トルコはイスラム教スンニー派で、バクダッドのアッバース朝のカリフや都市のエリート層から歓迎された。彼らはイスラム教シーア派から深刻な挑戦を受けていたからだ。シーア派のうち最大の脅威となっていたのはエジプトのファティマ朝で、最も急進的だったのはイラン東部を拠点とする(一〇九〇-一二五六)、いわゆる暗殺教団だった。

 ある意味でセルジュク・トルコの流入は、イスラムに最初のポ事的勝利をもたらした、遊牧民の戦士と都市住民の同盟関係を回復させる役割を果たした。以前と違っていたのは、イスラム初期の栄光の時代に支配権を握ったのがメッカの都市エリート層だったのに対し、十一世紀に政治権力をしっかり握ったのはセルジュク・トルコの戦士だったことだ。だがステップ地帯を出るはるか前から、セルジュク族は商人の流儀を尊重して利益を得るようになっていた。そのため彼らは、都市のエリート層が自分たちの問題を管理することをかなりゆるやかに許容していた。その見返りとして、彼らはイスラム聖法における政治的正当性をバクダッドのアッバース朝のカリフに認めさせるようスンニー派の学者たちに要求した。

 セルジュク族は一〇七一年にビザンティンの国境を突破し、アナトリアの大半の地域を素早く占領した。するとギリシャ語を話すキリスト教徒の農民たちは相次いでイスラム教に改宗し、トルコ語を話す住民がこの地域の主流を占めるようになった。ところがエーゲ海からアラル海にまで達する広範な地域に及んだセルジュク・トルコの領土では、中央政府などと呼べそうな統治機構を維持するのはとうてい不可能だった。そのため、セルジュク・トルコの最後の偉大な指導者が死亡した一〇九一年以降、対立する勢力闘で地域的な紛争が相次ぐことになった。

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