日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

カタクリの里に感動

2012年04月20日 | エッセイサロン
           

2012年04月20日 中国新聞「広場」掲載

 誘ってくれた知人の車に同乗し、島根県吉賀町にある「カタクリの里」を初めて訪ねた。手入れされた山の斜面いっぱいに、背丈は低いが淡い赤紫色の愛らしい花が群生している。

 「3月下旬から4月上旬に開花し、5月には地上から姿を消す」という案内があった。

 春だけという短い生涯を精いっばい生き、咲いている。小さな花に潜む、そんな強い気構えに感動した。

 カタクリは、近年の急速な自然破壊や盗掘で、めっきり減っているという。そうした中、吉賀町の大群生地は、西日本で貴重な存在になっている。

 住民の手入れによって保たれていることを知り、頭の下がる思いだ。花がそれに応えているように思えた。

 周辺の稲田では田植えの準備が始まり、そこの水面にこいのぼりも映っている。よい風景は、そこに住んでいる皆さんの地域ヘの思いやりから生まれる。撮った写真を整理しながらそんなことを思っている。

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うつけの采配

2012年04月19日 | しっちょる岩国
           

 題名:うつけの采配   著者:中路 啓太   発行所:中央公論新社  発行:2012年2月25日

この本を読もう、そう思ったのは新聞の新刊紹介で「著者に聞く」という欄の見出しに「信念貫いた吉川広家」とあった。吉川広家は毛利元就の二男・吉川元春の三男で岩国藩の祖となる人だ。

吉川広家は関ヶ原の戦いで西軍(総大将は毛利輝元、東軍は徳川家康)の指揮を執りながらも、最後まで兵を動かなかったとされる。この戦いで西軍は敗れた。毛利氏は改易は免れたが長門・周防の2カ国に大幅に減封されたた(112万石から36万石)。輝元は東の守りとして広家に岩国3万石を与えた。広家はそれまで出雲国富田で14万石を領していた。広家は1600(慶長5)年に着任。

以降の広家の藩主としての姿は歴史で知ることだが、それ以前の吉川広家とはいかなる武人であったかは知るところで無かった。関ヶ原における采配が「毛利家を救った英雄か、裏切りか」といわれる。毛利家としては後者にとらえ、冷たい処遇をとった。

題名の「うつけ」とは、気が抜けてぼんやりしているような人、間抜け、愚か、などいい意味ではない(広辞苑参照)。さて広家は本当に「うつけの広家」であったのだろうか、読後の思いは我が藩の祖は「深慮遠謀の広家」につきる。

物語の終わり、広家の起請文に家康が広家の武人としてずば抜けた力量を認めるあたり、岩国藩の祖として誇れるものを感じた。今の日本にはこんな信念の人が政を担っていれば、国の姿が変わっていたかも知れない、と考え込む。
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つばめ

2012年04月18日 | 生活・ニュース
           

先日、2羽のツバメが軒下から飛び去った。頭の上だったので見上げると、何かの配管を基礎にした未完成の巣がある。その家は、最近リニューアルされたばかりで、外壁も新築のごとく塗り直されている。ツバメ夫婦はいい場所を見つけたものだ。でも、外敵のカラスなどからは発見されやすいのでは、そんな心配をしていると2羽が帰って来た。

今年ツバメを初めて見たのは3月の初めころだった。しかし、いつもの年に比べ見かける数が少ないように感じる。どうしたのだろうか。冬、庭に小鳥が姿を見せなかたことと関係があるのだろうか。といっても巣作りが始まったばかり、これからに期待しよう。

かっての田圃地帯に道路が作られ、建物が建ち、次第にそれが増え、町になってしまった。そんなことで、稲田に水が張られ代掻きがはじまると低空で飛ぶツバメ、子どものころに親しんだそんな風景は近所では見られなくなった。帰ってきたら周りの風景が変わりすぎ、電線に止まっているツバメ達はそんな会話をしているかもしれない。彼らの会話が聞き取れたら面白かろうに。

東日本大震災の被災地に来るツバメたち、昨年はさぞ驚いたと思う。元気に飛び交う姿で被災者の気持ちに勇気を与えてくれただろう。今年は少しだけ回復しかかった町の姿を上空からどんな思いで眺めてくれているのだろうか。秋に南へ飛び去るまでしっかり東北を励ましてと願う。

南北に長い日本、九州南部と北海道ではツバメの飛来時期に2カ月余りの開きがあるという。新幹線と同じ時速300キロで東南アジアから海を渡ってくる。彼らはあの小さな体の、何処にどんな測定能力を持ってこの日本を目指して来るのだろう。いつまでもツバメの来る環境を保たやらねばと思う。




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山つつじ満開

2012年04月17日 | 自然 季節
           

錦帯橋の桜、昨日の公式ガイドで「葉桜」と載っている。2週間あまり多く人に楽しみと喜びをくれた。これに合わせたように城山の斜面につつじが咲き始めている。自然は切れ目なく花を提供してくれる。

かって日本一の大きさを誇ったこともある美川町の観音水車デカマル君は、錦川清流線根笠駅が目じるしになる。駅前からくねくねとした道を川沿いに5キロあまり上流へ、そこでは水車がコットンコットンと蕎麦ひき仕事をしている。当然それはそばのお店で食べれる。

近くには1934(昭和9)年に国の天然記念物に指定された岩屋観音がある。弘法大師が全国の霊場を巡歴した時、楠の古木に刻んだ観音像を古生層の洞窟に安置した。これに鍾乳石の水滴が滴下し、木仏が石仏と化したもの(岩国検定資料参照)。

根笠駅からこの観音水車至る中ほどに山内神社がある。そこの三叉路を右折、すぐの三叉路をもう一度右折、少し進むと、この時期だけの桜と山の斜面全体がつつじという素敵なコラボに出会えます。花見弁当を持参の方も見かけました。そばに、錦川源流の碑が建てられており、山深く入った感じがします。1度お越しください。

(写真:美川町の山つつじ、04.15撮)
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山あいの風景

2012年04月16日 | 地域
           

知人が運転する車の助手席に乗って山間部を走った。沿線のどこも桜が盛りで市街地との違いを話しながら走る。咲くのが遅いなどと苦情を聞いた菜の花も盛りで、桜との共演をしているようでもあり、また、競演しているようにもみえる。

何度も運転しながら走っている道だが、助手席から眺めると緊張のない視界にはいろいろな発見がある。この日は枝垂れ桜、それも1本立ちの桜が多くあることに気づいた。そこにはカメラ、高価そうなそれを駆使する姿がある。話しを聞くと、毎年のスケジュールにキッチリ書き込んであるそうだ。

圃場整備の済んだ田圃に満々と張られた稲田風景にあちこちで出合った。そこだけ見ると日本の農業に問題があるの、と問いたくなる。赤や青色のトラクターが代掻きに勤しんでいる。代掻きで田圃の土をいい状態にするのが稲作の第一歩、詳しい訳は知らないが、そんな話しを思い出す。

お昼過ぎ、ひょいっと入ったラーメン屋は道沿いで商いをしていただけの理由。よって予備知識なし。町の大きさに比べ店内がて賑わっているのに少し驚いた。でもメニューはの種類は少ない。結局ラーメンを注文。特別に称える味では無かったが、もやし多めで太めん1杯の525円には満足した。

これまで、この日ほどあちこちの桜を見歩いたことはない。散り始め、満開、つぼみが残っているなどいろいろ。そんな姿の桜の木、短い花の命、今を懸命に誇っているように思えた。自分は人、しっかり生きねば、と思いながら知人と別れた。

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春の小川

2012年04月15日 | 自然 季節
           

少し動けば久しぶりに汗ばむような春の日ざしの日。前日の雨で水量の増した小川、ひょいと飛び越せるほどの川巾だが、畑を縫うように流れている。こうした光景を見るのは久しぶり、いや何十年ぶりかもしれない。菜の花や水仙が流れを見送っている。

  
こんな光景にマッチするのは唱歌「春の小川」だ。  
  
 1 春の小川は さらさら行くよ    2 春の小川は さらさら行くよ
   岸のすみれや れんげの花に    えびやめだかや 小ぶなのむれに
   すがたやさしく 色うつくしく      今日も一日 ひなたでおよぎ    
   咲けよ咲けよと ささやきながら    遊べ遊べと ささやきながら

この歌は2回改変され、年代によって歌詞が異なることを知った。1947(昭和22)年改訂版がここに載せた歌詞で、教育制度改革で、カタカナからひらかなに変わった年にあたる。私はこの年に小学校へ入学した。

子どものころは、こうした風景の中で日が暮れるまで子ども同士で遊んだ。メダカもフナも、ドジョウもカエルも、時にはニョロニョロと這いまわる長い紐のような生き物もいた。これに似た遊びをとりいれた保育園がローカルTVで紹介される。活発に自然と一緒になって学ぶ園児らのすばしこさ、何も考えずはしゃいでいるようだが、自然へ対応する工夫と下の者を助けるということを身につけているという。

ゆとり教育が終わり教科書がかなり増頁された。ということは、学ぶことが増えることになる。勉学と遊び、この相関はいつの時代も難問の一つかもしれない。さらさらとは「浅い川の水が小石などにあたりながら淀みなく流れる音」という。新教科書、児童生徒らはどんな方法で吸収していくのだろうか。





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カープ2軍の本拠地

2012年04月14日 | 地域
           

プロ野球広島カープの2軍本拠地の由宇球場は岩国市内にある。1軍に負けじとウエスタン・リーグで快進撃を続けて、14試合を終えたところで9勝し首位。先週の阪神戦3試合には由宇球場の観戦は無料という好条件があるものの、2500人の熱心なファンが詰めかけたそうだ。

球場は山陽自動車道玖珂ICを出て15分もあれば到着。ということは広島市内から1時間余りの便利な所にある。ところが地元では大きな悩みがあるという。どっと押し掛けるファンで駐車場が不足しているそうだ。

先日、試合のあった日に国道から球場へ向かう道路付近は混雑し、特に右折車は急な上り坂道で渋滞している所を通りかかった。ファンの多い日には駐車場能力の倍の車が訪れるとあって、付近の道路は大変らしい。若ゴイの快進撃が続くとこの解消は容易ではなさそうだ。

球場は瀬戸内側から行くと峠近くにある。峠を越すと田園が広がる。この地区では美味しい米が収穫さる。ファンが多ければ選手に張りが出る、戦績はよくなる、地元の人は活気づき喜ぶ、でも駐車場に悩む。この解決は地元の皆さんが解決される。選手はただ一つ、いいプレーを見せることに専心してほしい。次の地元試合は5月に入ってソフトバンク戦。
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14000

2012年04月13日 | エッセイサロン
           

「岩国エッセイサロン」は同人誌「花水木」創刊号によると、2006(平成18)年の正月、「岩国にもエッセイの新聞投稿をする仲間が増えればいい」という思いから、代表Oさんが声をかけられ5人で第1回の定例会が3月に開かれた、と載っている。

この同好会を知ったのは偶然だった。その日のメモに次のように書いている。日付は2006年4月27日。

ある方のブログから「岩国エッセイサロン」を知り訪問した。訪問の動機は、少し興味を持ったこと、少し書くことが好きだったからです。
読ませていただくうちに、購読紙の投書欄で読んだ文章、同じ会社で勤務した方の名前を発見するなど、出会いの不思議さに驚きました。
美しい文章は、表現の場への臨場感や情景を自然にかもし出す不思議さがありました。本当に市井の人の文章かな、そんな思いもしました。
毎日訪問し、皆さんの作品を参考にさせていただきながら、自分流を書いてみよう、そう感じて画面を閉じた。頭の体操、ボケ防止のため書いてみよう、一作目がこれです。

ボランティア活動の仕掛りの作業が終了したので、発足した年の9月に入会願い、それから5年半が過ぎた。毎月の例会に提出する創作に苦労しながらも、ここまで続いているのはひと口に言えば「楽しいから」にほかならない。

ホームページ(HP)の開設で会のPRがされている。ここには会員の投稿が新聞掲載されるといち早くアップされる。購読紙以外のそれはHPから知るしかない。毎朝、HP楽しみにに開く。今朝開くと訪問者「14,000」人目というきりのいい数字が並んでいた。今日は13日の金曜日だがこれで災いは逃れただろう。

午後、孫宛ての新聞を作っているということで、ある新聞社の取材を受けた。さてどんな記事になるのか、不安が残るが楽しみに待とう。

(写真:訪問者14000を示す今朝のトップページ、上側の日付は最新の掲載エッセイの更新日)
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はらはらと

2012年04月12日 | 回想
           

元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、播磨赤穂藩主の浅野内匠頭が、高家旗本・吉良上野介に対して江戸城殿中において刃傷に及ぶ。浅野内匠頭は殿中抜刀の罪で即日切腹となり赤穂藩は改易となった。これは元禄赤穂事件。この時の匠守の辞世の句はよく知らられている「風誘う花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん」。

遺臣である大石内蔵助以下、赤穂浪士四十七士が翌15年12月14日(西暦1703年1月30日)深夜に吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害した。この一連の事件は忠臣蔵として人形浄瑠璃や歌舞伎で上演され日本武士のひとつの姿として語り伝えられた。今も年末にはTVドラマととして伝えられている。

祖母は忠臣蔵が好きだった。浪士の名前とその忠誠心、討ち入りまでの苦労をよく聞かせてくれた。忠臣蔵の映画にも連れて行ってくれた。六十数年も前の白黒の四角な画面の中でのチャンバラ、その中味は記憶に残っていない。しかし、いつの間にか吉良が悪で浅野が気の毒、忠臣蔵のイメージはそうなった。

桜がはらはらと散り始めると、祖母が綴じた新聞の切り抜きを大切そうにしながら、話してくれた姿を思い出す。それは、三世代が同居しいた我が家、孫で次を担う長男の私へ、家を守るための教えだったのでは、この年になるとそんな思いがする。祖母が他界して60年になる。

(写真:お堀に浮かんだ桜の花びら)
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満の話し

2012年04月11日 | 生活・ニュース


「満」この字を見ると満ち足りた気持ちになるは私だけではないだろうと思う。子どものころは試験が「満点」になれば自分はもとより親も喜んだ、と思うのだが。この時期の満は「桜が満開」だろう。昨夜からの雨でその満花の桜が痛められたのではと心配だ。

市内山間部では200ミリ余り降り、ダム湖が満杯になり放流がはじまった。市内でも多いところは100ミリに達している。予報通りだが夕方近くなり薄日が差しさしはじめた。

満を頂く語を並べてみる。満員、満悦、満開、満額、満株、満願、満喫、満月、満載…、と辞書に並んでいる。そこには「いっぱいになる、みちる、いっぱい、ゆたか」など満の字の意味に続けて、その場その時に喜ぶ人の顔や姿が想い描ける。漢字の不思議さが面白い。

満ち満ちた気持ちでいつも過ごせたら幸いだが、時には「怒りに満ちた気持ち」にもなることもある。桜満開の錦帯橋は桜を愛でる人らは満足そうな顔に満ちていた。しかし、地球上には食を求める人が数多くあり、これらの人らは満腹という喜びを味わえないでいる。全世界の人が満腹感を感じる、そんな地球になって欲しい。

(写真:桜満開の錦帯橋畔)
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