岩国南条踊は1976(昭和51年)3月、県の無形民俗文化財に指定され、岩国南条踊保存会がその保持者となっている。
黒紋付の着物に堅縞の袴を着用、白のたすきに白足袋、刀を指して鉢巻し、手に大ぶりの団扇を持つ。鉢巻には月形の飾りがつき、大先と殿に限って鍬形がつく。右まわりに輪を描いておどる。謡い手は円陣の中央に並んで歌う。
子どものころ聞かされた由来。吉川元春は伯耆の羽衣石(うえし)城(城主:南条元続)を攻撃したが、容易に落ちなかった。そこで一計を案じ、強兵をすぐって踊り子に仕立てて、羽衣石城に踊り入らせ、南条方の油断をついて切り込み、城を攻略した踊り。踊り装束の下は戦装束で南条軍の油断を突いたという。1578(天正6)年のこと。
2つ目は武士も民衆も共に多数戦没し、飢えに苦しみ惨状を呈したので、追善の施餓鬼供養をしたときの精霊踊、3つ目は投降した南条家の武士が敗戦前まで楽しんだという踊りを吉川元春に供覧させた事から伝い残されたという説もある。南条踊りはよその地でも伝え残されている。
岩国藩三代藩主吉川広嘉公の銅像の前で10数人の児童が踊る。児童数の減少だろうか踊り子の人数が半減しているように思った。真剣で堂々とした舞に円陣の観衆から大きな拍手が贈られた。広嘉公はどんな思いで眺められたろうか。
(写真:吉川広嘉公銅像前での南条踊り)
岩国の南条踊りにそんな由来・・・
これからは、この踊りを見るときに思い出します。
りりしい姿の子どもたちは、この日のため一生懸命練習したことでしょう。
このような歴史・背景など多くの人に知ってもらうためにも、岩国検定、リキ入ります。
練習はかなり厳しいと聞いたことがあります。何時までも伝統を守って欲しいものです。
本当の由来はどれなのでしょうか、検定問題で問えるようにしたいものです。