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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

サンシュユの花

2016年03月19日 | しっちょる岩国


 活気を失って寂しく成るさまを「火の消えたような」と言う。車で動き回る知人は表通りばかり走る。その表通りに並行する道路、その昔は銀座通りとも呼び賑わった商店街、そこを久しぶりに通り感じたことは「火の消えた通り」だったと話す。

 呉服屋、本屋、靴屋、時計店、美容院、果物屋、ガラス店、家具店、薬屋、散髪屋、陶器店、自転車屋、履物屋、布団屋、傘屋など、子どものころの記憶にはあるが、今は撤退や閉じてしまった店の数々を知っているだけに、知人の昔ながらの表現に改めて納得する。商店街の中央に小さいけれど銀行の支店もあった。

 「3月末を持ちまして閉店いたします。長らくごひいきになりありがとうございました」と店頭に閉店の挨拶が張り出された。少ない人通りに拍車がかかる。最近70年続いた店を閉めた同期の話だと、大型店の品質に勝る商品も個人商店という区分けで商売にならない、と悔しい胸の内を話してくれた。

 そんな通りのある家の玄関先に、早春の花木として、梅と同じに庭や生け花に重宝される山茱萸(さんしゅゆ)の黄色い花が玄関横に活けられている。ここの家はかっては大きな店構えだった。山茱萸の花は別名「春黄金花(はるこがねばな)」と呼ばれ早春にふさわしい花という。行きかう人は少ないが、足を止めて眺め笑みして去る人に活けた人の思いが伝わる。人情が残る通りの昼下がりだった。
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古文書が読めたら

2016年03月15日 | しっちょる岩国


 史料展で多くの古文書が展示されるがその紙は褐色に色変わりしている。長い巻物にしたためられたひと文字、1行が後世の貴重な史料に成ることをどこまで推察されていたか分からないが、書き残されている墨痕は歴史を伝える使命を帯びているかのように鮮やかな筆跡で残っている。

 それらを眺めても眺めても、その素養が無いので最初から根を上げていて判読に苦しむことはない。添えられた現代語訳を読みながら、少し知っている史実を展開させては楽しむ。あるいは名だたる武家と岩国藩の繋がりとその由来なども教えられる。

 最近は古地図をたどる旅への誘いも多く見受ける。古文書が読めるとそんな旅もより興味が深まるだろう。「古文書を読もう」という講座が盛況と聞くが、こうした背景があるのかもしれない。歴史を楽しむ知人がそんな講座に通い始めた。もともと歴史に素養のある人で、一度話を聞いて見たい。

 写真は天保9(1581)年10月に書かれた吉川経家の遺言状。経家は福光城主(現在の島根県太田市)、天保9年に鳥取城主として入城、羽柴秀吉の兵糧攻めにあい200日で開城を余儀なくされた。経家は自らの命の引き換えに籠城の人々の助命を申し出て、切腹した。父・経安、吉川広家(当時は経言)、子ども宛の遺言状などが並ぶ。どれも一門の幸せを願う内容に尽きる。経家の英魂を弔うため、昭和14年弔碑が建立された。
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父元就の教え忘れず

2016年03月14日 | しっちょる岩国


 史料館の展示品はお宝鑑定とは異なり、すべてが史実に基づいた展示品ということで安心して観ることができる。開催中の「吉川元春とその時代展」にもいくつか歴史を秘めた兜や刀剣類が展示されている。吉川元春所用の墨塗筋兜(写真)、吉川広家所用の三巴用具、山中鹿之助所用の鉄錆十二間筋兜、吉川元春所用と思われる鞍鐙など、直ぐにでも身につけられる感じがする。

 刀剣類では吉川元春所用と伝わる短刀は22.7㌢、備前国長船五郎左衛門尉清光指差、銘には天文2(1533)年2月とある。脇差は46,3㌢で、織田水軍を破り大阪の本願寺に兵糧を運び入れることに成功したとして吉川元春が本願寺光佐より拝領の物。槍につては長い次のような解説がある。

 天正10(1582)年、毛利と織田との和睦(備中高松城の戦)をすることになり、交渉に入った。そこで、毛利側から2人の人質を出すことが決まり、広家(経言)と元総(毛利元就の9男)が選ばれた。翌年2人は秀吉のもとへ滞在するが広家は一カ月で帰国が許された。その際に秀吉から拝領した品、鋭いその穂先は戦国時代の厳しさを感じさせる。

 元春は毛利元就の次男として生まれた。吉川家の養子となり15代当主となる。弟小早川隆景とともに毛利両川」と呼ばれた。元春にとって元就は父としても主君としても恐ろしくひたすら命令に従った。岩国に入封した三男広家に「元就の孫であることを忘れるな」「子孫を大事にしろ」など元就の名前を出して諭したという学芸員の解説が戦乱の世の生き方に思いを走らせる。
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元就の訓戒状

2016年03月13日 | しっちょる岩国


 追伸、忘れたことがあれば、重ねて申します。また、この書状の中にも脱字もしくは「てにをは」の誤りがあるかもしれませんので推量して願いをくみ取ってください。隆元・元春・隆景が三人の心持ちをよく話し合い、協力することは毛利家の為に永久に大慶至極のことです。(現代語訳より)

 毛利元就は弘治元年(1555)に厳島合戦で陶晴賢軍に勝利し、その後防長平定を開始した。元就は一代にして中国地方時期に勢力を拡大した。その過程の最中、弘治3年、元就は3人の息子(隆元・元春・隆景)に宛てた訓戒状を記した。その書状は、国指定重要文化財として毛利美術館に所蔵されている。吉川家に代々伝わっている書状の写しが公開された。その書き出しが冒頭に記した内容、心配りに感心する。

 「『毛利』という家名を末代まで全力をあげて継続するように努力することが大切」と初めに教え、元春・隆景の二人は吉川、小早川という他家の名を相続しているが、毛利の二字を粗略に思い、また忘れることがあってはならない、三人の間が少しでも疎遠になれば、必ず三家は滅ぶとし、三人の交わりはどうあるべきか、など10数項目にわたり記されている。

 武将としての戦功を誇ることなく「これまで多くの人命を失い、この因果は必ずあると内心いたく悲しく思う。各々方も人命を大切にすることが肝要」と教える。この内容は戦国の世のことではあるが、家族の絆すら疎遠な今の世を見直すときの参考になる教えがある。色変わりした書状の現代語訳を読みながらから、よい事に新古の違いはないと改めて思う。
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一括出土銭への夢

2016年03月12日 | しっちょる岩国


 発掘調査中だった中津居館については、文化財保護巡回展の感想として2年ほど前に書いている。巡回展の目玉である「一括出土銭(いっかつしゅつどせん)」については貴重な史料であり、専門家による保存処理の上公開されることで楽しみにしていたが、徴古館で「中津居館跡 発掘調査報告展」で展示された。

 一括出土銭は65㌢ほどの備前焼の甕(かめ)に、推定4~5万枚と見られる大量の銭が収められたもので、備蓄していたものが何らかの理由でそのまま埋まったとみられる。甕は還元焔焼成(かんげんえんしょうせい:酸素を遮断して焼成)という備前焼で、普段目にする赤茶色ではなく、青っぽい灰色をしている。その制作時期は13世紀末~14世紀初めと見られる。

 甕の中の銭は、幾つかの塊にまとめられ、最上部に見える2つの塊は約1万枚の銭にわら紐を通してまとめた「十貫文緡(じゅっかんもんざし)という当時の流通形態のまま納まっている。さらに十貫文緡が2組、ほかに8千枚をまとめた8貫文などを足すと3万8千枚は確実で、見えない部分を合わせると初めに記した枚数になるという。高額な流通銭が一カ所で発見されるのは珍しい、とある。

 甕から一部取り出し銭の種類を判読したところ、中国の元の時代の1310年から鋳造された「至大通宝」があり、甕が埋められた時期は14世紀中頃(1300年代中頃の南北朝時代)と見られるという。この居館は14世紀の前半、岩国を拠点にしていた大内氏家臣の弘中氏であることから、弘中氏一族とする見方が有力とされ、その大きさは大分の大友氏など守護大名クラスの居館に匹敵する大規模なもので、どのような経緯で築かれたか謎の部分もあり、新たな発見が楽しみだ。
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岩国今昔 2

2016年02月05日 | しっちょる岩国

 

 昭和60年代初め、今は廃刊になった地元紙に連載された「岩国今昔」という記事がある。内容は岩国の明治から昭和時代前半にかけての由緒ある建物や風景、生活の様子などが絵とその説明が簡潔な文で載っている。記憶にはあるが今では見ることの出来ない懐かしい光景も多い。
 
 この切り抜きを保存されている人のご好意で110枚余を複写した。別保存で原画を写されたカラー写真もあり貴重な資料として大事に残したい。

 6年前、ご当地検定試験に関わり地元の歴史を学んだ。その中で、由緒ある故郷の姿が、社会の変化とはいえ、それに連れ姿は変わり、やがて消滅するのではと思うようになっていた。

 通学で渡った橋とその袂にあった警察署、大正時代に建てられたモルタル作りの図書館、温もりの伝わる木造校舎、石柱の立つ病院など絵ならではの優しさを感じる。それらは現在のように写真で残せる時代ではないころの郷土の姿の一端を教えてくれる。

 藩政時代に城下町と呼ばれた地域も、時代の波には逆らえず活気は薄れた。かっての賑わいを取り返そうと、最近始まった新しい活動に期待をしている。
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悪名残すとも

2016年01月28日 | しっちょる岩国


 戦国時代の下克上を負けた側から描いた歴史小説「悪名残すとも」(吉川永青著 角川書店)は、山口を本拠とする大内氏の筆頭家老、陶隆房(晴賢)の「下克上をした自分が下克上で倒される」ことを題材にした作品。物語は1540(天文9)年、陶隆房が1万の兵を率いて、尼子氏に責められる大内氏配下の毛利元就の援軍に参じた時の出会いから物語は始まり、1555(弘治元)年10月、厳島の浦で辞世の句を残して完結するまでが作品になっている。

 大内義隆は尼子の本陣・月山富田城の戦いにおいて大敗するとともに養子の晴持(はるもち)を失う。この時より武断派の隆房との関係に齟齬が生じる。これに乗じた文治派の台頭とともに義孝は戦離れする。 やがて舞や連歌、祭事に傾注し、民には天役として再三にわたり臨時に賦課をかし庶民の生活苦を助長させた。隆房はこれに耐えていたが、大内家を再興し永らえるため思料したすえに主君・義隆を討つにいたった。大内への忠節一筋が下克上と称されるに至る。

 下克上とは、下位の者が上位の者の地位や権力を犯すことを指す。隆房の策は一途に大内家の再興と大内家が西国での雄ならんと欲するためで、己が天下を目指す策は無かった。この下克上といわれる騒乱で、隆房に反感する勢力が結集、厳島の戦いとなる。これも輝元の謀叛がなければ隆房(この時は晴賢と改名)の大敗はなかった。厳島合戦の終わり、晴賢と義兄の契を結んだ吉川元春が刀と槍を交える場面は緊張させる。

 物語には、ここ岩国に関係する吉川家存廃に関わること、元就の次男元春の吉川家養子縁組のいきさつ、岩国を統治していた弘中隆包(ひろなかたかかね)など岩国の歴史を知る上で興味ある個所がある。玖珂町にある「鞍掛合戦千人塚」は、毛利元就が厳島の合戦の後、大恩ある大内氏の周防・長門の2国に侵攻した最初の合戦の地に当たる。約460年前の戦、敗れはしたが城主・杉隆泰の戦いは鞍掛城まつりとして今に受け継がれている。

 読後、1600年、戦国時代の終わり関ヶ原の戦いで、毛利を守るべく知略の限りを尽くして奮戦したが、小早川秀秋の寝返りで破れた吉川広家と相通じるものを感じた。
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岩国今昔展

2016年01月06日 | しっちょる岩国

 
 「岩国今昔展」がJR岩徳線の西岩国駅展示室で開かれている。会場には昭和61(1986)年11月から同62年5月まで地元紙の防長新報に掲載された「岩国今昔」の記事を中心に、100点余りの懐かしい光景が展示されている。記事は歴史に残る市内の各所の建物や光景が絵と写真、それの解説文でまとめてある。記事の存在は知っていたが、まとまって目にしたのは初めて。

 「西岩国駅と機関車」のタイトルの解説。昭和4(1929)年4月に岩国駅として誕生したが、同年、西岩国駅と改称された。当駅は市内錦見六丁目にあり、岩徳線の主要な駅のひとつである。かって重要な交通機関であった地元の電車は、岩徳線の開通とともに開業から20年目に廃止された。この絵は昭和初期のもので中学校の生徒の姿も見られる。当時の電車を廃止に追いやった岩徳線も、今ではマイカーに押され民営化にしごかれている。ここでも歴史は繰り返されている。

 岩国検定実行委員会の会員として学んだり調べたことを思い出しながら展示品を眺めた。木造の臥龍橋とそのそばに建つ岩国警察署、同じく木造の岩国病院、公園に変わった旧制岩国中学校、爆撃直後の岩国駅、母校の小学校の木造の玄関、あげれば際限なく続きそうな岩国の姿を知る。錦帯橋畔の深川や半月庵などが変わらん姿にほっとする。今昔の感、隔世の感、そんな言葉を思い出しながら見入った。

 「今昔の感」と「隔世の感」、前者は「今と昔を思い比べて、その相違の甚だしいことから起こる感慨」、後者は「変化・進歩が急で、時代が甚だしく移り変わったという感じ」とニュアンスが異なる。感慨は物事に感じて心を動かす、身にしみて感ずること。感じは物事や人に触れて起る思い、感想、印象。時間があればもう一度見に行ってみよう。
 
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文化の灯り消える

2015年12月16日 | しっちょる岩国


 「総合雑誌21世紀」といえば日本の冠たる雑誌と思われそうな誌名、その発行は「地方文化の会・岩国(発足時は岩国地方文化連盟)」という、同人誌の発行を試みた集まりで「ただ雑誌を発行するだけでなく、その他にもいろいろな文化活動をしよう」といことから発足、昭和44(1969)年4月創刊号が発行された。

 この雑誌について、在ることは知っているだけのことだった。数年前、投稿の機会があり応募して掲載され、入会を勧められ入会した。あるとき、編集後記を書いてくれ、という青天の霹靂のような話をいただいた。身分不相応と丁寧にお断りしたのだが、受けないと発行が遅れる、そんな言質にも負け、3年間に渡って稚拙な読後感を書かせてもらった。毎回、編集責任者からその感想を直接聞くことができた。二度とない貴重な経験に今では感謝している。

 そんな「21世紀」の秋季号の発行を心待ちしていた。今号も編集責任者が直接持参、その表紙に「最終号」とあり驚く。最終号となったいきさつは編集者や発足から携わられた皆さんの文面から理解できるが、岩国の文化の灯が一つ消えることの寂しさを感じる。会員のほとんどは市内居住者、皆さの思いも同じだろうと思う。

 創刊号編集後記の「活動はあらゆる党派、流派を超えて、偏見を離れて、広い視野の下に展開されなければなりません。われわれは、いかなる圧力にも屈せず、岩国地方の文化発展に尽くす覚悟です」とその初心が120号(最終号)に転載されている。46年前、21世紀は大風呂敷という意見もあったが長くつないでいく意味で決まったという。22世紀へつなぐ新しい芽生えのあることを願い、これまで力を尽くされた関係者皆さんに感謝しながら最終号を読んでいこう。
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大判焼き閉店

2015年12月15日 | しっちょる岩国


 国の名勝・錦帯橋から大明小路を歩いて5分あまり下ると、昔の岩国の中心街だった新町のロータリーにでる。付近には岩国西郵便局、山銀に広銀、西中国信金の支店がある。いくつかのレトロ建築も見られる商業地域がある。付近にある昔ながらの浅尾菓子店の懐かしい店構えは旅レポートにもよく登場する。

 ロータリーの中央付近に昭和レトロの香りがする木造洋館の長屋がある。その1軒に親しまれた大判焼きの店があった。先日、作業着の男衆のが出入姿を見て改装かと思いながら通り過ぎた。張り紙は改装中お休みのお知らせと思っていたら「閉店」のお知らせだった。そして50年、お世話になりましたとある。

 当初は丸型だったが大判型になったのはいつ頃からだろう。小麦粉の生地を金属製の焼型に流し込み餡を包み込んで焼く。店の看板は「名菓 大判焼」の簡素な姿だが、焼き上がりの熱々の味は何度食べても美味いと思わせた。特に冬の寒い日には一段とその味が増したように感じていた。

 閉店の訳は分からないが、地域で親しまれた老舗がそうなる厳しい状況があるのだろう。店の前にはレトロバス「いちすけ号」も停まるバス停もあるが、乗降客のほとんどない停留所でお店の手助けにはならなかっただろう。また一つ街から懐かしいものが去っていく。小さな覗き窓から、餡の白(クリーム)幾つ、赤(小豆)何個、と注文したことを思い出す。閉店を知っていたら食べ納めもしたのに、そう思うが残念だが間に合わない。長い間ありがとう。

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