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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

ライオンの墓 2

2016年08月13日 | しっちょる岩国


 団長は動物たちを助けるために檻の戸を開けるように命じていましたがどれだけ開いたかはっきりしません。檻はだんだん下流に姿を消しました。急を聞いて駆け付けた消防団の人も水の勢いにどうすることもできませんでした。13日、朝から天気は回復、演劇団と消防団の人は力を合わせ動物探しを始めました。

 臥龍橋にサルの檻が掛かっていてロープで檻に近づき助けた。大蛇は妙見様の下の山で発見、演劇団員が連れ帰った。そのほかの動物達は濁流にのまれてしまいました。大島に流れついた檻もあった。そんな中ライオンの屍が見つかった。人々はライオンを川西の阿弥陀閣へ運び、8月18日に土葬、川西の人々がお金を出し合い畜魂碑(ちくこんひ)を建てライオン以外の動物の霊も慰めました。話はここまでです。

 阿弥陀閣は1979(昭和54)年4月29日焼失し廃堂となった。阿弥陀閣は、ルース台風(1951年)で臥龍橋が流失し登校できなくなったとき、本堂で地区の児童が学習したがライオンの墓の話は知らなかった。先日、跡地を訪ねたが整地(写真)されそこに、かっての川西地区住民善意作られた畜魂碑は見当たらなかった。

 阿弥陀閣の開基は7代藩主吉川経倫(うねとも)が1802(享和2)年に創建したとされる。本尊は聖徳太子が作られた「阿弥陀如来像」だが焼失し廃堂後は市内の某寺に収められていると記録されている。阿弥陀如来も阿弥陀閣も数奇な運をたどったようだが、私には検証の能のないことを残念に思う。動物たちの霊を慰めるため畜魂碑を建てた地域皆さんの優しさを知ってもらいたい、そう思いながら写させてもらった。
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ライオンの墓 1

2016年08月12日 | しっちょる岩国


 子どものころこんな話を聞いていた。ある年の夏、錦帯橋の川原でサーカスが開かれていた。台風が来てサーカス小屋は流された。そこにはライオンなど珍しい動物もいたがみんな流されて死んだ。大蛇は下流の臥龍橋を上って助かったがどこへ行ったか分からない。大きな抜け殻がどこかにあるかもしれん。大蛇については半信半疑のまま70年近く過ぎた最近、この話を「ライオンの墓」(写真)として綴った文章に出会った。概略を写させてもらう。

 昭和5年の夏休みも暑い日が続いていた。夕方になると長い腰掛けを家の前に持ち出し、世間話をしながら夕涼みをして過ごしていた。8月になり錦帯橋川原に山元動物演劇団がやってきた。娯楽の少ない時代、絵や写真では見ていても、本物のトラやライオンを見たことのない人が沢山いました。11日から始まった初日には遠くから歩いて見に来る人などで満員となりました。

 12日、昼の部を終えたころに南の湿った風が吹きはじめ天気がおかしくなってきました。雨が降り始めたが予定通り開演しました。間もなく、水をうつすような大雨が小屋の屋根を叩き始めた。風も強さを増し、テントの隙間からも水しぶきが舞台に落ち始めました。演劇団はプログラムの主なものを上演し早めに終了しました。見物の人たちは濡れ鼠のようになって帰って行きました。雨は衰える様子もなく降り続きます。

 青く澄んでいた錦帯橋下の水も、だんだんと濁り増水し始めました。これまで見たこともない速さで水は小屋に迫ってきます。団員は、沢山の動物たちを檻ごと移動させる作業を大雨の中みんな必死に続けす。しかし、小屋は倒れ下流へ流され始めた。一緒に動物たちの檻も流れ、檻の中から動物たちの「ウオーン、ウオーン」と助けを求める声が聞こえます。(ライオンの墓 2へ) 
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名勝設立の石碑

2016年08月07日 | しっちょる岩国


 「名勝 錦帯橋區域是ヨリ下六十間 内務省」と刻まれた石碑。その側面にも裏面にも刻みはない。石碑の説明も見当たらないが、刻まれた文字から推測する。錦帯橋は1922(大正11)年3月に国の名勝に指定された時に建てられたものであれば、90年以上の風雪にさらされたことになる。場所は刻印通りで錦帯橋上流60間の横山側に建っている。

 錦帯橋は日本三名橋、あるいは三奇矯の一つとして我が国を代表する木造橋で、5つの太鼓橋が200メートルの両岸を繋ぐ。藩政時代、居館と上級武士の屋敷や町屋などを構成する岩国城下町は錦川を挟んでいた。幾度となく橋は流失したため洪水で流れない橋を架けると、3代藩主吉川広嘉の時代に調査・研究し、錦帯橋は1673(延宝元)年に架橋された。

 錦帯橋は内務省時代の「史跡名勝天然記念物保存法」により指定を受けた。今の文化財保護法に当たる。名勝の風景のすぐれたところは名所とほぼ同じ意味だが、学術上、芸術上、鑑賞上価値の高いものなどが史跡・名勝・天然記念物に指定される。錦帯橋は学術・芸術・鑑賞のどの分類でも価値は高いと思う。

 錦帯橋の流失、改修・建て替えなど長い歴史を見てきたであろう石碑を最近まで見落としていた。1年で最もにぎわう桜の季節は茶店の裏側に立つ。鵜飼の季節には大きな桜の木の葉陰になり、日の目はあまり受けず人の目もそそがれない、そんな位置に立っている。それでも黙って歴史の息を繋いでいる。下流側にも名勝・錦帯橋の石碑はある。何か刻んであるかもしてない、注意してみよう。
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橋の日

2016年08月04日 | しっちょる岩国


 今月11日は「山の日」として祭日が増えた。海の日があるから山の日も、そんな理由で増やしたら語呂合わせも含め年中祭日にできるかもしれない。そんな語呂合わせで今日は「橋の日」、30年前に宮崎県発で今は47都道府県に広がっているそうだ。数年前まで橋の日は知らなかった。同じく語呂合わせで今日は「箸の日」で、こちらは民俗学者の提案という。東京都千代田区の日枝神社では箸供養が行われると載っている。

 橋があれば道もと調べると、国土交通省が1986(昭和61)年に8月10日を「道の日」と制定したとあるから1週間後のことだ。道は生活に欠かせない重要な社会資本なのでその意義や重要性に関心を持つためという。知らなかった。ならば「川の日」もあるのではと思いクリックすると、平成8年から7月7日を川の日とした。天の川にちなんだというが発想はことらも国土交通省。これも知らなかった。

 名勝・錦帯橋周辺には何本も「橋の日 8月4日」の幟が立っている。この暑さ、観光客も少なく国交省のねらいとする関心への度合いはいかほどだろう。錦川の下流は三角州でもあり橋は生活に欠かせない重要な社会資本、岩国城から幾つ見えるだろう。錦城橋(以下橋を略)、錦帯、臥龍、愛宕、新愛宕、ここから三角州に係わる橋で今津川で南バイスの新橋、大正、寿、新寿、連帆、新連帆、門前川系は南バイスの新橋、門前、愛川など、ほかにJR鉄橋や米軍専用橋もある。

 この中には愛宕橋のように古き昭和を忍ばせる橋、その上部を交叉する車専用の新愛宕橋など時代の変遷も感じる。また、錦帯橋上流には3つの沈下橋があり地域住民に欠かせない重要な橋もある。錦帯橋流失の翌年、臥龍橋が流失し孤立状態、しばらくして渡し船で通学再開の思い出がある。清流と豊富な水量を橋上から見ていたがこのところの水量の激減が気になっている。
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宮本常一展

2016年07月26日 | しっちょる岩国

 民俗学者宮本常一(1907~1981年)は山口県周防大島出身。柳田国男に師事して民族学を学ぶ。全国を隅々まで歩き、そこに生活する人々の日常や仕事、街並みやその風景などを愛用のオリンパスペンSで撮りためた。その写真は10万点に上るといわれる。周防大島には記念館がある。8年ほど前にそこを訪れ膨大な資料に驚き見入ったことを思い出す。

 「宮本常一が見た錦川流域」として、宮本常一が撮影した錦川沿いの写真展が徴古館で開かれている。撮影は昭和38年から同41年頃に撮られたモノクロ25枚が展示されている。それぞれ同じアングルで撮った現在の写真も並べてある。南桑隧道や本郷口バス停周辺、広瀬商店街など往時を語るにふさわしい写真。岩高の校門、旧出会橋などは時代の変遷を感じさせる。

 大島の記念館に展示されていた写真は庶民の生活が撮られ、戦前戦後の生活実感が伝わる写真だった。それはプロ写真家のようにある部分を強調するようなものでなく、両目で普通に見える風景や光景だったことが印象に残っている。残念なのは、今回の展示には錦川沿いで暮らす人の姿が1枚もなく、風景から息吹が伝わらなかった。

 興味を誘ったのは「生見川ダム水没地域民俗資料調査の予備調査記録」。生見川ダム(通称 山代湖)は1985(昭和60)年春に完成した。県土木の知人が責任者として建設に携わっており苦労話も聞いたが、民族学的な事柄は記憶していない。予備調査には筏流し、山仕事、川舟、カニ漁、日稼ぎなど今は聞かれなくなった仕事の話、各集落の変遷など、手書きで青焼きの資料は生見地域の記録だ。青焼きを全頁撮った。ゆっくり読んでみよう。
 最終頁に載っている歌の一つ。「高イヤマカラ 低イヤマミレバ ウリヤナスビノ花ザカリ アレハヨイヨイヨイ」
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龍之介の実父

2016年05月31日 | しっちょる岩国


 小説家・芥川龍之介の名前を知らない人はおそらくいないだろう。龍之介の実父・新原敏三は現在の岩国市美和町生見の出身ということはどうだろうか。明治初めに上京し、元幕臣芥川家の3女と結婚して3子を得た。末っ子の新原龍之介は、幼いころ母が死亡したため芥川家で養育され13歳の時芥川家の養子となった(いわくに通になろう参照)。新原家の菩提樹は美和町の真教寺にあり「本是山中人(もとこれさんちゅうのひと)」の碑がある。

 その実父・新原敏三は上京の前、第2次長州征伐(四境の役)で征長軍(幕府)と戦っていたことを知った。史料では新原敏三でなく大村源次の変名で長州藩諸隊のひとつで1864(元治1)年結成の「御楯隊(みたてたい)」に加わっている。御楯とは天皇を守る楯、祖国の楯という意味がある。

 1865(慶応1)年の7月、厳島の対岸に位置する松が原を出発し中山峠で従軍した。御楯隊260名余に対し幕府軍、和歌山藩、彦根藩あわせての軍勢はその10倍を超える規模、大苦戦であったが兵卒の奮戦で何とか持ちこたえたという。大村源次こと新原敏三は左足くるぶしに貫通銃創の深手をおう。

 「本是山中人」は1917(大正6)年、羅生門の出版記念会で求められて揮毫したという。このころ岩国を訪れており、錦帯橋から父の生誕地に当たる上流を眺め、山の向こうにある父の故郷に思いを致したことばではないかといわれる。また、作品の中で「維新の革命に参じた長州人の血も混じっている」と単なる江戸っ子でないことを書いている。新原敏三は、百姓一揆の先駆け的な例とされる「山代慶長一揆」で11人の庄屋が犠牲となったがその中の一人、生見村庄屋:新原神兵衛の子孫という。
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芸州口の戦い

2016年05月29日 | しっちょる岩国

 今年は第2次長州征伐(ここ山口県では「四境の役」と呼ぶ)から150年、お隣の和木町では記念行事が行われている。この日は、「和木町四境の役150年祭記念シンポジュウム」を中心に多彩な行事が開かれた。記念展示では、役の貴重な史料の数々が展示され戦の厳しさを忍ばせる。参加目的の一つ「四境めし試食会」、限定配布のため列に加わる。竹の皮(もどき)に包まれた2個のむすび、戦のはざまに頬張ったでだろう「もぶり飯」をかみしめ味わいながら頂いた。

 四境の役は小倉口、大島口、石州口、芸州口の四カ所の国境で開戦された。和木町はその芸州口に当たる。戦のいわれを残すいくつもの跡がある。砲台跡を示す石柱はさくら公園に立つ。植え込みに隠れているが「四境之」の上部の3文字が見える。彦根藩士竹原七郎平の異境での死を悼み墓標と碑文が安禅寺に建つ。役の祭、御用宿となった浄蓮寺は町内の奥まった所にある。開戦の端緒となった封境之地碑、その向かいに竹原七郎平徒渉地点の碑が立つ。その上流、岩国市小瀬地区には長州藩遊撃隊士の墓が並ぶ籌勝院がある。

 シンポジウム「幕長(四境)戦争 芸州口の戦い」は全身を震撼させる四境太鼓の演奏で始まる。開戦に至った世界情勢とこれに対する幕府と諸藩の事情、四境それぞれの戦い方、長州軍を勝利に導いた縦隊・横隊・散兵の策、など7人の専門家の史料にもとづく解説は、眠くならずに聞け、参考になった。

 歴史を単に歴史として学ぶのでなく、「歴史の上にその時が存在している。先を見据えるとき今の状態がどういう歴史の上に在るか検証すること」、こんな趣旨の発言を複数のパネリストがされた。政治をつかさどる人らに聞いてほしい内容と思う。もう一つ、岩国市でもこのような催しが開かれることを願うというコーディネーターの発言に同感だ、拍手を送る。久しぶりの知人にも多く会えるなど有意義な一日だった。
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赤禰武人伝

2016年05月27日 | しっちょる岩国


 名勝・錦帯橋近くにある岩国徴古館は幕末の志士赤禰武人(あかねたけと)の生涯を漫画で紹介した。冊子は「幕末を駆けた一陣の風 赤禰武人伝」でA4版20頁。幕末の志士・赤禰武人その人を知る人は多くないだろう。だが妙円寺僧侶・月性、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄端などと共に時代の夜明けのため奔放した一人として国中を動き回った。

 冊子は15歳の秋、1853(寛永6)年に生誕地の岩国市柱島から一艘の小舟を漕ぎながら誰にも告げずに島を離れるとこから始まる。月性や松陰に学び広く活動する中で次第に才を認められ、高杉晋作発案の騎兵隊第三代総督に就く。第2次長州征伐(四境に役)を防ぐため薩長盟約に奔走するも、高杉晋作らの誤解を生み、生誕地で藩役人に捕らわれ1866(慶応2)年斬首、享年29歳。獄衣の背中に「真似偽 偽似真」記した、その意は「真実は偽りに似て 偽りは真実に似る」。

 武人の死後1カ月半、薩長盟約は成立、幕府は長州征伐に失敗、明治維新へ向けて時代は動く。高杉晋作は赤禰武人と同じ29歳で没した。冊子の終わりに晋作が残した「武人の心情を洞察すること能わず、其の生命を保たしめざりしは遺憾とするところなり」という記録があり武人の名誉回復になる。

 赤禰武人没後150年を機に作成された冊子。各ページの下段に登場する人物紹介、安政の大獄、英国公使館焼き討ち、禁門の変などの史実が簡明に記されていて、私のような素人にも分かりやすく読みごたえもある。冊子は「歴史には高杉晋作のような英雄がいる しかしその陰で志をおなじくし、必死に働きながら、非業の死を遂げた者も多い 赤禰武人もその一人であった」と結ぶ。現世にも通じると味わう。
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シロヘビの館

2016年03月28日 | しっちょる岩国


 爬虫類が好きな人は少ない気がする。中には話しだけでも額に皺を寄せる身近な人がいる。それでも国の天然記念物に指定されているヘビ、といえば額の皺もゆるめてもらえるかもしれない。その爬虫類は「岩国のシロヘビ」、1972(昭和47)年にシロヘビそのものが天然記念物に指定された。

 シロヘビは突然変異で生まれた体が白いアオダイショウ。全身は白く光沢がある。成長すると長さはおよそ180㌢、胴回り15㌢ほど、目はルビーのように赤く、その姿は美しく神秘的、性質はおとなしく、人に危害を加えることはない。昔から岩国だけに集中して生息する貴重な生き物、と岩国シロヘビの館の案内で紹介されている。

 もう少し付け加えると、突然変異した白化が遺伝的に安定している例は世界的に見当たらず、大変珍しく貴重なものである。その棲息地は1924(大正13)年にヘビ本体より早く国の天然記念物の指定を受けている。食べ物はネズミ、カエルなど。商売繁盛・開運の守り神様と言い伝えられ白蛇神社もある。(この項は「いわくに通になろう」参照)

 先日、そんな「シロヘビ」ついて、資料や模型の展示、イメージ映像、ゲームや体験で楽しみながら理解してもらおうと「岩国シロヘビの館」が新装オープンした。生体展示では目の前で動く姿が、不思議コーナーでは生態の数々が、物語コーナーでは昔から伝わる出来事や伝承を学べる。従来の館に比べると学べる施設に変わった。場所は岩国城ロープウェーの山麓駅前。
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クローン桜

2016年03月25日 | しっちょる岩国


 報道では開花宣言された錦帯橋たもとの標準木、もう一息というのは素人の感じ。錦城橋上から手の届く桜の木には合わせて数輪が、先発か様子見のように咲いている。それでも弁当を開きくつろいでいる何組かもあり、春がそこまでやって来ているこの風景もいいものだ。

 染井吉野3千本といわれる錦帯橋畔とそれに続く吉香公園の桜。その中には、記録から判明した日本で2番目に長寿桜が数本ある。詳しい説明札が立っており根本を踏んで硬くならないようロープが張られている。今年はどんな長寿桜を見せてくれるだろう。

 さらに珍しい桜の存在を知った。その桜は吉川史料館の門を入ったところにある。格別の標示などはないが、大きな「みみずくの手水鉢」レプリカのそばにある。学芸員さんのブログによればその桜の由来はこうだ。「吉川広家が広島藩浅野家の武将・茶人である上田宗箇へ贈った桜のクローンの苗を平成18年に植えたもの。ここまで10年、長かったです」。岩国城を背景に咲くその花姿は歴史を忍ばせるに恰好の地と思う。

 みみずくの手水鉢は、桜の返礼として1625(寛永2)年に上田宗箇が吉川広家に贈ったもので、紅葉谷公園「山のお塔」にある広家の墓のそばに置かれている。吉川広家は岩国藩初代藩主。岩国藩は13代270年間、この地で薫り高い文化を築いた。史料館は吉川家の歴史資料や美術 工芸品が収蔵されている。今、「武将と茶」展が開かれているが偶然だろうか。
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