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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

見通しよし

2015年11月21日 | しっちょる岩国


 岩国特産品の一つに「岩国れんこん」がある。おさらいをしてみよう。室の木の篤農・村本三五郎が、岡山から備中種を持ちかえり、これを門前の石代に植えたのが始まり、これから広がり門前バスといった。1811(文化8)年に藩営として始まった。(岩国検定テキスト参照)。この歴史あるレンコンは子どものころからおかずとして食べている。

 噛み切るときほっこりとし、噛むとしゃきしゃきとする歯触りは何とも言えない。レンコン自体の澱粉質の粘りで糸を引くこともよく知られている。産地としては全国5位までに入る。レンコンの穴数は一般的には8つといわれるが、岩国れんこんは外周の穴数が一つ多い。藩主・吉川家の家紋にも似ており地元の自慢でもある。

 レンコンの穴は何のためにあるか、その問答はべつの機会にする。岩国のレンコン田で有名な尾津地区で珍しいレンコンが話題になっている。それは、なんと穴が23個もあるものが収穫された。写真で見ると楕円形の外周に17個、中央部に直線状に6個、人工的に細工したかのように美しい。専門家は「10個はたまにあるが20個以上は聞いたことがない」という。

 盆前のハスの花の出荷に続いて、これから歳暮時期に向けて重労働といわれるレンコン堀が始まる。レンコンは「見通しがいい」ということから縁起物として贈答やおせち料理に使われる。23個もあれば明るい向こう側が見えるかもしれない。それを、知ってか知らずか、レンコン田は収穫される前の静か休息の時を過ごしている。
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姉ケ山

2015年10月30日 | しっちょる岩国


 購読紙に「ちゅうごく山歩き」という企画記事が毎週1回掲載される。登山という意味で登った山はない。そんな素人でも登山道の紹介を読むと、こうだろうかああだろうかと想像させられる。そんな書き方が面白く掲載を楽しみにしている。掲載される山の名前の大かたは知らない山ばかり。ただ、どの山もハイキング、日帰りできる山の紹介だ。

 先日は「錦帯橋眼下に尾根歩き」と題して「城山」が登場した。入山の場所は、錦帯橋下流500メートルにある龍紅(りゅうこう)そばに立っている巨大スギそばの「展望台登山口」の標識からスタートになっている。ここから登り始めるグループは何組も見ているが、記事を読んで、山登りというからにはそれなりの険しさが必要なのだと教えられた。健康志向で舗装された山道を登る事との違いを知った。記事はいつもより身近な山なので読み方にも実が入る。

 その記事に「城山は別名、姉ケ山(あねがやま)」と載っている。今はどうなっているかわからないが、子どもころには登山標識の下流地区かも何本か城山へ上る道があり、その中には城山オリエンテーリングのコースもあった。そんなことでお城山は身近な遊び場の一角だった。ある時「お城山へ登る」と話していると「あそこは姉ケ山」と古老から教えられ不思議に思ったことを思い出す。当時、岩国城はまだ再建されていない。

 もう一つ思い出した。いつの台風だったか思い出せないが「姉ケ山が崩れた」と聞いた。子どもの遊び仲間の一人に同じ名前がいた。驚いて見に行くと家は変わりなく建っている。崩れたのは裏山だった。そこはお城山から続いている。姉ケ山は地域では定着した呼称だった、そう思い返しながら城山の掲載を切り抜いた。それにしても城山でなく敬語で「お城山」と呼んでいたのは何故だろうか。
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岩国城と城山

2015年09月22日 | しっちょる岩国

 吉川史料館付近で「岩国城へは歩いて登れますか」と声を掛けられた。散歩の途中で急ぐことはないので「登山口まで案内しましょう」ということにした。関西から来たという中年の感じのいいグループ。ロープウエイ山麓駅で「これでも」と案内したが、山頂に建つ姿を眺めていて歩いて登ろう、となったとか。紅葉谷公園で登山口を教え、城は標高200メートル、道沿いは自然林なので森林浴も楽しんでと岩国検定で学んだうんちくを少々。

 岩国城を訪れる観光の人はロープウエイを使用、とばかり思っていたがそうでないことを知った。登山口から歩いて30分あればロープウエイ山頂駅前の広場に到着できる。ここからは、眼下の錦帯橋や城下町、遠くには瀬戸内海までが眺望できるお薦めの休憩広場になっている。城は広場から整備された道を少し進む。岩国城の建つ城山は吉川広家が入国以来、斧を入れぬため原始林化しており「自然休養林「の指定を受けている。多くの人が踏み入れると懸念することは増えるが、観光資源や学習の場としての活用を一考してほしい。

 岩国城は国の名勝・錦帯橋と並ぶ観光のシンボル。岩国城は初代岩国藩主・吉川広家が1608(慶長13)年、城山山頂に築城した。1615(元和元)年の一国一城令により、僅か7年で破却された。山麓の土居は居館として明治まで存続した。現在の岩国城は、1962(昭和37)年に三層四階の上部に物見を置く桃山南蛮造り白亜の天守閣として復元されたもので、日本名城100選に選ばれている。

 登山口から25分を切って山頂広場まで登っていたが最近は30分に達する。登り始めのほぼ直線の急斜面が一番の難所。そこを過ぎると後はそれほど苦にはならない。錦川や街並みを木々の切れ間から眺めながら原始林の恵みを受ける贅沢なコース。カメラ持参でお越しください。
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開院から131年目

2015年09月12日 | しっちょる岩国


 現役時の産業医から「退職後は家庭医を決めるよう」に指導をうけ、何が記されていたか知る由もない紹介状を渡された。家から歩いて数分とかからない岩国病院にお世話になることにした。正式には医療法人岩国病院だが会話では医療法人は省いている。それからは健康診断や予防接種などすべてお任せにしている。およそ4年前、初期の癌と診断され照会先で手術した。もうすぐ満4年目の検診を受ける。

 子どものころ、当時の院長の息子がクラスメートだった。小学3年の夏休み病院の暗室を使って卵からヒヨコが生まれるまでの観察をした思い出がある。親に連れられ昔の木造の門扉を開いて受診したこと、強い消毒薬のにおいなどの記憶がなぜか強く印象に残っている。そんなことから長い歴史のある病院だろうくらいは思っていたが、開院131年を迎えていたことを知った。

 岩国病院は東大医学部卒業の熊谷茂樹医師が郷里に明治17(1884)年6月に私立岩国病院を開設されたのが始まりという。当初は、明治維新で職を失った旧藩士救済のため設立された「義済堂」の中にあり「熊谷診療所」と称し、現在の地に移り今の医療法人に受け継がれた、と病院資料にある。岩国検定で義済堂の設立も学んだが診療所のあった記録には出合えなかった。

 医療を取り巻く環境は厳しいと報道される。そうした厳しい中で訪問診療もされているようで高齢者からは有り難いという声を聞く。温かく長いベテラン看護師のいる病院は地域の財産と思う。歴史を知り改めて頼りになる地域医療機関だと感じる。名勝・錦帯橋たもとから大名小路を歩いて下ること10分のところにある。
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四境の役

2015年09月06日 | しっちょる岩国


 「載ってましたね」と話しかけられた。その載った内容は「『四境の役』知る一冊」という見出しで地方紙の紙面を飾った冊子作成の記事。記事は、幕府軍が長州藩を攻めた第2次長州戦争から来年で150年になることを前に、戦いの背景やその概要、関係する史跡などを我が岩国検定実行委員会代表のO氏がまとめた冊子のこと。

 冊子のタイトルは「そうだったのか 四境の役 第二次長州征討 大島口・芸州口の戦い」。「四境(しきょう)の役」とは、1866(慶応2)年に幕府軍が長州藩を攻めた第2次長州征討」のこと。このとき大島口、芸州口、石州口、小倉口の国境4カ所が戦場になったことから四境の役や四境戦争と呼ばれる。この戦場の大島と芸州の2カ所について冊子では詳しく説明されている。

 冊子の本文は事実と史実が時を追って理解しやすく展開されており、素人にも分かりやすく読み解ける。この冊子の内容をより理解させる項目がある。それは「補足説明」とし33項目が約20頁にわたりまとめられている。明治維新に関わった郷土の歴史上の人物、世情などを学ぶことで、本文の理解が深まる。

 四境の役のあった他の自治体では地方創生向け交付金を活用して写真パネル展や史跡の整備、ロゴマークやのぼりの作製、さらにシンポジュウムの予定もされているようだ。我が街の関係者の奮起を期待したい。冊子には関係する史跡巡りのコースが載っている。これは郷里に改めて目を向けさせる貴重な参考になる。晴れた日、弁当をもって出かけたいと思っている。
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扇子一つで槍の中

2015年08月20日 | しっちょる岩国


 吉川藩時代から続く岩国の民俗芸能「こぬか踊」、路地の盆踊りとして親しまれてきたが、50数年まえから路地踊りが途絶え、保存会の力で受け継がれてきた。これではいけないと応援隊が昨秋結成され、盆の15日、日暮れから路地踊りが復活した。踊りは太鼓と笛の音に合わせて甚句調の音頭が歌われる。

 音頭は「神か仏か岩国さまは扇子一つで槍の中」から始まる。この「神か仏かといわれる人は誰だろう」という疑問を抱いていた。あるローカル紙の随筆欄に、幕末に岩国を治めていた領主「岩国藩第12代 吉川経幹(つねまさ)」その人を指すと載っていた。なぜそういわれるのだろう。岩国検定テキスト「いわくに通になろう」からもそのあたりの背景が浮かんでくる。

 長州藩は禁門の変によって朝敵となった。幕府や広島・薩摩両藩の間に立って交渉を行い、第1次長州征伐を無血で終わらせたのが吉川経幹。槍や刀などを伴わない行動を高く評価した広島の人が歌ったといわれる。その後高杉晋作の挙兵などから四境戦争(第2次長州征伐)が起きる。経幹は芸州口・小瀬川で幕府軍と戦いこれを撃破、戦勝に貢献した。四境戦争の勝利は、第1次で戦争しなかったことも大きな要因と考えられる。

 昭和23(1948)年8月24日に撮影された「こぬか踊」の写真(掲載)に出合った。写真のタイトルは「神か仏か岩国さまは扇子一つで槍の中 こぬか踊り」、撮影場所は「錦帯劇場前広場」とある。劇場は40数年前にスーパーになり今年3月に閉店、今は更地になっている。写真の当時は錦帯橋バスセンターから岩国小学校への広い道路は無く、椎尾八幡宮の石段の向きも違うなど、朧げに思い出す。250年近く前の出来事から岩国空港まで音頭は時世を折り込んでいる。郷土を語り伝える文化のひとつだろう。
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入道雲は嫌い

2015年08月14日 | しっちょる岩国


 それは終戦の詔書が出される前日、70年前の今日午前11時過ぎに岩国駅周辺はB29爆撃機100余機による絨毯爆撃を受けた。これは岩国市内に限れば9回目の空襲だった。岩国市史によれば死者517人、行方不明30人、負傷者859人、全壊家屋543、半壊家屋343、罹災者5千911人。しかし、当時の市の課長の話として死者は1千人を下らないと残している。父はこの空襲のとき救援隊員として動員された。空爆跡のむごさをあまり語ろうとはしなかった。例年どおりサイレンに合わせ黙祷した。

 「夏の入道雲は嫌い」、それは原爆投下後の原子雲を思い出すからというという知人の母。キノコ雲とも呼ばれるそれは、大気中での熱エネルギーの局所的かつ急激な解放にともなう上昇気流によって生じる積乱雲の一種。原爆投下直後の3千度ともいわれる灼熱のもとでの様子を知る人には、入道雲が単に夏の空のひと模様という訳にはいかない。

 こうした生死を経験した語り部の後継者がいない、原爆被害者の会の世話をしている知人は先行きを心配している。会員の高齢化で会の存続についても瀬戸際にきているという。そういいながら今年もミニ原爆展を開催した。戦後70年の節目もあってか、報道機関も関心を示したという。

 市内関戸に滑走路があった、報道を読んで遠い昔にそんな話を聞いたような気がする。場所は関戸の錦菓楼の前から山陽道と並行している川沿いの道。記事によると「神風特別攻撃隊飛神隊禮部隊」の発進用の滑走路で戻ることは前提にしない出撃のためだけの600メートルだったという。1945年7月ころのことになる。記事では1度も出撃することなく玉音放送を聞いたとある。同じころ、川下の岩国海軍航空隊では天雷特別攻撃隊の訓練が行われていた。これについては別の機会で。 
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桑重儀一画伯

2015年08月01日 | しっちょる岩国
 


 昭和14(1939)年発行の「山口懸人物史」に岩国出身の一人の洋画家が紹介されている。その書き出しは、「本邦洋画界に名声の嘖々たる人に美術科出身にして現在太平洋美術学校教授、 自由学園女学校講師、洋画家桑重儀一氏あり」とし「山口県人として斯界に頭角を抜けるは頗る意を強くすることなり」と続く。

 茅野 友さんの紹介で、川下のクスノキ巨樹群近くにある桑重儀一画伯の生家を訪ねる機会に恵まれた。100号近い女性の絵などの絵画、墨絵、絵付けされた陶器など多数の作品を拝見した。大正9年帝展出品で入選した「書見する人」は県立美樹館に所蔵されていると教えられる。徴古館HPには平成22年1月に所蔵の作品展開催の記録がある。

 画伯は明治16(1883)年1月3日、現在の川下にて誕生。年少より画才に富み長ずるに及び米国に渡り加州大学美術科を卒業。大正元(1912)年からに渡仏すること2回、画堂の奥義を極める。資性温厚篤実の士不撓不屈の精神で大成をなせる。美術界に頭角を抜ける潔人として推すに足るべく俊敏なり、と人物史は続く。昭和18(1943)年5月24日死去。享年61歳。

 各地にはこうした著名な人の功績を次代に伝え残す美術館など文化施設がある。悲しいかな当市にはそれらが無い。ただ一点、錦帯橋だけが頼りでは文化都市としての進展は望めない。先人の業績を常に見て学べる公共施設の完成することを願っている。
  <写真左:生家に保存されていた写し(初夏之窓)、右:「山口懸人物史」に挿入の写真>
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東芝を憂う

2015年07月23日 | しっちょる岩国
 
 日本のエジソンと呼ばれる「藤岡市助のものがたり in 岩国」展が開かれた。展示はパネル形式で、生誕から逝去までの功績がまとめら、その生涯を知る上で参考になる。市助は岩国市の出身、生家は現在の岩国小学校のすぐ近くで、岩国城下屋敷割図には父・藤岡喜介の名前が読み取れる。人物像について改めて「いわくに通になろう」よりの転載で紹介する。

 1857(安政4)年錦見に岩国藩士藤岡喜介と妻ウメの長男として生まれた。日本の工学者、実業家。日本に電気、電球灯の普及させたところに功績が大きく、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。1865(慶応元)年、藩校の養老館に入る。1875年 旧藩主吉川経健から奨学金を得て工部寮電信科入学。1881年 工部大学校(東京帝国大学工学部の前身)を首席で卒業。銀座木挽町での日本初のアーク灯点灯実験に参加している。この日は電気記念日となっている。同校教授を経て、1890年、同郷の三吉正一と電球製造の白熱舎(後に東京電気から東芝へと発展)創設。電車を発表、浅草凌雲閣にエレベーターを作る。 日本電気協会会長、東京電気社長、岩国電気軌道社長などを歴任。27歳の時に10歳年上のエジソンをその研究室に訪ねている。

 市助は1912(明治45)年2月27日出勤しようとして昏倒、脳溢血と診断され、その後6年間の長い闘病生活を送る。1918(大正7)年3月5日、風邪により肺炎を併発し重篤となり、帰らぬ人となった。享年62歳といことを展示から知った。

 市助は生涯の信条として「至善」を貫き通し「人の役に立つこと、国のために身を捧げること」を実行した。10歳の時に書した「至善」は吉香公園にある「藤岡市助のことば」の碑にも記され、その横に「僕は人に役立つことをしたい」ともある。「至善」は「この上もない善」で「最高善」に同じとある。今の東芝の現状を市助翁は嘆かれているだろうと思う。
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「こぬか踊」の復活

2015年07月14日 | しっちょる岩国


 江戸時代から踊り継がれてきた岩国城下の盆踊りに「小糠踊(こぬかおどり)」がある。太鼓の調子に合わせ、ゆったりした優雅な踊りで、昔は錦帯橋近くの路地踊りとして、夏の夜にあちこちで踊られていた。今は保存会の皆さんが引き継ぎ、盆踊り会場でしか見られなくなっている。「社会の変化で伝承が難しくなった」と、保存会長も将来を危惧している。

 踊りを復活させ城下町を盛り上げたい、と町おこしグループの呼び掛けで応援隊が結成され、練習には踊りを懐かしむ高齢者に交じって、小学生の子連れが多いことに先々の明るさを感じた。踊りの基本は「差し手引く手、出る足引く足」。春の錦帯橋祭りで練習の成果を披露、地元の伝統芸能への関心を高めた。

 念願だった「こぬか踊」が8月15日(土)の午後5時から復活することになった。現在は総勢100人ほどの踊り子さんが練習をしているというから楽しみだ。場所は江戸情緒残る岩国城下町の一角、魚町、寺町、材木町を巡るコースが予定されている。路地踊りの復活は半世紀ぶりではなかろうか。(雨天の場合は8月16日に順延)

 踊り子さんは毎週土曜の午前中、暑さをものともせず練習されているそうだ。太鼓と三味線の音、「ソラ・テットウテン」の掛け声に合わせてこぬか踊は進む。お盆帰省の人らに故郷の伝統芸能をしっかりと受け止めてほしい、応援隊の一人として希望している。
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