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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

古いけど満開

2018年03月31日 | しっちょる岩国

 国の名勝・錦帯橋畔と近くの吉香公園の染井吉野は満開。桜も良く天気も良く、弁当を開く人らでにぎわっている。昨日の人出は「錦帯橋が落ちるかと思う」ほど多かったそうだ。落ちるほど、とは面白い言い回しだと聞きながら頷いた。今日の昼頃は桜を眺めたり写真を撮りながらゆっくり渡れた。

 一帯の染井吉野は3千本と言われる。支えられた老木から樹皮のつやつやした若木まで年輪差はある。ただ、年輪に関係せずどの木も爛漫と咲き、短い花の命を謳歌しているようだ。そんな桜木の中に全国で2番目に古い桜の木が複数本ある。樹齢にかまわず今年も咲き誇っている(写真)。

 吉川家の記録によるとその桜は1886(明治19)年1月21日に植えられたとある。明治時代の写真を比較すると現在と同じ位置に植えられていることから当時植えられた桜と考えられる、と小さな説明板にある。説明板が目に入らないのか立ち読みする人をほとんど見かけないが、今日は、説明板を写真に撮る年配の人を見た。単純だが何故かよかったと思う。

 報道では職場の花見のため場所確保が新入社員の腕の見せどころらしいが、今年は開花が早く難を免れた新人さんも多かろう。何十年か昔、大卒新人が寮から直接場所取り出かけた。携帯などないない時代、公衆電話で確保できたと連絡してきた。残業なしで出かけたところ、かの新人君は熟睡。病かと思いきや隣の席の人が「一杯差し上げたら寝てしまった」。年輪を積んだ桜の木は毎年こんな光景を眺めていたのだろう。
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誰が袖の手水鉢

2018年03月28日 | しっちょる岩国

 錦帯橋畔や吉香公園の桜が一気に咲き始めみごろとなった。地元TV局が錦帯橋傍のホテルに設置したカメラが朝夕錦帯橋畔を映し出す。カメラアングルも良く、地上の花見では見れない俯瞰風景を楽しんでいる。そんな錦帯橋畔から数分のところに、静かな木立に囲まれた「吉香茶室」がある。1892(明治25)年に旧藩主吉川家が本宅を建築した際に設けられた離れ。1951年に岩国市に寄付され市民の茶室として利用されている。

 この茶室が耐震化などで補修されるという。日ごろは雨戸が閉まっており茶心もないので室内を未だ見たことはない。そんな茶室の庭には歴史に名を打つものがある。それは「キリシタン灯籠」と「誰が袖(たがそで)の手水鉢」の二つ。茂みに囲まれひと目見では分かりにくいが、庭に入ると右に灯籠、左に手水鉢が見られる。

 灯籠は旧吉川家茶室近くに立てられていた。茶の湯ではこの様な形式の灯籠を織部灯籠と呼びキリシタン灯籠の一種と言われる。灯籠の下部には仏像が彫られている。隠れキリシタンが密かに礼拝の対象にしていたと言われている。市内には松巌院、普済寺山などにみられ、個人の家など何カ所かにあると記されている。吉川家と隠れキリシタンの謎があるのだろうか。

 手水鉢は小堀遠州の作といわれ、形が着物の袖に似ていることから「誰が袖の手水鉢」と呼ばれる。吉川藩12代藩主・経幹に姉の夫が贈ったものであるが、後に毛利家と仲直りの際、毛利慶親に贈った。現在、吉川家墓所にあるのはその写しを置いている。それと同形の手水鉢が何故か茶室の庭にある。そのいきさつは目にしていない。茶室に待まつわる二つの不思議なお話でした。
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エンジュの木

2018年02月12日 | しっちょる岩国

 吉香公園は錦帯橋を渡った横山にある。もとは岩国藩主吉川家の居館跡で、130年余り前に植栽された染井吉野を始め、四季折々の花が鑑賞でき、藩政時代を偲ばせる文化財指定の建物などが点在している。園内には見上げるほどの大樹も多くあり、これらを巡るオリエンテーリングで子どもらが楽しむ催もある。

 そんな大樹のひとつに山口県指定天然記念物の「エンジュ」の木がある。場所は国重要文化財「吉香神社」すぐ横で、大きな標識と掲示でその重要さが示されている。エンジュは中国原産の木で、古くから止血や血圧降下に用いられたという。公園や街路樹として植えられているが、吉香公園のような大木はまれで、1979年12月に天然記念物に指定された。

 そのエンジュの木の天然記念物指定が解除され、さらには伐採されるかもしれないという。その原因は数年前から弱っていることを確認、手を尽くしてきた。さらに、腐食の原因となるベッコウダケが見つかり、根元や幹の腐食、空洞化も進行していて、回復できる状態になく、強風などで倒木の可能性もあると診断されたという。

 エンジュの植栽時期は明らかでないというが、指定当時は高さ25㍍、幹周囲は3.3㍍、樹冠は整正で樹勢は旺盛、国内で群を抜いていた。夏季には黄白色の豆花幾度も見上げていたが見られなくなりそうだ。貴重な野鳥も飛来する大樹で、知人の野鳥写真家からは幾度となく珍しい生態が撮れた話を聞いている。文化財や観光客へ被害を及ぼす前にもう少し早く何とかならなかったものかと残念に思う。
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槍倒し松の今

2018年02月10日 | しっちょる岩国

 国の名勝・錦帯橋の横山側にある大きな1本の松の木、これは「槍倒し松(やりこかしまつ)」と呼ぶ。この松は、岩国藩士の負けず嫌いを表徴する松として名を知られている。諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていた。だが、大藩が小藩の城下を通るときその儀礼を守らず威風堂々と通ったという。六万石の小藩であるためこれを見て憤慨したのが岩国藩士だった。

 そこで、かなり成長し横枝のはった松の木をわざと植え、大藩といえども、どうしても槍を倒さなければ通ることが出来ないようにした。80年余り前の河川改修工事により、道路や人家は堤防の上に移ったが元は川辺にあった。今の石段が坂道になっていたため、大名が槍を倒して坂を登るのを見て岩国藩士たちは留飲を下げた。

 藩士の留飲を下げさせ気持ちをスッキリさせた松も1944(昭和19)年ころに発生した松喰虫によって1952(昭和27)年8月に残念ながら枯れた。現在の松は、初代の松の実から自生した直系の松を1968(昭和43)年2月15日に吉香公園から3代目として移された。移されてからあと数日で満50年になる。移植直後は先代と比べ幼なく思えたが半世紀たちその威厳を引き継いでいると感じる。

 先日、威風堂々と感じさせるその松が人でいう散髪をしてもらっていた。錦川からの寒風を受けながらの庭師の仕事は寒いだろうと思うが、そんなそぶりは見えない。錦帯橋上から写真を撮っていると「寒いでしょうなあ」と観光客のひとりもカメラを向けた。50歳をむかえる準備だろうか、錦帯橋の袂で訪れる人を迎えながら何を思っているだろう。100年、200年と永らえて欲しい。
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変わる西岩国駅前

2018年01月26日 | しっちょる岩国

 1929(昭和4)年に建てられた赤い瓦ぶきのJR岩徳線の西岩国駅。昭和初期の代表的な洋風建築で、名勝・錦帯橋にちなんだところが随所に織り込まれている。今、駅舎は国の登録有形文化財に指定されている。

 その駅舎前の向かいに数軒の食堂やお土産店が並び賑わっていたのを子どものころの記憶として残っている。母の実家に行くには西岩国駅から省営バスに乗る。その時間待ちの時に一番端にあった食堂、食べたものは記憶にないが入った。手元にある昭和17年4月の大日本職業別明細図(復刻版)にはそんな駅前の様子が店名入りで載っている。その裏面には広告もある。

 駅舎前の通りは「駅前通り1丁目」。駅舎から通りの向こう側、向かって右側から曙食堂、原田土産品店、大円寺土産品店、岩井食堂、松園旅館、駅舎側には佐々木食堂、光食堂、錦帯堂、菓子工業、合資会社相和タクシー本社、他にも複数の会社名が読み取れる。今の駅前の様子からは想像も出来ない。ちなみに、現在の岩徳線が山陽本線と称され時代、岩国の中心だったことを思えば賑わいも不思議ではない。西岩国駅で降りた人は駅前で土産を買って親戚に行った話はいまも伝わる。

 そんな賑わいが消えて久しい。記憶が正しければ建物だけ残っていた原田、大円寺両土産物店と岩井食堂が解体され更地工事中。写真は何か胸騒ぎがし記録し残しておこうと昨年の8月に撮ったうちの1枚。再利用の行方は知らないが、かっての中心市街地は一変することになる。時代の趨勢と言えばそれまでになるが、また、一つの街の歴史が消えていく。 
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鵜の新居

2017年05月08日 | しっちょる岩国

 岩国市の夏の風物詩、毎年6月1日のアユ漁解禁と合わせ始まり、最近は9月上旬まで、寛永年間からの伝統を誇るのは錦帯橋の鵜飼である。一時中断していたが1952(昭和27)年に復興した。鵜飼は、鵜と鵜匠が一心同体となり、手縄を使って篝火のもとで鮎を獲る漁法。ここでは、鵜匠の服装は昔の儘の伝統を踏襲し、頭に風折烏帽子、腰に腰蓑をつけ足に足中を履いている(いわくに通になろう 参照)。

 鵜飼の主役は鵜。錦帯橋下で活躍する鵜の故郷はここから1000㌔余り離れた茨城県日立市。ここで捕獲された海鵜が送らてくる。施設で飼育訓練され、篝火のもとで夏の風物詩となる鵜飼を演出する。鵜には河川漁業を邪魔する川鵜も知られているが鵜飼には適さないようだ。海鵜には目と瞼の間に薄い透明な膜「瞬膜」がある。水中ではこの瞬膜が水中眼鏡の役目をするそうだ。

 そんな鵜たちに木造瓦ぶきの快適な新居「吉香 鵜の里」が吉香公園内にオープンした。見学したことのある暗い旧施設に比べれば居心地は数倍、いや数十倍、それ以上かもしれない。日当たりはよくガラス超しに鵜の様子が外から観察できる。水浴びや居眠り、潜りなど観覧者を喜ばせている。多くのカメラに少々戸惑っているように見えるのは思いすぎだろうか。

 ずいぶんと古いことだが2、3回遊覧船から鵜飼を楽しんだ。勝手気ままに水面を泳ぎ、勝手気ままに潜って鮎をくわえる数羽の鵜を、それぞれに結わえた手縄(たなわ)1本で操る鵜匠の巧みなさばきは見ごたえがある。手縄はヒノキの木質部を繊維として鵜匠が作るという。万一の場合は逆にねじり手綱を切り鵜を助ける仕掛けもある。獲れた鮎を遊覧船に投げ込んでくれるサービス、今も続いているのだろうか。
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旧家老宅跡の発掘

2017年03月03日 | しっちょる岩国

 「旧岩国藩家老 吉川氏屋敷跡」と書き記した大きな掲示板が建てられている。そのすぐ後ろ側で発掘作業が行われている。発掘作業と断定をしたが、作業の説明がどこにも見当たらないが、その様子からそう断定した。場所は錦帯橋を城山側に渡りトントンと坂道を下った右側、山口県有形文化財指定の香川家長屋門隣りなる。

 吉川経家の子吉川経実は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後、吉川広家に従って岩国に入り、その後は代々岩国藩の家老を務めた。発掘の場所は家老として仕えた石見吉川氏の屋敷という。吉川経家弔魂碑は発掘現場のすぐ近く、背中合わせの地にある。

 江戸中期頃に建築された長屋が遺構として残っていた。この由緒ある建屋が老朽化により崩れ落ちんばかりになっていた。錦帯橋から吉香公園に至る道筋、香川家長屋門の保存に比べなんの手だても無かった。心ある人らは「何とか保存できないか」と言いながら行政力を待ったが、老朽化ということで2011(平成23)年遂に解体された。

 発掘場所を覗いてみた日は格別の出土品は見えなかった。すこし掘り下げたところに、発掘映像で見覚えのある家の基礎らしき大きな石が水平に幾つも並んでいた。観光客も多い通り、何の目的での発掘なのか説明があれば関心も集まるだろうが、スコップで掘り下げる作業が黙々と続いていた。
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清流 錦川

2017年03月01日 | しっちょる岩国

 この日も中国から大勢の団体さん、大き目の名札を首にかけている。初めて見た、名札のせいなのか指導されているのか、これまでにないマナーの良さで錦帯橋を渡る。いつもこうならいい、これなら歓迎できると思ったのは国指定の名勝・錦帯橋五橋の中ほど。

 いい感じの年配ご夫妻がデジカメを差し出し「撮ってもらえませんか」と頼まれたのは錦帯橋の中央、観光地に住む一人としていつものようにこころよく引き受ける。岩国城を背景に撮り込むのは定番ながら旅する人には記念になる、とひとり決めしている構図。撮り終えたら私の散策姿を見てだろう「地元の方ですか」と問われその旨答える。
 
 すると、「錦川清流線に乗りたいが川西駅へはどちら」という。そこへの案内は簡単、橋上から方向を指しながら「便数が少ないので時刻表を確かめて」と近くの観光協会を教える。錦帯橋を渡りながら橋の由来に話が進んだ。ここで、岩国検定実行委員会の一人として知るところを話す。もしかして観光ガイドが出来るかも、そんな錯覚を起こし苦笑した。

 「綺麗な川ですが名前は」と手持ちのメモを見ながら聞かれた。ここでもご当地検定が日の目を見た。カヌー愛好家の「錦川は日本一の清流」という評を付け加えて箔をつけた。鴨川と同じです、と話す京都からの二人、これから湯田へ向かうという。楽しい旅をと別れたが、息子一家が京都に住んでいることから親しみを感じたのかもしれない。
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書状集箱

2016年08月30日 | しっちょる岩国


 小泉首相の時代、国営で行われていた郵政3事業の民営化策で国論は割れた。自民党も分裂、衆院は解散総選挙となった。結果は民営化推進側が勝どきをあげ、株式会社になった。民営化してもサービスは落とさないとされたが、地方ではそうはいかなかった。小泉さんの思いは国の隅々まで届いていない。

 郵便は民営化されたが、秒進分歩で進化する通信手段に押され苦しい経営を強いられている。メールが年賀状減少の一因と言われた話すら忘れられる。年賀状は戦後のことだが、日本の郵便制度が始まったのは1871(明治4)年、教科書で日本郵便制度の父と教わった前島 密は今をどう思ってみているだろう。

 郵便制度が変わっても色や形は時代にそぐわされて来たが変わっていないもの、それはポスト。制度発足時は「書状集箱(しょじょうあつめばこ)」として各地に設けられたという。観光地では景観に合わせ今も発足時と同じ箱が設けられ、名勝・錦帯橋の横山側にもある。観光都市らしく「POST」表示もある。

 「このポスト(書状集箱)は郵便事業創業当時使用していたものと同型、歴史と文化の町岩国の町並みに合わせ設置しました。他のポスト同様に取り集めを行いますのでご利用ください」とPRされている。周囲から和が薄れゆくなかで十数年ここに立ち続ける「書状集箱」をご苦労さんと慰める。
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図書館の父

2016年08月25日 | しっちょる岩国


 岩国市中央図書館の玄関を入ってすぐの右側に「図書館の父 田中稲城翁」の銅像がある。この設置は5月下旬に報道された。最近発行された『近大日本の礎を築いた七人の男たち 岩国セブン・ファザーズ物語』のうちの一人として載っているそうだ。銅像の銘板の下に氏の紹介がされている。その紹介文の中に「岩国図書館の建設を助けた」と短い照会がある。

 岩国図書館は今は教育資料館になっている三層楼の岩国学校が初めて図書館として発足したのは1910(明治43)年8月という。その後、1923(大正2)年10月現在地(岩国4丁目)に「子爵吉川元光公」より岩国町に寄付された。祖父吉川経幹公50年祭、経健公10年祭を営まれその追憶の意により寄付された。

 「図書館の創設について田中稲城(たなか いなぎ)氏は調査を担任、建物は山口県立図書館、長府図書館を参納し検討」(岩国図書館八十年史)とある。氏は1856(安政3)年1月6日生まれ、昔風に書くと周防国玖珂郡今津生まれ、岩国藩士末永藤蔵三男、幼名辰之助、のち田中仲蔵の養子となり林蔵と改名、さらに稲城と改める。

 帝国図書館初代会長、日本図書館協会初代会長など日本の図書館の発展に数多く尽くされ「図書館の父」と呼ばれるそうです。氏の信条と言える「図書館は国民の大学です」という言葉を残されている。晩年は故郷で過ごされ1925(大正14)年2月に70歳で永眠された。
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