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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

中央公民館建て替え

2018年09月20日 | しっちょる岩国
 施設を利用していると「車種〇〇、ナンバー△△の車の方は移動をお願いします」という館内放送が何度かある。その施設は岩国小学校向かいにある市中央公民館。そこには市出張所、図書館、市民サポートセンターが併設されていて、年間利用者は約8万5千人、これに対し駐車場は約40台分しかない。散歩する範囲にあり公民館傍は良く通るが駐車場の空きは少ない。

 中央公民館は1972(昭和47)年に鉄筋4階建て完成した。ここは、この地域で最大の建物、自然災害時の避難所に指定されているが、耐震強度不足で、数年前から地震の時はその役をになえなくなっていた。バリアフリー化もされていないことなどが重なり、問題点を一気に解決しそうな建て替えが来年度以降に始まるという。

 現在の中央公民館の場所は市立図書館だった。大正12年9月27日、吉川家から新築館を岩国町に寄付され(写真)、変遷や受難を経ながら活動した図書館も木造モルタルの老朽化、白蟻禍に勝てなかった。また、隣接の学校校舎を使った公民館の老朽化も課題となり、図書館用地に現在の中央公民館が建設された(岩国図書館史参照)。

 新館建設に当たり、用地は近接する民有地を確保し広がると聞く。そして、来年度以降に計画の諸検討を進める。耐震、バリアフリー、駐車場などなど、新しい中央公民館に期待する。識者だけの意見でなく、特に内部については利用している人の声を汲んで利用しやすい施設にして欲しい。市民参加型で完成することを願う。
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旧山陽道越え

2018年07月16日 | しっちょる岩国

 古代の山陽道が歴史に登場するのは日本書紀によると飛鳥時代という。都大和から筑前大宰府を往来する要路として整備された。「周防なる磐国山を越えむ日は 手向けよくせよ荒らしその道」、これは奈良時代の天平2(730)年に詠まれた万葉歌で、周防国の道筋の中で最も険しいところであることを詠ったもの、といわれる。その険しいところは欽明路峠という。

 その欽明路峠、今は交通の要所。県道岩国周東線(通称 欽明路道路)を初めJR岩徳線、山陽新幹線、山陽高速道の各トンネルが標高わずか208㍍の峠をくぐっている。国道2号線を迂回する欽明路道路は生活に物流など地域には欠かせない幹線道となっている。先日の西日本豪雨で法面の崩落などで通行止めとなた。隣の玖珂での欠かせない用向きがあり欽明路道路を脇道沿いに進む。最後のトンネルが通行不可。

 トンネルへの上り坂中ほどから左折、旧山陽道へ入る。道幅は狭く離合苦手な人には薦められない。ほどなく行くと登坂という運転になる。洪水の影響を心配したが、荒れた様子はない。欽明路道路ができるまで何度か運転したが全線舗装されていた。洗濯板の波のような箇所があり、滑り止めの配慮もしてある。万葉の頃には山賊もいた、というが、暮れると少々気になるかもしれない。欽明路道路下り車線で欽明路トンネル入り口上方にチラッと見えるのが旧山陽道。

 峠を越えるといくつかの分岐点があるがどれも右方向に進む。家並みが始まると第29代欣明天皇ゆかりの欽明寺の白亜の山門が見える。ここに至るまでは連続するカーブなので運転に気を抜いてはいけない。欽明路道路の開通は1970年だから、半世紀ぶりの山陽道越え、元気な人には歩いて峠越えを薦めたい。明日の午後5時、通行止めは解除予定と情報あり。
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氷店の先行き

2018年06月15日 | しっちょる岩国
 
 スーパーなど夢の昔話。家庭の台所を預かるその商店街には何でもそろっていた。大方が地元や近郊で収穫や獲れた品が豊富に積みあけてあった。肉に魚、とれたての新鮮な野菜、惣菜店からは美味そうな匂いが漂っていた。蒲鉾屋の店頭では魚のすり身を作っていた。花屋に煙草屋、竹ぼうきに竹かご、アイスキャンデーやも2軒あった。そんな店が道幅2間余りの両側に並んでいた。盆や正月の買い出しは、映像で見るアメ横に似た混雑だった。

 郊外店の誕生でその通りは次第にさびれ、今は開店している店舗は無い。店舗も改装や建て替えとなり通りの様子も変わった。そんな通りを20歩ほど過ぎたところに、昔のままの店構えがある。古くから「氷」の暖簾が何枚か下がった店がある。暖簾があまり色あせないので続いているのかもしれない。

 この氷屋には何度も買いに来た。氷は直方体で1貫目の塊だった。必要になるとこの店まで来る。塊を麻袋で包み自転車の荷台に括り付け大急ぎで帰った。使用は、夏場だけ使っていた外装に銅板を張った氷冷蔵庫に使用するのが主だったが、氷嚢用にも買いに走った。大きな歯の鋸でシャーシャーと気持ちよい音で切り分けていた。

 これから氷の季節になる。都会ではかき氷店が繁盛する映像を見る。子どもころは赤と緑の果実風味のシロップだった。今はかき氷というより、色合い盛り付けなど氷の芸術に見える。その氷店の2軒隣まで今風の家が建ち、懐かしい通りは徐々に短くなっている。こうした通りや古い商いはどうすれば生き残れるのだろう。 
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エンジュの木 3

2018年06月03日 | しっちょる岩国

 山口県の天然記念物に指定されていた吉香公園のエンジュの木、指定が解除され桜の咲く前に伐採された。残念で仕方ない気持ちは今も変わりない。直近の市議会でエンジュの木について伐採に至った樹木医の診断の結果が明らかになった。機械診断で地表から50㌢幹部分で空洞化率78%に達している。空洞と根株の腐朽により樹勢が衰退、数年以内に枯れ死に至る。

 よって強風時に根返りや倒木の危険性が高い。来園者や吉香神社への安全確保を図るために伐採はやむを得ないと判断したとある。天然記念物の旧跡としての説明板の設置、伐採した木材の利活用について検討しているという。腐食の原因とされるベッコウダケについてはひと言の説明もない。対応が手遅れだった、そんな推測をしたくなる。

 地上3㍍のところから伐採された。そばを通るたび大きな空間に違和感を感じているが、その空間を埋めることは叶わないだろうが、樹勢は新しい芽を育んでいる。切り口近くに、やわらかなそうな緑の新葉をつけた小枝が何本も伸びている。数年以内に枯れ死の診断が下されている樹勢、この小枝をどこまで育てられるだろうか。

 エンジュの木、周りの大樹にも惜しまれながら伐採された。その大樹の応援もあり春になり新しい小枝が伸び始めたのだろう。その小枝を見上げて何かほっとした。これから、そばを通るときは見上げて育ち具合を見守ろう。
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岩国今昔 3

2018年05月31日 | しっちょる岩国

 鮮やかなカラー写真や動画が素人でも簡単に撮れ、それを多くの人に即座に開示できるこのごろ、写真は珍しいものではなくなった。子どももカメラを玩具のように取扱い傑作を投稿している。二つ折りの携帯使用中なので、スマホで写真が簡単に撮れるという様子は見ているが実体験していない。とにかく写真は庶民の芸術度を上昇させた。

 今日を繁栄させた写真にも歴史があり、白黒の時代があった。白黒写真は焼き付けからの年月を重ねるとその色が黒みをおびた褐色に変わる。それをセピア色に変わったと呼び始めたのはいつからだろう。耳ざわりはセピアがいい。そんなセピア色の古い写真が横山の徴古館に数十点展示されている。

 「写真で振り返る岩国」という展示で、明治から昭和にかけての岩国の変遷を教えてくれる。合併前の市町村別に展示されており、理解を深めさせる。古い写真の幾枚かには今の写真も添えられており、その変化に驚くものもある。今は見られない風景や街並み、人の動きなどセピアならではの感傷をさそう写真に見入った。河山鉱山の鉱石運搬の蒸気機関車、その第1便を川西駅で見送ったことを思い出し、写真の貴重さを改めて思った。

 8年前に岩国検定実行委員会の一員に加わり学ばなければ、セピア色の写真展を見には出かけなかっただろう。合併で大きくなった岩国の一部でも知ることができたた。セピアの写真からもあの時のあれだ、秘かに調べたなど思わぬ繋がりを思い出す。何でもいい、学びは何かに繋がる、いい歳をしてではあるが復習した。これからも新しいことに参加していこう。
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錦明館 3(義済堂)

2018年05月24日 | しっちょる岩国

 義済堂は「1875(明治8)年、旧岩国藩の貸付金の整理回収業務や困窮する旧家臣の修業資金の融通などを目的に吉川氏が創業した会社。やがて旧士族女性への織物技術の授産事業を開始した(岩国検定テキスト参照)」。その義済堂は錦帯橋下流の錦川沿いにあったが2005年3月倒産。現在は同類型の一般住宅が建ち、往事を偲ぶものは無い。

 その義済堂は通学路にあり煙突を眺めながら臥龍橋を渡った。工場の入り口には花崗岩の門柱が立ち、その側に守衛所があり立哨の人と話したこともあった。その義済堂が錦明館展示の大盃に描かれている。記憶にある2本の煙突は描かれていなくて、記憶にない掲揚台に「義済」と書かれた社旗のようなものがひるがえっていることから古い時代の姿と分かる。しかし、木造の外観は記憶とほぼ一致する。

 背景に城山とその麓を流れる錦川、それに架かる名勝・錦帯橋が描かれ、その立地の良さが伺える。吉川氏肝入りの策であったことがわかる。最盛期には、今は遊技場や宅地に変わったが、道の向かい2カ所に織物工場と作業場があり、フォークリフトが行き来して活況だったことを思い出す。

 今年は明治150年、華々しい姿だけが取り上げられ、観光客誘致に役立てようと大きな支出が図られている。明治となりその転換期で苦労しながらそれを乗り越えた人ら、特に庶民の姿を掘り下げて学び、そこから今の激動に向かう考えを見つけられないだろうか。濃青で描かれた建屋を眺めながら、シンボルの煙突が解体される様子を思い出していた。
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錦明館 2(岩小)

2018年05月22日 | しっちょる岩国

 錦明館の展示場は和室でいえば20畳ほど、備え付けのスリッパに履き替えて鑑賞する。入り口に近いところに「盃 錦屏山焼 明治四十五年 岩国小学校建築記念」と記した表題の盃が1個ある。岩国小学校は60数年前に卒業した母校なので興味がわく。盃の底に描かれた桜の図案は小学校にふさわしい図柄に見える。花の中心の色濃い菱形とそれを3つに分けるかのような2本の白い線を見たとき、校章の原型ではないかと気づいた。

 顔を近づけてみていると「残っているのはこれ1個でしょう」と話す館長さんに促され裏返してみると高台の内側に表題と同じ記述がある。岩国小学校は明治2年に岩国藩学校として兵学校、同3年文学校を設立、同4年錦見小学校として発足した。その後変遷を経て大正2年に全校舎改築完成式挙行とある(岩小沿革史より)。明治45年は大正元年であるからほぼ一致する。

 岩小の校章は菱形で中央に「岩」の文字があり、これを〖〗で挟んでいる。色は金色、小学校の時は学生帽にこの校章を帽子の正面に取り付け、四季を通して冠って通った。帽子に穴を開け、校章のあしを通し内側で折り曲げて固定する。今は男女とも帽子を冠っていれば大方が野球帽、地元カープの赤が多い。

 かって岩国には志向焼、多田焼、皿山焼、錦屏山焼など、市民にもあまり知られなかった焼物が記録に残っている。作者の名前が残された作品もあるが、絶えてしまったものばかりだが貴重な作品を見ると、陶芸は分からくても残されていることに感動を覚えるし、悠久の時を過ごした焼き物にその時代を聞いてみたくなる。
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錦明館 1

2018年05月21日 | しっちょる岩国

 錦帯橋近くの臥龍橋通りに、江戸時代に代々医師を務めた中村家が所蔵している古美術を展示するギャラリー「錦明館」がオープンした。中村家の先祖は中村春続。春続は天正9(1581)年、秀吉の第二次鳥取城攻撃で吉川経家らと鳥取城に籠り抗戦したが、兵糧攻めにあい経家の切腹で開城した。その際、経家と同じ陣所で自刃した。
 
 春続の子は吉川家の家臣となった。妻と弟はその後岩国に移り、吉川広家の岩国入城の際、錦帯橋近くの大明小路に屋敷を与えられた。場所は現在の半月庵の向かい側で、今の郷土料理店や古美術店なども含む広い屋敷だった、とと錦明館長の説明を受けた。

 毛利元就の書状を始め吉川家にまつわる多くの書き物が掛け軸として並ぶ。そんな中に秀吉の怒りにふれ自刀した千利休の書もある。焼き物も多数あり、岩国に作陶技術を伝えたといわれる初代吉向治兵衛が焼いたといわれる菓子器など数十点が並ぶ。中村家の所蔵のお宝は約千点あるそうで、順次入れ替を予定していると聞いた。

 こうした展示品はガラス越しに鑑賞するのが一般的だが、ここではガラスなし、作品に顔を近づけて鑑賞できる。許可を得て何点かの陶器には手を触れて見た。家臣ならではの貴重な貯蔵品と言われるが、美術館のような装いでないので気軽に立ち寄れそうな館内、散歩の楽しみが一つ増えた。
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穹崇橋

2018年05月13日 | しっちょる岩国

 岩国検定実行委員会の立ち上げから8年余が過ぎた。合併で広域化した岩国「長く住んでいても『ほおっ』と驚くことがたくさんある。郷土を見直す機会になれば」と隔年で3回の検定試験を実施した。多くの関心ある方々から継続の声をいただいたが、当初の意気込みが達成され今は休会している。その後も様々なところで声掛けなどもあり、手元にある会で作成した検定テキストはかなりくたびれて来た。

 検定準備では、出生地なのに「ほおっ」と驚くことが多く恥じた回数は数えきれなかった。そんな一つに周東町に1200年前に建てられた鮎原剣神社があることを知った(テキスト38頁)。武道の神様として親しまれているこの神社の参道入り口に石造りの太鼓橋が架かっている。空に向かって弓を張っているようなアーチ状で「穹崇(きゅうそう)橋」と呼ばれる。

 小さな小川に架かる巾1間半ほどの石橋が、最近、市有形文化財(建造物)に指定された。硬い花崗岩を精密に加工してアーチ状にしておりその高い技術力が用いられたとし、関係する資料とともに指定という。この鮎原剣神社社叢(しゃそう)も天然記念物として1978年に市指定文化財とされている。社叢は神社を囲む自然林で鎮守の森とも呼ばれる。

 新たな文化財指定は7年ぶりと報道された。もしや、ご当地検定で取り上げたことがきっかけになったのではないだろうか、そんな推量をしながらテキストを閉じ、こうして書けるのも検定に携わったからと喜ぶ。まだ現地を見ていない、橋と森を眺めにぜひハンドルを切ってみよう。
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GPSと狭い道

2018年04月17日 | しっちょる岩国

 歩いていると私を追い越した大きな乗用車が迷う様子もなくひょいと右折した。曲がったその先は自転車も離合できない狭い道幅だと知っているのでドライバーは困るだろうと思いながらと車の見えるとこまで進んだ。女性ドライバーが車外で困った様子なので声をかけた。他県の人でこの地は初めて、ナビに従って曲がったという。行先を訊ねると、徒歩ならこの狭い道で行けるが車なら1㌔ほど先を右折と教え、バックを誘導する。

 ナビも、地方の町のそしてこんな狭い小さな道をどこまで正確に判読して誘導できるのだろう、迷い車を見送りながら思った。古い話になるが、知人が初めてナビを設定し秋芳洞に向かった。今ほど道路状況のよくないころ、ずいぶんな回り道を走らされたという経験話をおもいだした。最近のナビは性能アップしているだろうが、誤誘導もあるようだ。

 日本は米国のGPS衛星から受信していた。誤差は20㍍あったが今は10㍍あまりと制度が向上した。日本はこれを上回る測位衛星群として現在4基を打ち上げている。その名は「みちびき」、地上設備を利用すると最小6㌢程度までに収まるという。4基揃うと1基が必ず日本上空に留まり高精度な位置情報になるというから嬉しいことだ。

 幸いなことに太平洋戦争で空爆を免れた城下町。武士階級の居住地区を離れると、細く狭く、その上やたらと曲がりくねった道筋が残っている。まるで迷路のような地域があるのは戦に備えるためだったという。誤差数センチあまりのGPSが登場すれば、迷路にも車載ナビは誘導してくれるだろうが、その前に拡幅という難題がまつ。みちびきの享受はまだ先のようだ。
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