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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

今もあるのかなぁ

2021年06月27日 | 回想

 本棚を整理していた、初めてではないのに思わぬ小さな冊子が見つかった。これまで、何度か整理していたのに目につかなかったということは、どの本かに挟まっていたのかもしれない。その冊子は在職中にある活動事務局を担当したとき、参考資料として月刊誌を社費で購入していがその付録らしい。

 思い出せばその活動の始まりは1970年代に2度発生したオイルショックで、中東からの原油の輸入量が逼迫し、原油が高騰、それは世界経済を混乱に陥れた。その影響をもろに受けた業種の一つである石油化学会社に私は勤務していた。第1次(第四次中東戦争)は1973(昭和48)年、第2次(イラン革命)は1979(昭和54)年だった。

 会社の業績は悪化、生産縮小や停止に追い込まれた。対策として余剰人員の活用やコストダウンなどできることは何でも取り組んだ。それは全職場で、少人数のグルーで、課単位で知恵を出し合った。パソコンなど今思えば夢の時代の活動だった。私は余剰人員の活用とQC活動の事務局を担当した。QC活動では実用新案を申請する成果も得られた。

 小さな冊子をめくりながら、模造紙や小さな紙片に原因や解決策、提案などを書き合理化や改善策を論じ合った、ときには「口角泡を飛ばす」こともあったなど、40年余り前のことを懐かしく思い出す。リモートワークの内容がさらに進化する時代に、なつかしいQCや小集団活動などが今も残っているのだろうか。そういえば「KJ法」という問題解決方式もお世話になった。こうした積み重ねが現在の技術の基礎を作り上げた一つだと信じている。
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イモの植え付け

2021年06月04日 | 回想

 2週間くらい前の雨の日。所用で歩いて出かけた時にサツマイモの苗を植え付け中の畑のそばを通った。その植え付け方法を見て何十年も過ぎたその日を懐かし思い出し、しばらく眺めたていた。

 雨の予報になると種イモから気ままに伸びたイモづずるを植え付け用に切りそろえる。束にして取り扱いやすくしておく。イモ畑の幅広で高さのある大きな畝が何十本も父が事前に準備している。日曜農家であったが、今も細長い畑に作られた畝は絵画のように記憶に残っている。

 そんな畝にイモづるを配る。畝の上に手刀でツルの長さの溝を作る。その溝にイモづるを植える。学年が進むと植え付けの手伝をする。収穫までに畑の畔の雑草刈りは暑い時期で苦労した。次第に畑はツルで覆われ、サツマイモが育っていることが分かる。我が家のイモは味自慢だった。戦後の食糧難の時代、このイモのお陰で空腹を知らずに過ごしたと、この歳になっても思う。

 そんな思い出をくれた畑に回り道をした。雨上がりの後ということもあってだろうか、新しい葉も出ていい育ちをしている。先日、購読紙の「子ども5・7・5」にこんな句が載っていた。「土をよせ いもづるうえる 日曜日」(小学3年生)。秋の収穫の楽しい様子も投句してくれると期待する。
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夜勤の弁当

2021年05月27日 | 回想

 NHK総合TV番組に「サラメシ」がある。内容は種々様々な働く人の昼食を視点変え趣向変えるなどして、働く力の源ととなる昼食を紹介する。そのランチの内容だけでなく、ランチに潜む話を交差させながら紹介する。ときには超短編の人間模様も垣間見えるがさっぱりした味付けにまとまっている。見るのは再放送、ちょうどお昼時の20分間だけ。

 先日は夜の仕事だから昼食ではない夜食を放送していた。懐かしい光景に昔を思い出した。高校出て就職したのは三交替職場で、機械装置とは異なり連続運転で生産を続ける。その夜勤は23時から翌朝7時までの8時間。夕食は済ませているがこれでは翌朝まで力が持たない。思い思いの夜食を持参する。むすび、パン、麺、販売が軌道に乗り始めたインスタント麺、その日その日違っていた。

 弁当食べる休憩所には常時熱湯が使える設備になっている。私は生のうどんやそばをよく持参していた。マイドンブリで麺を熱湯であっためる。次いで汁やカマボコやとろろ昆布、七味を加えて出来上がり。むすびの1個でもあれば申し分ない夜食だった。そのうちインスタント麺を茹でる装置が考案され、メニューが広がった。

 ある年、大晦日の夜勤のとき全員がそば持参で大笑いしたことがある。その日、一人が正月用に家で作った岩国寿司を全員に1個あて持ち込み、除夜の鐘は聞こえないが、いい大晦日を過ごしたことがある。何十年も昔の話だが思い出せる。交替を終えてからこうした思いではない。今はテイクアウトで食べたいものが簡単に手に入る、どんな夜食をとっているのだろう。
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中学校だより

2021年04月02日 | 回想

 どちらも私には母校となる校区内の小中学校、その学校だよりが公民館に置かれ、自由に持ち帰りできる。以前は回覧板として回っていた。地域の子どもを見守る、学校行事を知るなどしっかり読んでいたが、経費と手間の削減ということで回覧が中止になった。それだけ教師の業務が増えているのだろうが、公民館を利用しないと学校だよりは読めない。

 最新版は3月号、小学校は2月末、中学校は3月末の発行となっている。「岩中」、男子は金色のこの校章を黒い学生帽に付け年間を通して着用していた。校章を付けた学生帽での通学、これは小学校も高校も同じだった。今は学生帽着用は全く見かけなくなった。小学生の多くは男女とも野球帽かそれに似た帽子が多い。地域的にはカープの赤色が目につく。中高生には無帽が今風らしい。

 「岩中だより」は3月11日の卒業式の様子が記事の大半を占めている。コロナ感染防止のため在校生の出席は昨年に続いて叶わなかった。中学3年間の思い出がつづられた答辞は感動的であったと記されている。卒業生数は私らの頃の6割以下のようで少子化の現実を改めて知る。

 岩中には1963(昭和28)年4月に入学した。校舎は木造でそれを支える突っかい張りがあった。鉄筋性の講堂が完成し入学式はそのお披露目だった。卒業して65年、在学中の記憶も次第に薄れていく。しかし、不思議なことに3年時の校長・教頭・生徒会顧問の3教師からは今でいう「自治」について教わったことを何故かしっかり記憶している。
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間もなく還暦

2021年02月24日 | 回想

 散歩の道筋、たまに今日はこれだという目的を定めて出かけることもあるが、大方は気の向くままで決まっていない。良く晴れたある日、今の住まいに引っ越すまで住んでいた家のあたりに来ていた。どうなっているか見てみよう、そう思い懐かしい道を歩いた。多くの家々の様子はすっかり変わっていたが、くねくねした狭い道筋は変わっていなかった。

 その家は1964年東京オリンピック開催の直前に父が建てた。五輪景気で資材の値上がりがひどく建築費がアップし、知り合いの建築士が恐縮していた。家が完成して間もなくだった。私は右側を歩いていたら後方から来た大型の二輪車に当て逃げされ負傷、新しい家で五輪をゆっくり見られた。一番印象に残っているのはアベベ選手が金、円谷選手が銅のマラソンになる。

 父はその家に住み始めて2年と経たぬうちに病で入院、再び住むことは叶わなかった。母もこの家から35年前の春、近所の皆さんの合掌に送られた。私は父の建てた家で30年余過ごしたが、新築し引っ越す時に売却した。そんな家の周囲の様子は大きく変わっていた。

 屋敷に立ち入ることはできないが、そばの駐車場から眺めることができた。継時変化は感じたが外観は出るときと変わっておらず大事に住まいしてもらっていることが分かり、立ち寄ってみてよかったと思った。人でいえばまもなく還暦、建築士が「この家は長持ちする」と話したことを思い出したがどのくらい持つのだろうか。
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姿煮を送った上司

2021年02月12日 | 回想

 散策しながらたまに通るかっての商店街、今は開いている店はない。そんな通りで薄くなって消えかかっている「鮎姿煮」の文字に気づいた。何か懐かしい気がし撮りながら、ここの姿煮を土産にして喜んでくれた人のことを思い出した。この店は今は新店舗で料理屋として営業されている。

 その人は私より年下だが、転勤で上司として着任した江戸っ子だった。いつの間にか、仕事もプライベートも妙に気が合う関係になっていた。何故そうなったか思い出せないが、いつの間にかそうなっていた。たまたま私がテーブルマスターのような存在だったこともあり何かにつけて私を立ててくれた。部下の操縦術かもしれないが、上司としてしっかりした信念を持っていた。

 その上司は更に上へのステップとして再び東京へ転勤することになった。送別会はその人お気に入りの郷土色を感じるある料亭で開いた。そんな岩国が気にいった人への土産は何がいいか思案した。ネットで検索など夢にも出てこない時代、かといってこれとこれというものも知らず、考えるといっても自分の行動範囲でしか情報はない。

 思いついたのは、錦帯橋の架かる錦川は鮎の獲れる清流と知られている。そこの鮎を扱う老舗の料理屋兼魚屋で作られる「鮎の姿煮」だた。楕円の缶に入れられた数匹の鮎は、醤油と飴で骨までじっくり柔らかく煮込んであり味のしみ込んだ鮎は、子ども安心して口にできる。酒の肴、食事にもよく合う。気に入っていただけたのか所望もあり追送したことを思いながら懐かしい字体を眺めた。
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生き返る生姜湯

2020年12月25日 | 回想

 「生姜が要る」と土付きの大きな塊をもらった。スーパーでは見れない初めて見る生姜の姿に驚く。菜園を初めて3年目というその人は、習った通り50㌘ほどの生姜を植えたという。測ってみると丁度1㌔、20倍になっている。手はかからないというから素人には最適と笑う。生姜にはいろいろ思い出があるがその一つ。

 三交代勤務の時代、23時からの翌朝7時までの勤務を3番方と呼んでいた。2番方は15時から23時、1番方は7時から15時、勤務割表は1、2,3の数字の繰り返しでシンプルだった。冬の3番方、寒いから、雪だからなどと言って休めない。そんな日は、粉末でお湯を加えると生姜湯になるものを持って出勤していた。

 仕事は計器室ばかりではなく、安全安定運転のためには屋外の作業もある。防寒対策をして作業するが、そこは生身の人間、作業によっては体の芯まで冷える。そこで熱い生姜湯を飲むと、俗にいう生き返るようだった。退職後も冬場には常備品の一つとなっている。風邪かなと感じると一杯飲む、すると風邪が遠ざかっていくようで医者泣かせになっている。

 生姜は体にいい、祖母からよく聞かされていた。チェックすると確かに健康体作りに必要な効能が並ぶ。その一つに体温が上がることで免疫力を高めるとある。厳冬の屋外作業後の一杯は効果があったことを今になって立証とは苦笑する。黄色で辛みがあり香辛料として使っている。最適な保存は乾燥を防ぎ湿度を保つこと言う家内の言に沿って手当てした。
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ISO審査員から

2020年12月20日 | 回想
 
 年賀状準備のため今年届いた賀状を繰っていた。後輩からの1枚に「先輩が退職されて今年で20年。あの時、紹介され取得した資格が、私の退職後も生きています」そんな手書きの文面があった。そうか、あの時取得した資格を活かして働いているのか、私は自分の仕事として成したことだが今も喜んでもらえて良かった、そう思いながら読んだ。

 彼は毎年、取得した資格で働いていることを知らせてくれる。私も取得したいと思った資格だが、何せ取得を推進する担当が初めに取得するという事に抵抗があり、未受験で終わった。高圧ガスや危険物といった取得準備と違い、宿泊を伴う講義など当時の資格試験では超高額だった。それだけに受験者の選抜には慎重が期された。

 その資格とはISO(国際標準化機構)審査員。記憶は薄れているが、ISOの資格取得を希望する企業が機構の定める規格に合致するか審査、取得できるよう指導助言する役を担う。ISOはライバル企業との差別化や海外市場に参入すると国際間取引がスムースに出来る。その種類は品質、環境、食品安全など十種類くらいあり、賀状の彼は品質を担当していた。

 当時は審査委員の需要は高く、資格者の派遣要請は多かった。企業がISOに認定されても、認定を維持するためその後のフォローが必要で、彼も求められているのだろう。審査員の現状がどのようになっているか承知していないが、受験料は会社負担ではあったが、有効な使途だったといえる。くる年の賀状を楽しみにしよう。
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ジャガいもの横綱

2020年12月11日 | 回想

 「ジャガいも堀をしました」と冬野菜と一緒に届けてもらった。例年より遅れた収穫になったそうだが、その中にとてつもない大きさのものが1個あった。収穫した人は「大きさにびっくり、成長過多です」という事で、スーパーで購入したものと並べてみた。

 ジャガいもには思い出がある。小学校低学年の頃だった。ジャガいもの収穫手伝いという事で父と畑に行った。手伝いといっても掘ったジャガいもを集めるくらいのことしかできないが、父は「猫よりまし」と喜んでいた。畑について驚いた、段々畑の1段分のジャガいもが掘られていた、いつか分からないがそれは盗まれたという事だった。終戦後の食糧難の時代、夜なべ仕事に盗んでいったのだろう。

 これを書きながら、ジャガいもという漢字はどう書くの、と辞書を繰った。2冊の辞書とも漢字表記はなかった。ジャガタラいもの略と載っている。慶長年間にジャカルタより渡来したともある。馬鈴薯ともいう。こちらはジャガいもの別称で、とくに生産者と農水省で使う言葉という。

 収穫したジャガいもは1年間、物置の棚に保管してあった。母が出かけるとき「いもの皮を剥いておいて」と頼むことがあった。包丁で出来るだけ薄く皮を剥いた。白い伸びた芽は、包丁の角で深くえぐり取り除いていた。いただいたり購入するジャガいもには芽は出ていない。なお、いただいたでかいジャガいも580㌘、横綱です。
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ロゴマーク

2020年11月20日 | 回想

 アマゾンといえば「南米のブラジルとその周辺の熱帯雨林を流れて大西洋に注ぐ世界最大の河川」というのが学校で学んだ内容、教科書にはうっそうと茂った密林が載っていた。今、アマゾン(Amazon)といえば世界中に広がる通販企業、私もこれまで何度か利用した。朝9時に発注したら17時に届き驚いたことがある。そんなアマゾンのロゴマークのいわれを知った。

 アルファベットでamazonと表記されている。その下に左から右に向かって緩やかな孤で矢印がある。矢印の左端はaで到達点はzで終わっている。英語表記では26文字のアルファベットですべて記述できることから、矢印に込められている意味はaからzで「ない物は無い」という企業のプライドをかけたロゴマークという。

 ロゴマークといえば現役のころCI活動(コーポレート・アイデンティティ)事務局の一員としてロゴマーク作成にも加わった。GFデザイナーの創作活動に必要なあれこれを準備する。聴取や意見も聞かれる。驚いたのは作業着に縫い付けている名札、それは部署別に布地の色が異なっていた。そんな名札を必要とされたこともあった。「飛翔する」そんな意味を込めたロゴが二つの緑の輪(通称ユーホー)に込められている。それまでの伝統ある井桁からユーホーに変わったが企業合併で飛び去っていった。

 2020東京五輪の市松模様、その左右の形の違うのは気づいていたがその違いに意味のあることを知った。オリンピックを象徴するマーク5つの輪のマークのオリンピックシンボルが含まれたものが「エンブレム」、含まないものが「ロゴ」と呼ばれる。どう使い分けるのだろう。
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