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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

愛されて50年

2021年09月19日 | 回想

 インスタントラーメンが登場したのは1958(昭和33)年とある。同じ年に関門トンネルが開通し、日本に石油化学工業が花開した。そのインスタントラーメンより遅れること13年、1971年に世界初のカップ麺「カップヌードル」が世に出て50周年を迎えたという。人々の空腹を満たすため約100カ国で販売され、累計販売は500億食に達するそうだ。我が家にも何食か買い置きがあり私の好みはシーフードとカレー。

 有名にしたのは世に出た翌年、1972(昭和47)年2月に発生した浅間山荘事件という。冬の山中で立てこもりの赤軍派と対峙する警察機動隊員に暖かい食事として配られた。熱湯を注いで3分待てば、その容器のまま食べれることが特長で、その簡便さは誰からも喜ばれた。片手にカップ麺を持ち本が読めたりゲームが出来たりと、今の時世にはマッチしている食品だろう。

 インスタントラーメン、当時3交替勤務をしていた。簡単な夜食としてよく利用した。特に冬場の寒さに対するには熱いインスタントラーメンの味は格別だった。カップ麺の登場は作る手間を大きく省き、交替職場では重宝された。そんなことから、個人名を書いたカップ麺の買い置きが職場に積まれた。

 発売は日清食品、改善改良を欠かさないというが、環境への寄与度も高いと報道にある。容器を発泡スチロールから紙に変更、製造時に使う油をパーム油に、蓋のシール廃止などがある。将来は動物由来の原材料を一斉使用しない完全菜食主義者(ビーガン)対応の賞品も登場という。安心安全で安く簡便な食事の追及は続くようだ。
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もう20年か

2021年09月17日 | 回想

 車の運転免許更新が81歳となる来月になり、更新手続きは済み今はその日を待っている。3年後の次の更新まで無事故無違反で安全運手を完遂したい。このところドライブレコーダーで撮られたヒヤリや事故の映像が連日映像で見せられている。高齢者の事例が多い、いつも参考に見ている。

 免許取得から55年余、あと何年運転できるかわからないが、高齢家庭の我が家に車は欠かせない必需品のひとつで食事の時の箸と同じに思っている。それだけに大事にしているつもりでいる。ハイブリット車に変えて20年近くなるが、経済的には助かっている。

 ある新車を購入するとき「高齢近くなられたのでJAFへの入会はいかがですか」とセールスマンに問われた。日頃からメカに弱いことは自覚しており、退職後の旅行などでのトラブルを思い入会した。会員継続は自動更新なので気にしていなかったが、先日、20年目に継続と通知が届いた。

 バッテリーのトラブルで、これまで1度だけ世話になっただけで過ぎてきた。世話にならないことが最善だが、万一の時の保険と思えば負担には感じていない。近くの車両修理専門の店に青色でJAFマークを付けた車両が待機している。たまに出動を見かけるが、それは日時昼夜を問わないようで、大きなトラブルでないことを願いながら見送ることがある。
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懐かしい物

2021年08月06日 | 回想

 清流・錦川の上流のある小さな集落の集会所を訪ねる機会があった。和風の建物外観からは長いあいだ地域の人を支えてきた歴史を感じさせる。この時期、夏草の茂る時だが周囲には見当たらない。玄関を入って目についたのは木製で横に長い下駄箱。年代物だろうと思いながら自分の履物を棚に置いた。

 履物を置きながらおどろいたのは、雑巾を掛けたがごとく下足箱が綺麗なことだった。砂のひと粒もついていないどころか、艶が出ている。どなたの管理かは知らないが、集落皆さんの人柄が現れているのだろうと思うと、素晴らしい集落だろうと感じた。エアコンがありませんので、応対の人が申し訳なさそうに話される。

 アルコール消毒して部屋に入る。全部の窓が開かれコロナ対策はバッチリ、エアコンの代用として扇風機が7,8台部屋中にくまなく風を送っている。部屋の鴨居に表彰状などが数多く掛けてあり、古い市長の名前もある。この地域は1955(昭和30)年に岩国市に編入された地域になる。

 小学校の時の下駄箱も木製で、目のまえに見るものとそっくりだった。全校生徒2千人分余りが使う下駄箱が一カ所にまとまっていた。その理由を知ったのは卒業してからだった。学校全体のトイレ、当時は便所と呼んでいたが、それが一カ所で下駄箱の部屋を出たところだった。当たっているかどうかわからないが、素直にうなずける。今の学校はどんなになっているのだろうか。
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懐かしい車帰省

2021年08月01日 | 回想

 一昨年のこのころ、いま流行りの「人流」を促す言葉があふれていたのではなかろうか。夏休みも中盤になり、帰省や旅行を促す文言に踊らされていた、そんな気がする。新型コロナの感染が始まってぴたりと止まったのは昨年。この夏は止めていた足取りが戻りつつあり、感染ストップの呼びかけは空を飛んでいる。

 初めてのひい孫の帰りを待っていた同年配の知人と立ち話になった。人流抑制で初対面は先送りになり残念がる。彼は私と同じで、生まれ育ったこの地から離れたことがなく、帰省の経験はない。それだけに子や孫らの帰省を喜ぶ顔を見るのが嬉しい、私と同じ思いを話す。車から新幹線、最近はひょいと飛行機でひととび、今か今かと到着を待った車での帰省の頃が懐かしいと笑う。我が家の息子らも自粛で帰省しない。

 知人の話す車での帰省、自家用車の普及が進むにつれ「民族の大移動」とニュースになった。この地では高速道が未開通の時代、勤務先から自宅まで約10㌔の片側1車線の国道を最長2時間要した経験がある。会社出口の交差点で、国道へ左折できないこともあった。高速が開通すると大渋滞は解消しインフラの威力と新幹線の輸送力に驚いたのは昔の話。そんな人流も今は難問のひとつ。

 物的流通を物流という、すると人流は「人的流通」で物も人も一緒ということになるのだろうか。何がなんでも経済、それが人流と呼ぶことに連なる。そんな理屈はさて置いて、感染数の増加は全国的に高まっている。宣言地域はもとより都県境を越える移動はやめて、抑制のきかない人流映像を見ながら思う。
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赤てん

2021年07月21日 | 回想

 まだ現役で元気なころだったから何十年も前になる。山陰路をドライブ中、島根県浜田市のさかな市場に立ち寄った。ドライブの頼りとして伴をするのは愛用の1冊の道路地図、今のようにGPSに助けられてなど思いもしない。立ち寄った訳は、道路地図に載っていた食事案内に、市場ならではという新鮮な海鮮丼が目に付いた。

 漁港を眼下に眺めながら、紹介通りの新鮮な海鮮丼に満足した。階下には魚中心の土産物店もズラリ、試食も楽しめた。そんな中の1品で「赤てん」が気に入った。魚のすり身に唐辛子を練り込んで、パン粉をまぶして揚げた平べったいてんぷら。唐辛子が効き、歯ごたえのある庶民向きの品に引かれた何枚か購入した。

 最近、その赤てんが「浜田のソウルフード」(その地域特有の料理)として紹介された記事を読んだ。戦後の食糧難の時代「ハムカツを作ってほしい」という要望から地元業者が考案したという。ハムは高価で入手困難、そこで魚市場ならではの発想で魚のすり身となった。ただ、ハムに似せるための工夫が唐辛子とは面白い。

 何度か山陰をドライブするときは立ち寄って購入した。遠乗りをしなくなってからかなり経っていたある日、スーパーで家内が「赤てん」がケースに並んでいるのを見つけた。確かに浜田産の標示があり、見覚えのある板状に揚げた姿だった。久しぶりに浜田港を思い出しながら食した。たまにというか時々というか、今も取り寄せられており出会いを楽しみにしている。
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丸太橋

2021年07月20日 | 回想

 朝から30度近い気温、一気に夏のお出ましとなった。真っ青な空からの陽ざしに押されて、運転中の必需品として常備しているサングラスを今年初めて運転中に使った。それなりの日よけ効果はある。そんなことを思いながら運転していると、遠くの山と山を繋ぐように見える雲の棒が目に入った。再び見え始めたときもその姿は初めと変わらず山と山に渡っている。

 ふと、子ども時代に渡った丸太橋に似ているように感じた。その丸太橋は、材木用の木材を山から切り出す人らが、大きな木を倒し、そのまま谷をまたいで架け、そこを仕事用の道代わりに行き来する。その作りから道や橋とは呼べないが、谷に架かるから橋としよう。その丸太橋は子どもの冒険心をくすぐった。

 仕事士に声を掛けて数㍍のそれを渡る。仕事士みたいには歩けない。両手を広げバランスをとりながら渡る。新しいうちは木の皮がついており滑りはない。そのうち皮が取れ幹の肌が出ると滑りやすくなり、谷川に飛び降り、水しぶきを浴びることは何度もあった。それが楽しいことでもあった。切り出された木は馬車に積まれて運ばれていった。

 沖縄は台風6号で荒れているが、そのほかは夏日や真夏日、中国地方にも熱中症警戒アラートが出た。訪問先を辞するとき「熱中症に気をつけて」と送られた。遠くの棒状の雲、1時間後に通った時は消え青い空だけになっていた。雲も、天気はいいことだし別の山と山の懸け橋に移ったのだろう。
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あれから21年

2021年07月12日 | 回想

 ある会合で昼食がセットされた。広い部屋にセットされていたのは向かい合わせの席。ドアは3カ所開放、透明なアクリル板が頭よりも高くセットされ、向かい合わせを仕切る。そして隣の席とは酌をしづらいくらい離れている。私を含む大方のメンバーはノンアル、静かな昼食会だった。コロナ禍になって初めての会食だったが配慮された処置に心配せず料理をいただいた。

 会食した会場は、現役の時は仕事でよくお世話になった部屋だが、それとは別に特別な思い出がある。21年前の秋に定年を迎えたが、その年の7月に1回目の送別会がこの部屋だった。本社からのある出張者が「君の送別会をするチャンスがないから」と、仕事外の親しい人も含めて、少し早いが思いがけない送別会を催してもらった。それは錦帯橋を眺められる4階の角のこの部屋だった。

 職場の親睦会による送別会が現役で最後の宴、会場は4階の角、はじめと終わりが同じ部屋というのも何かの縁かと思う。所属長が「職場以外の私のすべての送別会が終わってから」ということで、その日は定年退職日の前日だった。何十回と送ってきたが、わが身の時は想像すらしていなかった。女将さんからの丁寧なごあいさつに驚いた。

 アクリル板で仕切られ、隣席との話も難しく、ただただ箸を動かす。久しぶりの宴会場から錦帯橋を眺めながら、酌み交わし声を出しての歓談したころを懐かしく思い返した。錦帯橋の姿は変わらないが、周囲の樹木が錦帯橋の視界を遮るほど高くなり、時間の過ぎたことを思いしらせる。
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廃止は寂しい

2021年07月10日 | 回想
 

 突然ですが、貯預金を引き出すときはその通帳と登録した印鑑を持参、支払伝票を書き押印し窓口へ出す。しばらくすると現金と通帳が手元に返って来る。これか効かなくというか普通でなくなって何十年、やがて貯預金通帳も廃止されるという。多方面から収入があり、支払いも多岐にわたる現代人には、スマホかカードがあれば現金を手にしなくて生きていける。

 今の収入は長年の勤務の果てに資格獲得、受給となった年金のみ、手元で確認しながら日々使っていくことが安心だし、特殊詐欺に支払う金など持ち合わせていないこともすぐわかる。それでも、集金制度が次第に振り込みにかわり、集金が続いているのは年1回の自治会費の徴収くらいになった。そのために何件かのIDやパスワードの設定が必要になった。

 これらはネットを利用すれば避けられない手続きとなるが、忘備録として残している。先日、ある問い合わせをしたら、久しぶりの使用なので確認事項を求められた。それは手続き時にした「最初に購入した車種」の問いへの答えだった。すっかり失せていたが忘備録に残していて、すんなり済んだ。

 ATMの使用料が値下げの方向に進んでいるらしいが助かる人も多かろう。ATM使用に慣れないころの話し。通帳がいっぱいになると窓口で手続きしていた。ある時、ATMがガチャガチャという音に変わった。驚いて見ていると通帳発行中いう表示に見入っていると新旧2冊の通帳が出てきた。そんな進歩は過去、今は窓口の担当者と同じことをこなす。ついていきにくい時代になったものだ。
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もぶり

2021年07月06日 | 回想

 今日は祖母の69回目の命日。墓掃除は数日目、雨の合間に済ませておいたが、今朝は幸いに梅雨の晴れ間となり、朝一番の仕事として墓参りを済ませた。祖母は自宅療養だったが苦しんで家族の手を煩わせることはほとんどなく、誰に心配をかけることもなく彼岸へ旅立った。葬儀は自宅葬で近所の人に見送られ出棺した。

 今朝、「おばあさんの好きだった『もぶり』をお供えしよう」と妻が言う。祖母は「もぶり」が好きだった。亡くなった日の夕食は「もぶり」を作る仕度がしてあった。残念だが祖母は口にすることなく浄土へと旅立った。浄土真宗では仏前へのお供えを引かうように聞いているが、命日くらいはといつもの様に我が家の「もぶり」お供えした。

 「もぶり」は方言で「もぶる」が変化したという。その元は「もぶる」の混ぜるからきている。ちらし寿司はすし飯の上に具を綺麗に並べるが、「もぶり」はすし飯と具を混ぜ合わせてもので「もぶり飯」とも呼ばれる。見た目はちらし寿司の方が上等に見えるが、我が家でなぜかちらし寿司が膳にのった記憶はない。その日は茶碗飯でなく皿飯だった。

 皿に盛られたお供えのもぶりを祖母は味わっただろう。昔の味を記憶していないが今風に変わっていても喜んでくれたと思う。祖母が手放さなかったのは、煙草の葉を細く細く刻んだ「きざみ煙草」を吸う煙管。煙草を吸ってなくても煙管を握っていた。煙草に興味などない子どもころだが、何故か記憶にある。
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勤務中ですから

2021年07月05日 | 回想

 最近のテレビドラマは警察や医療関係のものが多い。医療ものでは医療界の常識を外れたスーパードクターと新技術、時には未来の技術も登場し、快適な展開で進む。警察ものは内部の権力争いを中心に展開する一方で、こちらも警察というイメージ外れのデカさんが難問を推理して事件解決を見せる。

 抱いている警察や医療の現場とは異なるが、防犯カメラ、スマホ、パソコン、鑑識と手際よく進む。そんなドラマを見ると思い出す。1964年の東京五輪大会開会式の少し後だった。23時までの勤務を終えバスを降り、右側を歩いて帰宅中、後方から来た自動二輪車にはねられた。加害車は逃走したが、記憶していたナンバーと転倒時に折損したスッテップを事故現場で警察に伝えた。

 手当を受け帰宅して就寝したのは深夜になっていた。今でもはっきり記憶しているが午前4時に若い制服警察官が来宅。ひき逃げ犯の逮捕状請求のため改めての事情聴取だった。犯行を否認しているので急ぎ手続きと聞いた。聴取中、母が湯呑でお茶を出した。「有難うございます。私は勤務中ですので」と聴取を続けた。早朝の来宅を詫び、結局湯呑には手をつけないで帰署した。

 警察はひき逃げした二輪車を深夜に割り出した。ステップの折損跡はぴたりと一致したが否認したという。私にすれば数時間の早業に思える。1年延期の東京五輪開会式が近づき、ドラマのコーヒーなどうまそうにご馳走になるシーンと見比べている。時代は違うが、元警察官の知人が「お茶一杯が命取り」という経験談を思い出す。
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