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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

コンビニ弁当から

2023年04月10日 | 回想

 丁寧にいえば「お昼ごはん」、昼飯や昼食ともいう。また、弁当ともいう。小学校低学年初めころは、今のように立派で豪華なものではないが、アルミの弁当箱に詰めていた。途中から給食が始まり、卒業まで弁当といえば遠足か運動会くらいになった。竹の皮にむすびを包むこともあった。

 中学と高校では給食は無く弁当を6年間持参した。高校を卒業、給与をもらい始めても弁当持参は続く。3交替という勤務、当時はほかの手段は思い浮かばなかった。そこでは、今では若い人に敬遠される仲間意識、この醸成に役立った。そこでの社会経験に富んだ会話は面白かったことを思い出す。

 工場の福利施策充実の一環で食堂が完成、そこから配送弁当方式が採用され希望者は交替でも暖かい弁当が食べれた。何歳になっても食べることに旺盛でないと活力が乏しくなる。高齢層に深入りするにつれそう感じる。過ぎたるは何とか、そこだけは心掛けて口にする。

 今日、注文してあるからということで久しぶりコンビニ弁当を食べた。量も味も丁度良かった。スーパーで並ぶ店の弁当、時には全国駅弁売り、どれも見た目は買ってもらえる、という作り方で手にしたくなるように作られている。弁当持参、だんだんに影が薄くなっていくように思えるが、家族の絆、職場仲間とのふれあいなどに活かされる食べ物、そんなことを思いながら箸を運んだ。

 (今日の575) 幕の内力士が食べりゃ何個いる
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リンゴの味

2023年02月16日 | 回想

 店頭には何種類ものリンゴが並んでいる。1個売り、数個が透明なポリ袋入り、その基準はしらないが果物コーナーは鮮やかさで他を圧倒している。ミカンも姿を見せるが最盛期ではないようだ。毎朝食べることに賛否のあるバナナは年間通して積まれており、その色の鮮やかさは目立たない。

 リンゴの旬は秋が通り相場だが、品種によって異なる。というのは、何度か本州最西端といわれるリンゴ産地が県の日本海側に広がる。何度かリンゴ狩りを楽しんだ。夏の甲子園大会のラジオ実況を聞きながら車を走らせたことも、少し早い紅葉を見ながら楽しんだこともある。リンゴ園には何種類もの木があり、食べごろやまだうらなりの実など、案内されてわかる。

 試食は何種類でもいい。1個を4人で分けて試食する。そうしないと、どれを購入するか決められない。しかし、甘みが強い、酸味がいい、さくっとしている、蜜が入っている、ことくらい私にもわかるが、微妙な味はつかめない。よって人気の集まった品を購入したように記憶する。リンゴ100%のジュースは逸品だった。

 「リンゴの品種と特徴」という一覧を見つけた。スーパーの売らんかなというアイディアだろうが、これは参考になると記録した。見た外観では味の特徴はとうてい分からない。参考にして食べ方にあった品種を求めればこれまで以上に「リンゴの気持ち」に沿った味わいを楽しめるだろう。我が家は今はジャム作りに精を出している。

 (今日の575) 終戦の心いやしたリンゴの唄
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今日は旧正月

2023年01月22日 | 回想


 中国では春節ということで延べ21億人の人が帰省や旅行へと大移動、国内でも映像で大きく報道されている。日本も3週間前にはコロナ禍でも行動規制の無い年末年始を過ごした。コロナ前には及ばない移動でも久しぶりの帰省を楽しまれた人も多かった。

 今日は旧暦の1月1日で旧正月、昔は祝っていた。明治維新後、日本は西暦に変わり、新暦の1月1日を正月と呼んで祝い始め、太陰暦の正月を旧正月と呼ぶようになた。日本はアジア圏で旧正月を祝わない数少ない国の一つという。現役の頃、マレーシアに赴任していた同期からは旧正月に現地の賀状が届いていたことが懐かしい。

 子どものころは3世代同居の我が家だった。祖母は必ず旧正月用の餅つきをし、お飾りをお供えしていた。お節は記憶ないが、雑煮を食べていたことは記憶している。昭和27(1952)年に祖母が亡くなってからは、我が家の旧正月は消えた。

 春節の大移動がコロナ何度目かの感染拡大にならないことを願っている。日本は水際強化、中国のビザ発行制限などから、さほどの心配はないのだろうが、インバウンドを待つ業界は困るだろう。旧暦1月1日だが今夜は新月、年明けとともに明るい日差しを迎えることになる。ウクライナ終結兆しの年になって欲しいと願っている。

 (今日の575) 旧暦に日本の歩み刻まれし
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お粥の話

2023年01月07日 | 回想

 今年も1週間が過ぎ七草の日になった。七草粥を食べると万病を除くと考えられ、平安朝のころから始まったと言われる。七草の名前は何度も書くが記憶に残っていない。芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、はこべら、仏の座、鈴菜(すずな)、鈴代(すずしろ)の七つ。

 餅やお節、お酒につかれた胃腸を休ませるため七草粥を食べると聞いてきたが、その七草粥は今朝、つまり7日の朝に食べるとある。また、新年から7日目は「人日(じんじつ)の節句というそうで、他人を大切にする日に当たるという。七草粥こうした願いをかなえるという。朝に食べたことはなく我が家はいつも夕食の時に食べている。

 我が家の七草粥、正式な七草を使ったことはないと思う。野菜を作るころは家にある収穫した野菜、今はいただいた野菜が中心で、家に有る野菜を合わせて7種類が粥になる。母の時代も今も変わっていない。スーパーには七草セットが高く積まれているが、我が家は写真を撮らせてもらうだけで済ます。

 お粥といえば七草粥のようにいい話ばかりではない。子どもの頃、終戦直後には「イモ粥」が食事だったこともある。茶粥に厚く切ったサツマイモが入っている。イモは自宅の畑で収穫したもので米の変わりだった。イモの入った茶粥、3世代の家族が腹いっぱい食べれた。漬物があれば何杯でも食べとことを思い出す。茶粥は本県の郷土料理として知られている。

 (今日の575) 茶粥には漬物あれば菜いらず
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祖母の餅

2022年12月28日 | 回想

 日本の正月に欠かせない一品に餅がある。餅屋だけでなく製パンに製菓など多くの企業の餅が並び、歳末を引き立てている。ある棚の「もち」と印刷された丸餅袋入りの製品を見ていた母娘連れの母親が「この餅の形はお母さんの餅によく似ている」という声が聞こえた。年齢から推察してお母さんは義母だろうと思う。

 おそらく家庭での餅つきので義母の手から生まれる丸餅の思い出だろうと聞きながら、我が家の餅つきで祖母の手さばきを思い出した。近くの親戚も我が家で餅つき、朝から夕方近くまで搗いていた。搗くのは祖父だった。臼から持ち出し搗きたてを右手の親指と人差し指でぎゅっと握りしめて一個分に切る。その速さもさることながら大きさがほぼ同じだった。

 さらに、左右の手で同時に2個丸くしていた。子どもの作った崩れた形の餅も同じように両手で揉み直していた。中学生になってからは3年間、祖父の応援で杵を振った。高校生になってからアルバイトで杵との縁が切れた。我が家も母娘の買い求めたと同じ丸餅購入で正月準備が一つ済む。

 餅は餅米を蒸してから臼と杵を使ってねばくなるまで搗く。餅は正月だけでなく誕生祝い、棟上げなど慶事には欠かせないものになっている。今では家庭用餅つき機もあり、スーパーには年中並んでおり食したいとき食せ、子ども時代とのあまりの違いに戸惑う。餅の歴史は平安時代にさかのぼるともいうがどこから伝わってきたのだろうか。

 (今日の575) 金網で餅焼くころが懐かしい
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70数年ぶりかな

2022年12月26日 | 回想

 中学校を卒業したのは昭和31年の春。2.5㌔くらいの徒歩通学だった。これが当たり前な時代だった。通学路は今でいえば、バタンコが通れば軒下に避けるくらいの道幅が多かった。学校近くでは稲田の中の道を通った。

 もう一つあった。住宅地を少し外れたところに牛乳屋があった。乳牛を見ながら通り過ぎる。その先に広いい墓地があった。そこの道幅は狭く坂もあり自転車も無理、といっても当時それほど通らなかった。とにかく墓の間を通った。

 知人の呼びかけでちょっと出かけた折にそんな道を約70年ぶりくらいに歩いてみた。道の状況はそれほどの変わりようは感じなかったが、墓の数は相当数増えているように思った。また、墓地の際まで住宅が建ち並び、景観が一変する大きな変わり方に驚いた。気が付くと、ゆっくり歩いていたのは懐かしかったのだろう。

 学校周囲も住宅地帯に変わり、校舎も木造から鉄筋に変わり都会風になっている。学校傍にあった揚げパンの美味かった店、大きな代書屋、間口の広い酒屋など跡形もなかった。野球部の練習が始まった。在学中とはバックネットの位置が真反対に移り、野球のピッチング練習場が出来でいた。在学当時、市内では強剛だったが今はどうなのか、掛け声を聞きながら思った。

 (今日の575) 卒業し70年の月日たち
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富士山柿

2022年11月27日 | 回想

 「頂き物ですがお裾分け」といただいたのは「富士柿」のラベルがついている柿。子どものころに富士山柿と呼んでいたと同じもの、店頭では見ていたが手にするのは久しぶり、いや何十年ぶりかになる。手のひらに乗せるとどっしりした重さが懐かしい。祖父母の大好物でもあったので仏前に備えた。

 前に住んでいた家には渋と甘い柿木があった。渋の方は正式な名前かどうかは知らないまま「富士山柿」と祖母が呼んでいたのでそのまま使っていた。ちょうど、今ころにもぎ取り、収穫の終わった稲のもみ殻をもらい、それで柿をすっぽり覆い、年明けまで 覆いを外さずにしておく。

 年明けに開くと熟柿になっている。口に入れるとトロリとした感触、おやつのない時代なので何よりの物、待ちどうしかったことを思い出す。熟柿の色は茜色で、その一つ一つは霊峰富士山の夕焼けのようで、まこと富士山柿とはよくつけたと、今でも思い出す。そんな富士山柿の木を譲ってから何十年も経つ。あの木はどうなっただろう。

 毎年、もらった柿で作っていた渋柿で干し柿を作っていた。「ごめん、今年は不作で届けられない」ということで見送った。自然のことゆえ仕方ない、来年は豊作でと願った。秋は果物が豊富、食べたいときには買っている。祖父母は味わって満足しただろうか、勿体なくてと眺めているかもしれないが、明日にはいただこうと思っている。

 (今日の575) 身の渋を抜ければまあるくなれるかな
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畑の思いで

2022年08月30日 | 回想

 日常的に通る県道を走るとき時々だが思い出す。この位置に広さ約一反ほどの我が家の畑があった。そこでは自家用の季節ごとの野菜を育てていた。子どもの頃は親について、父が亡くなってからは母が健康作りを兼ねて細々と作っていた。私も社会人になってから、勤めの合間に母の手伝いをした。肥料など重量のあるものは出勤前に運んだりしていた。

 そんな畑が、何の前触れもなく突然「公共用地として買い上げる。説明会に出席を」という案内が市から来た。説明会では自治会役員や農業委員などの根回しが済んでいて、地権者の声を聞く説明会ではなかった。買取価格は提示されたまま、契約を結ぶしかなかった。40年以上も前になる。

 後で気づいたことがある。口座を持たない金融機関の人が突然来宅し「畑が売れたら預けて欲しい」という。話が通じないのでお帰り願った。公共用地として買い上げされるという情報を持って勧誘に来たのだろう。どうして金融機関が先に情報を入手しているのだろう。今だに謎だがその後にも似たことを経験した。

 「知人のブログに稲刈りが終わった。今週後半は雨の予報、冬物野菜のニニンジンや白菜など早めに蒔かないといけないものを蒔いた」と種袋の写真と合わせて載っていた。母も植え時の野菜の種を一袋買ってきて蒔いていたことを思い出す。冬物野菜が待ち遠しい季節になった。

 (今日の575) 自家野菜負けるものなし味の濃さ
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あれから37年

2022年08月12日 | 回想
 

 37年前のこの日も、盆休み前ということで職場恒例となっている懇親会が会社施設で開かれた。地元出身以外の同僚は各地へ帰省する前日でもあり、酒量は控えめで進んだ。私は休み中の留守番役を仰せつかっていて、多くない酒量を控えていた。宴が終わり中締めで三々五々帰宅の途についた。

 階下に降りた時に後に「日本航空123便墜落事故」と称されるJALの墜落速報が報じられていた。搭乗者名簿が画面に次々と流れる。見つめていた上司が「あっ」という大きな声を発した。仕事上でつねひごろそんな声を発する人ではないことで異変を感じた。

 上司はすぐに社宅の家族に連絡した。知人と同姓同名の一人の搭乗者に奥さんは気づき、在京の知人宅へ連絡、搭乗していないことを確認されていたようで、それを聞いた上司の安堵した姿は、これまた職場では見たことが無い。聞きはしなかったが、長く深交のある人だろうと感じた。事故にあわれた方の慰霊は今日も行われたという。

 乗客乗員524名全員が絶望かと口には出ないが思っていた。翌日の昼前、4名の生存が民放で報道され、驚きと喜びが交差した。ヘリに救助される映像は今も残像になっている。今、勤務するJAL職員の多くはこの事故を経験していない。この事故の伝承をどう引き継ぐが、安全の専門家はこれからの課題という。

 (今日の575) 御巣鷹の消えぬ事故跡教訓に
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一杯のコーヒーから

2022年06月22日 | 回想

 出かけた先で30分くらいの待ち時間が生じた。出かけ直す手もあるが施設内でコーヒーを飲んで時間つぶしとした。初めての店内、コーヒー注文の要領を聞くなどして席に着いた。席はコロナ感染防止策により座れる席は指定されているが、そんな店内は半分近くの席が埋まっている。

 ふと、「一杯のコーヒーから」という懐かしい歌詞が何故か思い浮かんだ。しかし、続く「夢の花咲くこともある」の後の歌詞は全く浮かんでこない。どのくらい昔の歌だったのか、ラジオで聞き覚えたのはいつ頃だったのか、妙に気になり時間もあることだしスマホで検索、「いっぱいの」まで入力するといくつかの項目が並ぶ。その中に目的の文字がある。検索する人があるようだ、そう思いながら開く。

 何と発売は私の生まれる前の1939年3月、コロンビアレコードからで、霧島昇・コロンビアローズが歌うとある。作詞は藤浦 洸で作曲は服部良一。藤浦はお酒が飲めないコーヒー党、服部はビール党。初めのタイトルは「一杯のビールから」であったが、お酒の飲めない藤浦は「ビールをコーヒー」に直したという裏話も残っている。

 この歌は多くの歌手によって歌い継がれているともある。こんな記述を読みながら。地下の喫茶店に通っていた半世紀以上昔を思い出す。レコード発売当時のコーヒー一杯は15銭、地下の店は30円か50円くらいではなかったろうか、そんなことを思っているうちに注文したコーヒーが運ばれてきた。たっぷりの量に満足の待ち時間を過ごせた。

 (今日の575) 珈琲はカステラ供にやって来た
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