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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

枇杷の効用

2022年05月14日 | 回想

 遠くから見ると黄色の野鳥が群がって止まっているように見える、もうこの季節かと思う。それは枇杷の木で、枇杷の実の傷つき防止、鳥獣や虫の餌にさせない、太陽光を避けるなどのために袋かけをする。とい言って我が家にはないが、摘果しながら袋かけする人から聞いたことがある。

 枇杷の実はオレンジ色に薄い黄が掛ったような色あいの丸い実。肉厚だが中には大きな種が2個潜んでいて、食べしろは見かけより少ない初夏の実。これが常緑樹でバラ科というが、どこが似ているのだろう。あの大きな葉には素晴らしい薬効があるといわれるが、実も素晴らしい効果がある食べものでビタミンやカロチンなどいくつもの栄養素があるとか。効果があるほど食べたことはない。

 葉も実も人体に有用な要素を持つなら幹はどうだろうか。思い出がある。息子は小学1年から中学卒業まで剣道をしていた。中学生の時に子どもの話しになり剣道をしていることを話すと、有段者の知人が、素振りの練習を木刀でするようにと愛用の品をもらった、その木刀が枇杷の木製だった。あとで品質の良いことを剣道の顧問から聞いて驚いた。今も保存している。

 子どもでも枇杷の薄い皮は簡単に向けて、そのままパクリと食べた。種はその場にポイ捨てだった。というのは、皮をむいて皿に盛って、などではなく取った木の下でいくつか食べると駆け回って遊んでいた。昔の子どもは野性的で元気だったのは枇杷の栄養素のお陰だった、苦笑しながら思い出す。

 (今日の575) 大きな種あの空洞が実ならいい
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あの会社は

2022年05月07日 | 回想

  今朝のNHKニュースで「りんごの花が咲く時期を迎え、青森県弘前市の公園では『弘前りんご花まつり』が開かれています」と映像はリンゴ花まつり会場の様子をいろいろな姿で紹介していた。桜の花に続いて楽しむ人らに、長い冬の雪との闘いに解放される嬉しさを感じながら、ある残念だったことを思い出した。

 仕事で青森県弘前市に在る加工メーカーを訪問することが決まった。それは2000年1月、先方の冒頭あいさつが「雪に閉ざされています」という挨拶が印象に残っている。用件の打ち合わせで何度か電話、今ならリモート打ち合わせだろうが、長電話とFAXで進んでいた。訪問は準備や雪を考え、弘前城の桜の頃という先方の提案、日本一の桜が見られる提案に異議を挟む余地は全くなしと喜んでいた。

 経済は一寸先が分からぬ生き物ということは感じていたが、担当の仕事に関して直撃を受けるとは予想していなかった。用件は本社扱いの案件だったが、錦帯橋の桜開花の少し前に「案件は消滅」となった。経営の行き詰まりだが、倒産はしていないということだった。

 各地を出張していたが東北地方は初めての案件、その年の秋には定年なので2度とない出張案件が消えた。青森県は北海道函館での葬儀に往路は飛行機、復路は青函連絡船と東北本線で通過したのは53年前。本州最西端に住む者として、本州最北端を訪問できなかったのは残念だった。あの会社今どうなっているだろう。

 (今日の575) かなうなら今も行きたい弘前に
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思い出の先生

2022年03月28日 | 回想


 近くの小学校では異動される先生方の離任式、児童にとってはお別れの式が30日に開かれる。私は小学6年間で、1と2、3と4,5と6の各2年間担任は同じで3人、3,4年は女性教師だった。すべての教科を担任がこなしていたが、5、6年の音楽は隣の組の女性教師に習った。在学中に3人の先生の異動はなかった。

 2年ごとにクラス替えがあり同級生の交流があった。小学6年間でクラス会の経験は1度だけ。それは3、4年のクラスが分かれて50年目の桜の頃に集った。2名の級友がすでに亡くなっており黙とうから会が始まった。大方は山口、広島県内の居住だが遠くは茨木県からの出席もあった。全員が当時の定年である60歳を超えた年だった。50年過ぎているがI先生はたいそうお元気でみんな安心した。

 当時の先生は年齢的には少し年の離れたお姉さんという感じだった。嫁がれた先が幼稚園で、後に園長となられたが在任中に還れない世界へ旅立たれた。通夜には当時の級友の何名かと臨んだ。多くの卒園生も参じ別れを惜しんでいた。高校卒業までに唯一の女性担任だった。

 ある会場で、I先生と同姓で住居地の同じ方に出会った。それとなく伺ねるとI先生と親戚間関係の方で、小学校の教師時代をよくご存じだった。しばし、半世紀以上過ぎた昔を思い出し、「思い出に残るいい先生でした」と話した。その日は、何か閊え消えたような気持ちいい日だった。

 (今日の575) 先生と本気で呼べる人でした
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懐かしい物干し

2022年03月23日 | 回想

 知人のフェイスブックに懐かしい生活の写真が載っていた。洗濯物が竿に通され数段の物干しに掛けられている。これは子どもの頃の光景だと見入った。家族は大人数、洗濯は洗濯板を使い手洗い、それを手で絞って、竿に通して干して乾かす。その竿を掛けるのは竿を乗せる受け木のついた対の長い棒だった。

 背より高い位置に竿を乗せるには、先端がY字状になった棒で差し上げていた。晴れた日にはそのまま夕暮れまで洗濯物は自然の風に吹かれるままに揺れていた。取り入れるときもY字棒は活躍した。雨の日は部屋にロープを張っての室内干し、頭を下げて部屋の中を動いていた。

 我が家に電気洗濯機が入ったのは昭和30年代の前半と思う。手洗いはなくなった。絞るのは洗濯した物をローラーに挟みそれを手回しして絞る方式だった。洗濯物をポイと投げ込み洗剤を入れスイッチポンで、後は洗濯機まかせで脱水も終わる。さらに乾かしてくれる。余裕になった時間の使い方に工夫がいる。

 最近は風に任せて洗濯物を乾かす、などは難しくなっている。それは気象予報士の呼びかけるスギ花粉、今日の当地の情報はやや多い、明日は多いとなっている。洗濯機と乾燥機の一体化は環境の変化により必然性があったのだろう。幸いにも花粉症知らずで乾燥機のない洗濯機で間に合っている。陽ざしを直接受けた洗い物には自然の温もりが保たれている。洗濯干しの懐かしい光景はどこに行けば見れるのだろう。

 (今日の575) 子供服竿の鉄棒でくるりんこ
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手作り雛

2022年03月02日 | 回想

 フェイスブックやブログに雛飾りのアップが増えた。明日はひな祭り、お祝いする家も多いだろう。アップされた写真は豪華な飾りや、それぞれの長い歴史などが綴られている。それらは核家族化以前の飾りが多く、よき時代を忍ばせる。

 我が家の姉妹にはこうした飾りが残っていない、のではなく、もともと無かったのだと思う。私の子どもは男で雛飾りはない。孫娘には嫁の親元からの届いた飾りはあったが、就職し自炊生活なので飾ってはいないだろう。娘はいないないが、陶芸で手作りの小さなひな人形などを、ワードで描いた絵と一緒に玄関に飾る。これで季節感を出している。

 子供のころの3月3日。近所の老若男女が、家々手作りの花見弁当を持ち寄り車座になって宴が開かれていた。蓄音機が大活躍をしていた。手動ハンドルでネジを巻き、黒い円盤にのせられた針が上下に揺れながら今でいうBGMの役目をしていた。どのくらい楽しかった記憶にないが、ご馳走が食べれたということは記憶にある。近所付き合いも深まっただろう。

 今はこんなことはしない。ひな祭りを祝う料理もケーキもネットで注文、宅配で届く。BGMは通信手段を使えば世界中から届き、思い出はビデオに残し、祝いの様子はリモートライブで親元へ。こんな現在のひな祭り、玄関の小さな雛人形はどんな思いで見ているだろうか。ちょっと気の毒な気もするが老夫婦の玄関には似合いのようだ。

 (今日の575) 手作りの雛人形に桃の花
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代八車

2022年01月20日 | 回想

 散歩道の或る通りに古物商というか骨董商というか、それを兼ね備えた(これは私の解釈)大きな店がある。何年か前、早朝の火災で店舗は新しくなり、店頭の品を見ない限り造りだけでは新しい店に見える。長く見ているが、店内には珍しい品が並んでいる。メダカ用に大きな古い陶磁性のカメを購入したことがある。

 そこの店頭では初めて見る代八車の輪(車)が置いてある。珍しいと撮っていると「何の輪ですか」と若いカップルがスマホを向ける。一瞬戸惑ったが「時代物映画で米や炭を乗せて運ぶ長ぼそい車を見たことがあるか」と問うと「覚えがある」という。それに取り付ける車、という迷解説で納得してくれた。取り外せることに驚いていた。

 子どものころ我が家にもあった。使わない時は台を外し軒下に掛けていた。使うのは年に何度か、菜園で出来た大根やイモ類などの収穫の時に使った。代八車は前後が上下しシーソーのようで扱いにくかった。その後、リヤカーが普及、空気の入った車は子どもでも動かせた。

 「八」は8人分の代わりをする車の意(広辞苑)という。その働きは江戸時代では欠かせない運送の役を担った。昭和になり、リヤカーの登場までは主役だった。その後は軽トラが登場、高齢者を応援している。あの時の若い二人の旅人、時代劇ドラマを見ることがあればスマホ写真を開いて思い出してくれると嬉しい。

 (今日の575) 江戸時代 代八車 大重宝
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あの日その時

2022年01月17日 | 回想

 1955(平成7)年1月17日5時46分に阪神淡路大震災が発生した。その時間は出勤前でいつものように朝食をとる時間だった。突然の大きな揺れに驚きながら、棟上げして間もない終の棲家が気になり、現場へ車を走らせた。周囲をかこった覆いに異常はない。内部を確認するも倒れたり崩れた様子はない。ほっとして家に戻った。
 
 「大地震で大変なことになっている」と家内がTVを指す。いくつかの炎が見える。NHK中継画面と東京からの音声がかみ合わない。音声はさしたることは無い感じで流れる。あとで分かったことだが、すべての通信手段が途絶え、双方向の連絡はつかなかったという。ほどなくして関西に帰省していたアナウンサーが連絡を取り、現実の災害状況が伝わり始めた、そんな記憶がある。

 急いで朝食を済ませ出勤。職場のTVで情報を取る。時間の経過とともに被災地の状況は拡大する。まもなく関西に帰省していた社員の家族が被害にあった。関西に住む母親が閉じ込められ救出待ち、出張中社員の安否確認など、TV映像とにらめっこしながら時間が過ぎた。「おい、昼飯は食ったか」という誰かの声を今も記憶している。

 15日の午後、南太平洋のトンガ付近で発生した大規模な噴火、今日の午前にも噴火したという。15日は津波の心配はないといわれたが、夜半になり注意報・警報が発令された。津波発生の原因の詳細はこれから詰められるが、自然界には解明をされていない不思議があるようだ。
 
 (今日の575) 未解明 地球の芯は 謎だらけ
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餅の食べ方

2022年01月11日 | 回想

 鏡開き。子どもの頃のこの日は鏡餅の入った善哉を食べた。年末の餅撞で二臼目に搗いた白い餅を鏡餅にしていた。鏡餅を作るのは祖母で、その鮮やかな作り方は今も目の奥に残っている。完成すると三方にのせて床の間に飾っていた。鏡開きの日、硬くなった鏡餅は木つちで割られ善哉に入れられた。祖母は何故かこういう仕来りにこだわっていた。

 息子は小1の時、自分から希望して近くの公会堂道場での剣道を習い始めた。年が明けると冬休みが終わるまで朝5時ころから寒稽古が始まる。火の気のない道場で子どもら良く頑張った。稽古の最終日、少し早いが鏡開きが恒例だった。母親たちは手分けして準備した具材を持ち寄り稽古終了に合わせ仕上げていた。冷たい床板に正座して食べた善哉の味、覚えているだろうか。

 購入した餅の容器にこんな文字が印刷されていた。「もちを食べる際には、のどにつまらせないように十分に注意をして召し上がってください。もちは、食べやすい大きさにして、よくかんで食べるようにしてください。もちは必ず加熱調理して召し上がり下さ」、意味は違うが「餅は餅屋だ」。もちを喉に詰まらせ救急搬送されたニュースを元日に見た。餅販売者からの注意呼びかけ、心しておこう。

 終戦直後の我が家の暖房は火鉢。そこには常に赤くなった炭火があった。餅をおやつに食べるとき、炭火の周りの五徳に金網を乗せて焼いていた。何度もひっくり返しながら焼け具合を確かめていた。たまにプ~と膨らむことがあり喜んだ。今は餅を食べたい時に食べれる、思い出で作りにはならなくなった。

 (今日の575) 搗き立てが 祖母の手先で 鏡もち
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仕事始めの回想

2022年01月04日 | 回想

 多くの企業や官庁関係は仕事始めの日。リモートワークの時代の仕事始め式はどんな形態になるのだろう。社会人になって初めて仕事始めの式に出席したのは30台前半だった。それまでは三交代勤務で、そうした折々の式などは縁遠いかった。やはりトップの話を聞くということは必要だ、初めてのときそう感じた。

 それから数年してある部門のスッタフの一人として働くことになった。そこではトップの方針に対する所属部門の目標を立て、その具体的な展開策を部門内に周知、さらに各職場ごとの実施策の作成をした。その際の上司、ワンマンで有名な上司の指示は「決して虎の威を借りた進め方はするな」という短い一言を受け自由な策が作れたことを思い出す。

 そんな上司のある年末年始。年末休暇に入る前「三交替職場の計器室に鏡餅を届けられないか。元日の朝、交替職場を訪問したい」という二つの相談が出た。何十個もの鏡餅は業者の協力で間に合った。元日の朝はミーティングの終わったころ上司に同道した。突然の訪問に驚きとともに年始の挨拶が和やかに交わされた。訓話などないいい仕事始め、こんな仕事始めもいいもんだと見ていた。

 コロナ禍は3年目に入る。ニュースではトップの仕事始めでの挨拶が流されていた。企業も官もそのコロナ対応が出ている。企業優先か民優先かで策は変わる。虎の威に負けず、持ち場での最善の策を進めて欲しい。 当市の人口は13万人、今日の新規感染者は62人、東京都に換算しなおしたら、思うだけで怖い。
 
  (今日の575) 虎の威が 表に出ぬが ありありと
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餅つき

2021年12月11日 | 回想

 餅つきの歌、「ぺったん ぺったん お餅つき」だけは知っていたが、なんと数多くあることを知り、その内容から、長く日本人の庶民生活に密着した待ちどおしい歳末の決まり事だったのだろうと思いをいたす。しかし、20年くらい前に帰省した孫のために、餅つき機を借りて作った事があるだけで、我が家の餅つきは半世紀上前から止まっている。

 子どものころには親戚数軒が我が家でついていた。ひと臼目は白いひら餅。石臼が温かくなったふた臼目はお鏡、これは祖母の独占作業、何十という目が見守る中で絵に描いたように均一な形に丸めあげていた。その後は白い餅、豆餅、ヨモギ餅など何種類かが完成していた。そのころは祖父がつき手を1人でこなしていた。私が中学生になると祖父から私に変わった。父は仕事で留守、帰宅し並んだ餅を見て満足そうだった。

 我が家の餅つきは2度、初めは年末、2度目は量は少ないが旧正月にも餅つきをしていた。今は年中、食べたいと思えば、柔らかい餅が店で購入でき、餅という特別な感覚は薄れた。我が家に長年奉公してくれた石臼とそれを乗せる台、杵、蒸し器など一式はある施設に引き取られた。

 餅つきといえば祖母の魔法のような手さばきを思い出す。どんな餅でも両方の手のひらを使い1度に2個作り上げる。その形が同じ、子どもの作った形の悪い物はもみなをし喜ばせた。餅は食料兼おやつでもあった。中でも餡もちは格別だった。餅つきはしなくなったが、元日朝の雑煮は欠かさずいただいている。餅をつく音を聞いていろいろ思い出した。
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