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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

日給300円のこと

2023年08月21日 | 回想
 

 先日のはがき随筆で掲載された「日給300円でも」を読んでくれた知人から「300円、何かの間違い、桁違い、よくわからん」と読後感が届く。よくわからん文章で申し訳ない、と反省しつつ思い出しながら綴った。

 私は昭和30年代半ばの高卒。就職試験解禁初めは求人数が激減状況だったが、3学期になり大幅に増加、実業高校の我がクラスは就職率100%だった。我がクラスの就業先企業の初任給は8千円を中心にして幅があった。ただ1社、1万円があり1名がそこに入った。

 300円が高いか低いか。日給300円は初任給8千円で換算すると20数日分になり、それなりのバイト料だと思う。同時期バイトで最高は日給350円、バイト先は氷屋、仕事は氷の注文があった家庭に角切り氷(写真)を配達する。私の配達する小包と違い、解けないうちに届ける必要がある。電気冷蔵庫普及前の時代ならではのアルバイトだった。

 今年度山口県の最低賃金は4.5%の40円アップで時間給928円。全国の平均1004円にはまだ至らない。実施は10月からという。国民・厚生年金も久しぶり増額になったが、その額は生まれ年の関係で私は1.9%、率では最賃制より大幅に低く、喫煙はしないが日割りにすればタバコひと箱も買えないという厳しい現実。自ら打開するしかないだろう。

 (今日の575) 金額じゃないと恰好つけてみる
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日の丸弁当

2023年08月15日 | 回想

 先日、ちょっと手伝いをしたら「お昼にしてください」と弁当を貰った。持ち帰り蓋を開けると、主食は日の丸弁当だが、おかずは昔のそれからは想像できない豪勢な内容だった。昔の日の丸弁当を忍ばせているのは小さく刻んで添えられたタクアンだった。中高時代は給食なしで弁当持参だった。夏場は必ず丸のままの梅が乗せてあった。

 梅は特に夏場のご飯の腐食を防ぐため、と教わっていた。しかし、ちょっと貧乏くさい感じの弁当に思えた。だが今の科学は、米と梅の化学的関係から、健康には非常によい組み合わせという。今、コンビニでムスビを買うとき、一つは必ず梅入りを買うのは、昔の名残が無意識のうちに出るのかもしれない。

 終戦の前日、麻里布駅(現岩国駅)周辺はB29の世界初といわれる絨毯爆撃を受け500名余の死者を出すなど大きな被害を受けた。その追悼式が昨日行われた。午前11時15分のその時間に合わせ黙祷。今日は正午からの全国戦没者追悼式に合わせ今年5回目の黙祷をした。追悼式では尊い300万余の亡くなった人らへの哀悼の気持ちを表す。

 日の丸弁当、本当は国旗のように白い米の飯に赤い梅が乗った弁当を指すのだろ。しかし、戦地で粗食に耐える兵士を思い戦中は銃後の守りとして、梅干し1個だけの弁当だったという。古老から「日の丸弁当には戦中を生きた者はそれぞれの思い出がある」と聞いたことがある。戦争のない世界になるよう声を出さなければいけない。

 (今日の575) 食後の茶弁当箱の蓋で飲む
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土砂の力

2023年07月10日 | 回想

 先月末から続いている梅雨前線の悪戯、今日は北九州を中心に大荒れしている。錦帯橋のすぐ上流地域でも200㍉を超えている。錦川上流の数カ所あるダムはすでに放流が続いている。「大雨のため流入量が増加、さらに増加が予想されるため放流量をさらに増加させます」と県防災メールが入る。

 水害という直接の被害、小学校高学年の時に裏山が崩落し土砂が我が家に流入、風呂とトイレを押し流し、土砂が床下を埋めてから何十年も経験していない。子どもながら、床下の土砂搬出をしたことを記憶している。床下に防空壕があった。そこに、土砂に押しつぶされた池から、押し出されながら生き延び1匹の赤鯉が泳いでいたのに驚いた。

 その土砂被害は、錦帯橋がキジア台風で流失した翌年のルース台風だった。この時、地域の人が使う臥龍橋が流失した。住んでいる地区は今でいう孤立に似た状態だった。学校には打行けず、お寺の本堂で学習した。しばらくして渡し舟で登校が始まった。

 TV中継、おっとライブで映し出される被災の映像を見ると、古い記憶と重なり被災地への思いが深くなる。進歩した土木技術で護岸は改修・整備されているだろうが、自然界はこれを超える力を持っている。それを助長しているのは人間の作り出す地球温暖化ではなかろうか。為政者は本気で温暖化抑制の政策を打ち出して欲しい。
 
 (今日の575) ハザードの画面見にくいスマホでは
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71年目の祥月命日

2023年07月06日 | 回想

 今日は祖母の71回目の祥月命日。人の死に初めて出会った日で小学校6年だった。今日のように暑い日だったかどうかは記憶にないのだが、蒸し暑い日だったことは覚えている。祖父、私の両親と私らに見守られる中で帰らぬ旅立ちは自宅葬だった。

 祖母は何かにつけて「長男だから」と私に言っていた。今に思えば跡取りということを子どもの時から意識付けようとしたのかも知れない。赤穂浪士全員の氏名とその人らを語っていたことを思えば、何となく理解できる気がする。私が20才代はじめに父が急逝、直後どうしようと考え込んでいる時に信じがたいが祖母の「落ち着いて」という声が聞こえ立ち上がれた。

 祖母の亡くなった日、母は夕食に祖母の好きだった「もぶり」と呼んでいたが五目寿司を作る準備をしていたが、食べることは出来なかった。そんなことを母から聞いていることもあり、我が家の今日の夕食に五目寿司を妻は作った。すぐに仏前に供え命日とした。

 夕方「採りたてです」と届いたのはトウモロコシ2本。それを見て思い出した。子供のころ住んでいた家の傍の菜園に、この季節には祖父母の育てたトウモロコシが育っていた。戦後の物のない時期、祖母はおやつ代わりに茹でたそれを切り分けて食べさせてくれた。新鮮なトウモロコシが届いたのが偶然ではなく、命日がそうさせたのだろうか。祖母の命日を守るのは私ら夫婦だけになった。

 (今日の575) 思い出す自宅葬での人の和を
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室内干し

2023年06月16日 | 回想

 雨の日だった。レジに並んでいるとき聞こえてきた会話。「あんた洗濯物どうしとる」「乾燥機が無いので全部室内干し」「おじいちゃんおばあちゃんもいっしょじゃけえ大変ね」「3人の子どもの洗濯物は半端じゃない」。雨の日の洗濯、ふと、子どものころを思い出した。

 会話の中の家族構成が子どものころの我が家に似ている。両親と5人の子ども、祖父母のあわせて9人家族だった。洗濯は盥(たらい)と洗濯板を使っての手洗い、水を絞るのは手で強くねじって水を除く。これを母がこなしていた。今は洗濯機のスイッチをONさえすれば洗濯の全工程をこなしている。

 雨の日の我が家の洗濯ものがどう干してあったか、全く思い浮かばない。エアコンは無し、扇風機はどうだったろうか、これも記憶にない。部屋はいくつかあり室内干しをしていたとしても困ることはなかったろうが、どんな工夫をして乾かしていたのか、肝心なことが湧いてこない。

 「くさい、臭うと」若者が演技しながら、快適な洗濯や室内干しに最適と、今の時期ならではのCMがながれる。出演者からは洗濯したり使ったりしている感じはつたわらない。もう少しリアルに、実際に使っている人の声の方が商品の力を表現できるのでは、素人が勝手に思いながら、オーバーな演技を見ている。

 (今日の575) 洗濯機乾燥つきを次は買う
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賑わいはどこへ

2023年06月09日 | 回想

 かつて「人口当たりの飲み屋数が全国で何番目かに入る」と言われた通り、飲み屋街。現役のころの後半は週に複数回はその通りにある店を利用したりお世話になったりした。私的でも仕事でもいわゆる「つけで飲める」店も何軒かあった。時には「今日はおごるでよ」といい恰好をしたことも思い出す。

 完全リタイヤしてからは年に数回くらいの夜歩きだったが、コロナ禍になってからは、30数年以上も続くクラス会をはじめ旧友らとの酌み交わしが全くなくなった。幹事役から、残念だが感染の恐れありで飲み会延期の連絡は続いたが、行動制限は解けたが復活の連絡はまだ来ない。大方が八十路を超えた仲間なら、卒業してもおかしくはないのかも。

 そんな通りを、車で通ることはあっても店のことまでは気にせず安全運転で抜けていた。雨の日だったが、そんな懐かしい通りに今も続いている店である会の昼食会が開かれ参加した。超久しぶりにその通りを歩いてみた。なじみだった店の名前は見当たらなかった。店じまいかと思わせる跡もいくつかあった。

 客待ちのタクシーが列をなし、ネオンがまばたきしてしながら誘う下を会話しながら酔客が行きかう、そんな賑わいは無くなったと話すのは年配のタクシー乗務員。このごろは雨の日、店からタクシー予約しても30分もかかることがあるという話、かつての賑わいを客待ちの車内で思うと聞かされた。

 (今日の575) 端っこですみませんねとママの顔
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手押し除草機

2023年05月31日 | 回想

 定かな記憶はないのだが、田植えは梅雨に入ってからという子供のころの記憶が強く残っている。家から5分のところ一帯は田んぼだった。小川が2つあり、田んぼはそのどちらかに接し、田植え前には足ふみの水車で小川の水が田に汲み上げられていた。つばめが飛び交い蛙の声が騒がしかった。今は商業地となり小川も一つは消えた。

 退職してから数年過ぎたころ、知人の家を訪ねた帰りだった。田植え準備の済んだ田んぼを見ていると「よく観察しろ」という。田植えまじかの田にオタマジャクシも蛙もいない、草も全く見えないことを教わる。知人いわく「除草剤など農薬の関係」という。知人もサラリーマンを終え稲作を始めた一人、米作りの大きな変化を教えられた。

 今は、小さな田でも苗の植え付け、米の刈り取りにも機械化が進み子供のころの風景を思い出すことはなかった。ところが、毎日交流のあるSNSに、手押しの除草機で田んぼで作業中の写真が登場した。田植え後の除草は稲を育てるために重要な作業と聞くが、子どものころに普通に見ていた作業の姿を懐かしく、動画ならいいのにと思いながら眺めた。

 農薬を使わず昔ながらの道具を使う、写真の除草機は新しい物のように見えることから、手押し除草機にこだわりがあるのだろうか。牛がゆっくり田を耕していた子どもころの風景を思いだしながら、今年の豊作を願った。

 (今日の575) 手作業にこだわるコメの味よしか
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松の新芽

2023年05月06日 | 回想

 松の新芽が伸び始めると思い出すことがある。1964(昭和39)年は東京オリンピックが開催された年。余談だが、この大会では先の2021年東京五輪のように大会を汚す事件は報道されなかったと思う。初めての東京五輪の年に父は住んでいるとは別の場所に、終の棲家を建てた。五輪工事で資材が高騰したのは昔も今も変わらない。

 趣味で庭師のまねごとをしていた父の知り合いが、小さな池と築山、松など庭木を数本使い庭を築いた。庭木の剪定は父の急逝後もその知り合いが亡くなられるまで続いた。若くて手入れなどに興味もなく過ごしていたので、どうしよう、頼めば出費がかさむし、さてどうしよう、困った困ったと悩んでいた。

 自治会で同じ班の職業庭師の人が「松の手入れを教えるから自分でやれ」と声を掛けてもらえた。その時、新芽を摘む時期とその方法を、脚立に乗せた足場板の上で教わった。芽の処理は年に2回、2回目に古い葉をむしり取る、そのときに形を整える。一人作業になって、私が仕事で留守の時に何度か見に来られたと家内から聞いていた。

 「年を取ると庭木の丈が低くなる」という我流で剪定する先輩の話を記憶している。父の終の棲家とは別のところへ私も建てた。狭い庭だが植えた木の剪定ならぬ枝切りは我流、安全を保つため先輩の話しどおり丈が短くなった。見上げる丈の松のよく育った新芽を見ながら50年以上も前を思い出していた。

 (今日の575) 新芽摘むすまんと思うときもあり
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しらせ5003

2023年05月02日 | 回想

 第1次南極地域観測隊1956年の記録映画、これを見たのは1958(昭和33)年で高校3年のときだった。学校行事として全生徒が錦帯劇場で鑑賞した。当時の観測船は海上保安庁の宗谷。新造するには建造費及び建造期間の点から不可能、結局国内にあって改造可能な船を検討する中で、耐氷構造の「宗谷」が候補に浮上し決定した。

 資料を見ると急あつらえとも思える宗谷、その初めての任を終えた記録映画の上映が終わっときだった。誰が第1拍だったか分からないが、拍手が起き、全校生徒に広がった。誰もが抱いた感動だったが、それを拍手で表した一人の生徒がいたということを、60数年すぎた今も記憶している。宗谷は1962年まで観測船として活躍した。

 姪の長男の自衛隊員が第63次・第64次南極地域観測隊の支援として砕氷艦「しらせ5003」の乗員の一人として参加、とは聞いていた。そのお土産のお裾分けとして、しらせ5003が印刷されたアルミ箔に包まれたビスケットが届いた。初物は仏前に、という我が家のしきたり通りお供え。ひ孫の成長を両親は喜んだと思う。

 記録映画鑑賞の余話。鑑賞会が原因かどうか、その夜から発熱、流行っていたインフルエンザーに罹った。翌日は欠席となったが、全校で流感がはやり休校となった。ということで、欠席とならず済んだ。そのおかげで高校3年間は欠席なし、卒業式では皆勤賞を受けた。越冬隊に感動したお陰かもしれない。

 (今日の575) タロとジロ感動以外ない出会い
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アッという間の2時間

2023年04月12日 | 回想

 コロナ禍で感染防止拡大を防ぐためいろんな指示や要請が出た。それぞれの対策について多様な意見が噴出した。話題の筆頭は例のマスクだろう。我が家は未使用なので記念に残しているが、そろそろ処分かもかもしれない、こう話したら「お宝鑑定で値が付くまで処分するな」の声に大笑いした。

 そんなことで宴会に食事会にちょっと一杯など集合することは忌避してきた。葬儀や年忌法要も家族中心で、お持ち帰りとなった。春になりコロナ対策は自己責任ということになり、街は賑わっている様子だ。そんな中、8年ぶりに在京の友人が所用で訪ねてくる、ついては、ということである日、現役のころの思いでの残る部屋で出会った。

 九州からも来られ、外はあいにくの雨模様となったが、現役のころの懐かしい昔話に、定年から長い年月が過ぎ、後期高齢者となっていることを忘れるくらいだった。つい、長話になってしまう。楽しいからと言って新幹線は待ってくれない。2時間ほどの歓談でお開き、見送りとなった。同期会でもだが同じ類が集えば時間の経つのは早い。

 店にはマスク着用お願いの掲示、不特定多地域から人が集まることへの警戒感、マスク着用は個人判断とは言いながらまだ必要とされている。マスク越しの会話も3年余となれば、これが当たり前のようで、久しぶりの友との会話も楽しめた。次の機会にはマスクなしで話したい。

 (今日の575) マスク越し変わらぬ口調アッと過ぎ
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