マラキ書1章
「わたしはあなたがたを愛している」という神の告白でマラキ書は始まります。けれども、見えない神が私たちを愛しているのをどのように確かめることができるのか、というのは、多くの人の疑問であり問いかけだと思います。
神はイスラエルの民の問いかけに、エサウの子孫であるエドムの荒廃を見よとお答えになります。神を私たちは自分の目で見て確かめることはできません。しかし、きょうも無事に一日を迎えられたという当たり前だと思うことにも、特別に良いことが起こらなくても、神の愛を覚える心でありたいです。
神の愛の告白に民は、特に神に仕える祭司はどのように応えているのかが、6節以降に記されます。それはひどいもの…。不真実な信仰、いい加減なささげ物、取引のような奉仕の姿勢があばかれます。
ペテロは私たち信仰者は、だれもが「王であり祭司」だと言っています(ペテロの手紙第一 2章9節)。だから、ここに指摘されているのは私たちのためでもあるのです。
月に一度通っていた川越にある高齢者施設での宣教の最後の日、ケアハウスの皆さまのすてきなサプライズが用意されていました。良いかおりが家中に拡がっています。