エペソ人への手紙 4章1−16節
土曜日はストラスブールを往復。礼拝出席者のお一人がちょうど誕生日でお祝いしました。そしてこの日は、私たちの孫の一人も誕生日。妻はいつもこちらで赤飯を炊くのですが、ストラスブールの皆さんに食べていただいて喜んでいました。
神の教会への壮大な計画についての教えと祈りを繰り返したパウロは、4章以下ではそれがエペソの教会においてどのように実践されていくのかについて書いています。ですから、ここからは命令形の動詞が目立つようになります。
この手紙の主題は教会、そしてキーワードは「一つ」です。パウロはこの部分で、神がキリストによって実現してくださった和解、一つであるという事実を、一人一人がどのように歩むことで確認することができるのかを勧めています。
3章1節に続き、ここでもパウロは自分を「主の囚人」と呼びます。彼はこの事実を悲しんでいるのでも、嫌がっているのでもありません。 むしろ、これこそ神が自分を召してくださったことの証しなのだと伝わってくることばです。そして、これからの命令を与えるのに、彼こそふさわしい者はいないのです。
4節以下の「実践篇」には、「歩みなさい」ということばが続きます。17節は「むなしい心で…歩んではいけません」、5章2節には「愛のうちに歩みなさい」、5章8節に「光の子どもとして歩みなさい」、5章15節に「自分がどのように歩んでいるか……注意を払いなさい」とあります。
そしてここでは、教会が一致し成長するためにどのように歩むのかが勧められているのです。「召された」というのはすでに起こったこと、事実を指します。だから、一致のために労するのは理に適っているという進め方をパウロはします。そのために、神自らがこの地に下って来られたのだと書くのは、召された者としての歩みの正しい動機となります。
「バラバラだ」と外側を見て嘆いたり、あきらめたりしないようにという促しをここからいただきます。