エペソ人への手紙 2章11−22節
日本から来て五日間当時に滞在しておられた方と空港で会いました。滞在地が別の場所だと思っていましたら、私たちが住むところにおられたとのこと。これを書いている頃は、ルーマニアの上空を飛ぶ機上です。
神の恵みによって、イエス・キリストを信じることによって罪と死から救われた者は、誰もが神の作品であり、良い行いをするために新たに造られたと書いたパウロ。それを受けて彼は、「ですから、思い出してください」と続けます。
彼が思い出してほしいことというのは、エペソの教会を構成している人々が「異邦人」であり、「無割礼の者」と呼ばれ、「キリスト(メシア)から遠く離れ」」、「イスラエルの民から除外され」、「他国人」、「望みもなく、神もない者たち」だったということです。ここまで言われたならば悲しみ、いや怒りさえ湧いてきます。
それが今、キリストにあって近い者となった、いやそれどころか、神の民として一つとされ、神の御霊を宿す聖なる宮となったということこそ、パウロが伝えたいことなのです。
16節に目を留めました。キリストは十字架によってかつては神から遠く離れた者たちを神と和解させてくださいました。そしてそれは、神の選びの民とそうでない者の間を隔てていた壁を取り除くものでもあったのです。このパウロのことばからは、エペソの教会の課題が何であったかを考えることができます。
少々の飛躍をお許しください。異言語、異文化の社会に住んでいると、あからさまな、あるいはちょっと気づきにくい差別を受けることがあります。見えない壁のようなものを感じるのはそのような時。しかし、立場を変えれば、私もまた気づかれにくい差別をする者となりえます。
キリストがこの世界にあって成し遂げてくださったことは、じつに大きなもの、すべての人に必要なものだったのです。