エペソ人への手紙 5章1−20節
火曜日朝、日本との間でオンラインでのミーティングがありました。日本はまだまだ残暑が厳しいと言っておられました。来年初めに発行される新刊書についての打ち合わなのですが、「みことばの光」11月号の裏表紙(カレンダーのあるページ)に案内があります。
エペソ人への手紙後半のいわゆる「実践編」での、パウロの勧めが続きます。すでに書きましたが、ここでもパウロは「歩みなさい」を繰り返し用いています(2、8、15節)。
2節では「愛のうちに歩みなさい」とあります。それは、キリストを信じる一人一人は神に愛されている子どもだからなのです。「両手いっぱいの愛」という子ども讃美歌の歌詞を思いました。「どれくらいぼくを愛してるの?」(新聖歌483)この問いかけの答えは、2節後半にあります。キリストが十字架に架かられた、それが私たちを愛していることの動かない証拠なのです。
キリスト者の妻に、ある時夫がボロッと言いました。大きな病を得てすっかり意気消沈していた彼は「ぼくは神から愛されていないのかな」ともらしたのです。その時「だいじょうぶ、愛されている」と確信をもって言えなかったと、その妻は悔やんでおられました。しかし、まもなく夫は神の愛を信じて神の国へと旅立って行かれた、その出来事をここを読んで思いました。
8節は多くの方に親しまれています。そして忘れてはならない勧めです。「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました」ということばに目が留まります。「闇の中にいた」ではなく「闇」だったとパウロは書いています。周りが暗闇で、その中にいるかわいそうな自分ではなく、あなたそのものが闇なのだというのはまさに、神に背を向け、罪の中を歩む者の姿なのです。
でも、今は「主にあって、光となった」のです。新しい人を着た者の姿です。ふさわしく歩めとパウロは勧めます。以前は「光の子どもらしく歩みなさい」でしたが、新しい訳では「光の子どもとして歩みなさい」です。「として」がいいですね。