詩篇 60篇
月の第一日曜日は日本語とドイツ語の二か国語礼拝。司会者も、そして宣教もドイツ語が入ります。ドイツから出た讃美歌も含めるように選んでいるのですが、次回からは、何節めかをドイツ語で歌うことを考えてみたいと思っています。
60篇には長い表題があります。特に、本篇の背景について詳しく書かれています。それによると、王ダビデが周辺諸国と戦った頃を背景に歌われたものだということが分かります。
この詩篇の始まりと終わり近くに「拒む」ということばが置かれています。それは、神が私たちを拒まれたというように用いられています。戦いを背景にして神が拒まれるということですので、この時ダビデを王とするイスラエルは敗北を喫していたのです。
実際には、アラム・ナハライム(今のシリア)と戦ってダビデたちは敗北を味わっていたのです。それをダビデは、敵が強いとか自分たちが弱いからというように見てはいません。神の助けがなかったから、神が自分たちを拒まれたからとしているのです。2―3節からは、むしろ神が自分たちを揺るがして敗北に追い込んでいることさえ考えます。
神が自分たちの側におられると信じる人々は、敗北や失敗をしたときには、自分たちの神への態度、神の前の自分のありかたがどうなのかということに思いが向かいます。
大切なのは勝った負けたということではなくて、神の前に自分はどうなのかということ。このことに気づくのは、敗北が得る大切な教訓なのではないでしょうか。
11−12節に目が留まります。ダビデは「人による救いはむなしい」と言い、神にあって 私たちは力ある働きをします」とも言います。そのとおりなのです。