先日、逝去した叔父(中里の叔母の夫)の告別式があった。
子供の頃から最近に至るまで色々とお世話になっていたことから、感謝の気持を込めて
「お別れの言葉」を奉読した。
「お別れの言葉」
私が叔父さんと初めて会ったのは、結婚相手の叔母を迎えに来た六十数年前のことでした。
柔和な笑顔を絶やさない「寡黙な人」という印象でしたが、それは、定年退職後に畑仕事に専念する姿を
見かけるようになってからも、変わることはありませんでした。
叔父さんは、子供の居なかった岩渕家に「乞われて養子」となり、岩渕家の興隆と家族の幸せのため獅子
奮迅の大活躍をされました。
経済連や畜産公社に勤めながら、休みの日には農作業に従事し、農繁期になると、昼食時間も惜しみ、
トラクターを運転しながらオニギリを食べるのは、当たり前のことでした。
そんな努力が実を結び、岩渕家興隆を確固たるものにすると共に、子供二人、孫五人、ひ孫八人に恵まれ、
そして、四世代九人が暮らす大家族の中で、孫やひ孫達に囲まれ平穏で幸せな日々を過ごしながら、92年の
人生に幕を引きました。
その人となりは、常に、家族や周りの人達を支える中心的な役割を果たしながらも、自慢したり、ひけらかし
たりすることはありませんでした。
また、岩渕家の家族だけでなく、阿部家の人達についても何かと面倒を見てくれました。私は、食欲旺盛な
高校時代、畜産公社の所長だった叔父さんから時折プレゼントされる肉を食べるのが一番の楽しみでした。
そのような事例を一つひとつ挙げて改めて感謝すべきところですが、際限無くなりそうですので、叔父さんの
人柄を象徴するようなエピソードを紹介し、お別れの言葉とさせて頂きます。
それは次男の武君がまだ幼稚園に通う時代のことでした。
兼業農家に嫁いだ叔母は、嫁であり、妻であり、母であり、労働者であり、家事全般を担う立場にもありました。
幼稚園に行っている我が子の遠足等に付き添うことも出来ず、いつも姑が行っていました。
ところが武君は、母親が付き添って来る友達が羨ましく感じられ、最後の遠足の前日の晩に「明日はお母さんと
行きたい」と祖母にお願いしました。幸い祖母の了解を得られた武君は大喜びで母親に報告しました。
しかし、母は、「お出かけ用の服」が無く、困ってしまいました。そんな母親に、武君は「エプロンを外して
いつもより少しいいもの着れば」と無邪気に話しかけました。
遠足当日の朝早く、未だ店が開いていない時間帯にも関わらず、父親が何処からかブラウスを買って来て、
母親に渡してくれました。
その真新しいブラウスを来た母親と武君は、めでたく最初で最後となる「母子遠足」に行くことができました。
叔母は五十年以上たった今も、その「思い出のブラウス」を大切にしまっています。
どうぞ安らかにお眠り下さい。
平成31年3月14日
熊 谷 良 輝
(合掌)