霜後桃源記  

安心、安全と美味しさへのこだわり
そんな「こだわりの農業ブログ」を毎日更新
主役の妻は生産部長、夫は営業部長兼雑用係

理不尽な半年遅れの採用

2024-01-06 16:29:19 | 思い出
    電電公社一関電報電話局に採用されたのは昭和43年10月のこと。
    自転車で初出勤の日、「上の橋」の上から直ぐ近くに見える電話局の鉄塔
を眺めながら「遅まきながら社会人としてスタートする」という高揚感があり
つつもやや複雑な心境だった。
   今も毎日のように橋を通り、否が応でも鉄塔が目に入り当時のホロ苦さを
思い起している。


 高校三年の秋に合格通知を貰い当然4月から採用されるものと期待し、
合格していた大学進学も断念していたにも関わらず採用通知が来ることは
無かった。
 近所のお偉いさんからは「合格しても縁故が無いと採用されないらしい」
などと脅かされ益々不安が募った。
 その半年間の不安感と会社に対する不信感は半端では無く、長いサラリー
マン人生で「身を粉にして働く」愛社精神にやや欠ける面があったのは、
このような理不尽な採用にあった。
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鰻重

2023-09-01 18:48:58 | 思い出
 奥様は外食を好まない。
 自分の作った食事が「一番美味しい」と思っているかのようだ。
 それでも二人とも夏バテ気味で食欲も減退していたことから、奮発して
鰻重を食べることにした。
    猛暑で外仕事がままならないこともあり、知事選と県議選の不在者投票を
済ませてから鰻料理の老舗「梅茂登」に向った。
   高価な食事をすることは今まで無かったことなので注文してから30分も
待つことを初めて知った。
  待っている間、梅茂登が53年前の二人の結婚披露宴の会場だったことを
思い出した。


 披露宴の最後に、突然新郎の挨拶を求められ慌てふためいた。
 右も左も分からない21歳の若造にまともな挨拶など出来るはずも無い。
 ただ一言「ありがとうございました」と頭を下げて済ませれば良かった、
と今にして思う。
 そんな苦い過去を思い起しながら食べた鰻重だったが極めて美味だった。
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S先生の得意フレーズ

2023-01-04 20:30:34 | 思い出
   昔から利用している床屋さんは、赤荻小学校の野球部の先輩でもある。
   髪を切りながら「昔し話し」となることが多く、今日は野球を指導してくれた
S先生の話題で盛り上がった。
   練習でミスしたりすると「ケツでバットか」と言ってバットで尻を叩き、
試合中はベンチから「臭い球引っかけて行け」とバッターに声掛けするのが
常だった。
 このS先生の得意フレーズを、陰で皆が口真似していたので今なら「流行
語大賞」になったに違いない。

 5年の時の担任でもあったが、授業で何を習ったかは全く記憶に残っていない。
 絵を描くのを得意とし、いつも教室の後に畳二畳分ぐらいの大きなキャンバス
を置き、授業の合い間に学校周辺の景色を描いていた異色の美術教師だった。


 昨日の強風で門口、庭、屋根、雨樋等は落ちた杉っ葉で一杯となった。
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懐かしい「いろは歌」

2023-01-02 19:31:13 | 思い出
 昨日の朝日新聞天声人語が、明治時代に作られた「いろは歌」を紹介して
いて昔を懐かしく思い出した。
 いろはの47文字に「ん」を足して、すべてを一度だけ使うことば遊び
だった。

 鳥啼(な)く声(こゑ)す夢覚ませ 見よ明けわたる東(ひんがし)を
空色映えて沖つ辺(べ)に 帆船(ほぶね)むれゐぬ靄(もや)のうち


 この歌は、昭和43年10月に一関電報電話局の電報課に採用され、直ぐ
に仙台の研修所に入所した際のタイプライター訓練の教材だった。
 この時ブラインドタッチの練習を繰り返したことで、キーボード入力の
基本をマスターすることが出来た。

 そんな関係もあって文字の配列は全く異なるが、私は今でもローマ字で
はなく日本語入力でブログ等を作成している。

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金田正一

2019-10-08 21:47:18 | 思い出

前人未到の400勝投手金田正一が亡くなった。
巨人に移籍した当時の彼の著書「やったるで!」を読み、豪快さだけが記憶に残っていたが、
今朝の毎日新聞の社説は違っていた。

(毎日新聞2019.10.8の社説)

根性論で金田さんが偉業を成し遂げたわけではない。独自の手法で厳しく自己管理に徹した。
同じ時期に南海(現ソフトバンク)でプレーした野村克也さんは「大記録を支えたのは食事と
練習だろう」と述べている。
当時、アスリートの食事法はまだ確立されていなかった。金田さんは体の土台を作るために
自分で食材を集め、仲間にふるまった料理は「金田鍋」と呼ばれたほどだ。早くからミネラル
ウオーターを取り寄せて飲み、体調には常に気を配った。

投げ込みや筋力トレーニングよりも、走り込みにこだわった。振りかぶった反動を使い、足の
勢いで投げる。
そのフォームは下半身の強化に支えられていた。巨人の長嶋茂雄さんをデビュー戦で4三振させた、
曲がり落ちる「ドロップ」も、安定した下半身のたまものだった。
科学理論の発展や用具、打撃技術の向上もあって、現代と単純比較はできない。だが、破格の記録は
技術と工夫に裏打ちされていた。(一部を抜粋)


(写真はネットから借用)

現役引退後、金田は一関カントリークラブの理事長をしていたことがあった。

何かの記念大会の挨拶で、「夏の暑い中でプレーをして、昼食時に冷たいビールを飲んだら体が
ビックリするから、そんな馬鹿な真似はするもんじゃない」と言っていたことを思い出した。

                             (合掌)


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