19日の夜に帰省し20日朝から今日の午時4時まで、フル稼働で大部分の畑の耕起を終えた次男は
5時過ぎの新幹線で帰京した。
お蔭で畑作業の遅れを10日程度挽回することが出来たので適期播種が可能となった。
(今日の午前に終えた後山の南側の畑)
(北側を一往復した時点で昼食休憩とした)
19日の夜に帰省し20日朝から今日の午時4時まで、フル稼働で大部分の畑の耕起を終えた次男は
5時過ぎの新幹線で帰京した。
お蔭で畑作業の遅れを10日程度挽回することが出来たので適期播種が可能となった。
(今日の午前に終えた後山の南側の畑)
(北側を一往復した時点で昼食休憩とした)
一人暮らしの老人が火事で焼死するニュースを目にすることが多い。
そんな不幸な事態を避けるため親、子、孫が一緒に暮らすのを理想形と考え、それに向けた環境整備に
努めているが子供達に「明日は我が身」の危機感は全く無いようだ。
今朝の毎日新聞社説は「引き取り手のいない遺体」について書いていた。
その数の多さや自治体によって扱い方が大きく異なる事実を知り驚いた。
そして、老人介護のみならず幼児保育等々も含め核家族よりも大家族が数段優ることを改めて再確認
した。
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毎日新聞「社説」2025.5.15
「き取り手のない遺体 対応のルール作りが急務」
単身の高齢者が増え、遺体の引き取り手が見つからずに行政が対応を迫られるケースが相次いでいる。
ルールの整備が必要だ。
亡くなった人に身寄りがなかったり、親族が疎遠で対応できなかったりする場合、居住地の市町村が
墓地埋葬法などに基づき火葬や納骨をしている。国の委託調査で、こうした事例が2023年度は死亡全体
の2・7%に当たる約4万2000件に上ったとの推計が、初めて示された。
浮き彫りになったのは、自治体によって遺体や遺骨の扱いに大きなばらつきがある実態だ。
病院や警察から死亡の連絡を受けた後、引き取る親族を探している段階で火葬する自治体がある一方、
葬儀会社に費用を払って長期間の冷凍保管を頼んでいるケースもある。遺骨についても無縁仏として合祀
してもらうまで年単位で安置するところもあれば、保管場所がないため火葬後の収骨をしない自治体も
ある。
故人が残した遺品の取り扱いにも統一ルールがない。これらの手順を定めたマニュアルがある自治体は
約1割にとどまる。
多くの先進国では、自治体が墓地の提供や埋葬の法的義務を負っている。これに対し日本には、遺体や
遺骨の帰属、火葬や納骨の担い手などを定めた包括的な法律がない。社会の慣習として、家族や地域住民
によって弔いが営まれている。
だが、1人暮らしの高齢者は670万人を超え、50年には1000万人に達するとされる。遺体の引き取り手
が見つからないケースの増加が見込まれ、今のままでは対応しきれなくなる恐れがある。国や自治体の
役割を明確にするための議論を急ぐべきだ。
ただ、弔いの形は個人の価値観や地域の文化と深く関わる。画一的に決められるものではなく、行政が
できることには限界がある。
高齢者が生前に希望する葬儀方法などを書き残しておき、遺志を反映させる選択肢もある。それを促す
ため自治体がエンディングノートなどを配布する取り組みも広がっている。
国内の高齢者数は40年ごろ最多となる。「多死社会」の本格的な到来を前に、誰もが不安なく最期を迎え
られる仕組みを考えたい。
長男は交代制勤務のため日勤の日は2時に起床し5時には家を出る。
一方、長女は常日勤だが帰宅時間が遅く、入浴時間は午前0時を過ぎることも稀ではない。
早寝早起きを旨とする年寄り二人は、そんな同居人の物音で起こされることが多い、
妻は「寝直し」出来るタイプだが自分は一度目が覚めると時間に関係なく起き出すことになる。
今朝も一階の物音で目が覚めたのは午前1時半だった。
そのため早朝から目がショボショボで夕方には頭痛までして来て大変な一日となった。
お別れの言葉
お別れに際し一言感謝の言葉を添えて、不肖の息子の最後の親孝行とさせて頂きます。
思い起こせば、3人の子供達が小学生当時、サラリーマンだった父が病気で倒れ、女手ひとつで
家族の生活を支える大変な時代が長く続きました。
当時、田植えや稲刈りは人手頼みの時代で、近くの農家を手伝って手間賃を稼ぐと共に、実家から
借りた田畑を耕し家族の食糧を確保するという文字通り血と汗と涙の日々でした。
そんな厳しい環境下にも関わらず子供達は病気や怪我もなく健康そのもので育ち、揃って齢80に
なろうとしていることに大感謝です。
もう一つの感謝は、人生100年時代を象徴するかのように102歳という長寿を全うしてくれた
ことです。
それは子供達に「人生は未だこれから」という大きな希望と勇気を与えてくれました。
30年前、父が危篤状態で医者から「今夜が山」と言われ、徹夜で見守ったことがありました。
交代で何度も病室の心電図を覗き込みながら廊下で「まだのようだ」を繰り返していました。
意識不明の危篤状態のときに「ヒソヒソ話しは良く伝わる」らしく、父はイヤガラセでもするかの
ように、翌朝、二人が家に帰って間もなく息を引き取ったのでした。
その時オフクロサンは「10年も看病をさせて置きながら付き添っていない時に息を引き取る
なんて・・・」と嘆き悲しんだのでした。
しかし、「埼玉から駆け付けた娘の到着を待って息を引き取った」というのが父の真意だったと
思われます。
30年振りの父との再会に際し、最初にそのことを確認し、天国でも夫婦仲良く暮らすことを
願って止みません。
令和7年4月23日 熊谷良輝
実家の母が102歳の大往生を遂げた。
10時半からの火葬に始まり5時からの通夜まで一日中の拘束となったが、「小規模に」
との兄の意向で参列者は少なかったものの、受付等々で近所の方や従弟達に多大な労を
掛ける形となってしまった。
通夜の席で「桜の花が散るのを見て戒名に桜の文字を入れ込んだ。桜は散ってしまうが
来年になるとまた花を開く。 その花を見て故人を思い出して欲しい」と和尚さんから有難い
法話があった。
明日は葬儀。
「海より深い恩を受けた母」なので「お別れの言葉」を述べることにした。
叔母達から「孫が読むのが普通」との意見もあったが、母の一番苦しい時代を知っている者
として自分が最適と思って手を挙げた。