魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

珍発明

2010年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

20年ぐらい前。散髪をしてもらいながら、ロボットの話になった。
「ロボットで散髪も出来るようになるんですか」
「そうなるでしょうね。散髪ヘルメットとか・・・」
「え、そうなったら、僕ら仕事が無くなります」
「今日、明日の話じゃないでしょ」

先日のWBSによると、今、手術ロボットが、アメリカから導入され、世界では1400台以上使われているそうだ。日本では、ほぼまったく開発されておらず、アメリカ標準に支配されそうな状況だという。
その理由として、日本の医療制度の問題と、医療と工業の技術連携が出来ていないことが挙げられていた。

しかし、理由はそれだけではないと思う。
自動車参上」でも言った、新技術より「慣れの文化」に拘泥する日本の体質の問題だ。ことに、学術分野における師弟関係などの精神性の尊重が、合理的な革新性を押さえ込んでしまう。

「ロボットが手術をする」と言う「響き」そのものが、頭から拒否感を生んで、日本では真面目にそんなことに取り組むこと自体が、受け入れられないからではなかろうか。
日本では何事も、コロンブスの卵のような、「発想の転換」が拒否される。

件の手術ロボットを見ると、ロボットと言うより補助ツールだ。
人間の肉体的技量を補助する、モビールスーツと言ってもいい。

日本人には発想からして出来ないだろうが、完全手術マシーンを開発するなら、まだまだ挽回の余地がある。
手術技術と手術知識を別けて考えるなら、単純ミスはなくなるし、むしろ、レベルがアップするのではなかろうか。
もし日本がやらなければ、いずれ、必ず中国がやるだろう。おそらく、完全自走の自動車も。(電気自動車にも中国は飛びついた)

アメリカのモダンタイムスには、バカげた発明の映像が一杯残っている。日本でも珍発明家「00のエジソン」がお笑いネタになる。
ただ、アメリカが日本と違うのは、「まともな人」が珍発明家と言われる心配をしないことだ。思い立ったが吉日。やってみよう!
その結果、思い切った製品が生まれてくる。

日本には素晴らしい技術が腐るほど有るが、
「売れる物は何か」「どうすれば客が欲しがるか」と、考えては作っていない。ただひたすら技を追求する。
一方、商売の上手い連中は、何からでも「価値」を見いだし売りつける。日本人が自ら価値を知らないものでも。