魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

世相祭り

2024年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム

近年、スポーツ番組は音を消して観ている。実況アナウンスを聞いていると、思わず「ウルサい!」と言いたくなる。特に、流れの速いサッカーなどは、状況が悪くなると過剰に悲観的になったり、過剰に希望的なことを言い出す。試合終了近くなると、試合が終わったことを前提に話し出す。
実況放送なのだから、状況に反応するのは当然で、それが臨場感を伝える実況放送の価値なのかもしれないが、状況ばかりが見えて実体が見えなくなる。

音を消して光景だけ観ていると、様々なものが見えてくる。選手や審判の動きや心理、会場の環境や観客の反応、それら一つ一つが冷静に見渡せ、何が起こっているかが良くわかる。一緒になって興奮することはないが、大声が無くとも選手のすご技やドラマティックな展開には本気で感動できる。むしろ自分の心底からの実感で納得いく。

酒飲みは、酒を飲まずに酒席に付き合う人間を嫌がるが、飲まなくても酒席の好きな人もいる。飲んでいる方は、一緒に酔っ払ってないと共感できない、自分だけ馬鹿みたいだと思うが、飲んでも酔わない人もいれば、飲まなくても場の雰囲気に酔う人もいる。
祭りに参加するより、祭りの意味を知り、自分なりに祈りたい。

祭りは、共同体の共感と結束のため、神様という酒に酔う酒席のようなもので、本気で酔う人もいれば、責任感で段取り進行を考える人、祝詞をあげる神職もいる。それぞれの捉え方で参加し、それぞれの仕方で喜んでいる。
スポーツ観戦も、祭りのようなものだ。沈黙の中で観ることも一つの楽しみ方で、これはこれで楽しい。

食レポを聞いて食べたいと思い、美味しいと思う人もいれば、どんなに評判が良くても自分の口に合わなければ食べない人も居る。
料理人や料理研究家の中には、あからさまにグルメ番組を嫌う人がいるし、星幾つ認定と声を掛けてくるグルメ本を「結構です」と断る店も少なくない。勝手に評価を下すような輩に牛耳られたくないからだ。

テレビの親分
日々刻々動く世界を伝えるニュース報道で、われわれも世界の動きの中にいることを実感する。報道がなければ世界の動きを知ることはできないが、報道は実況放送だ。
起こった事実とともに発せられる言葉や、映像の映し方で、スポーツ実況と同様に無意味に扇情をかき立てられ、怒り悲しむ。
報道が無ければ、起こったことや動きを知ることはできないが、そこにある事実と伝え方は切り離して受け止めなければ、何も見えなくなる。

「親分、てえへんだ!てえへんだ!」と子分が飛び込んでくるのは、捕物帖の定番だが、たいていの親分はすぐには反応しない。静かに聞いている。
メディアが「てえへんだ!てえへんだ!」と騒ぐニュースは、黙って静かに聞いて、要は、何が起こっているのか、「てえへん!」かそうでないかを聞き分け、おっちょこちょいメディアの親分になって、静かに聞いて考えたい。