魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

民主敬語

2010年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

№910

先日、たまたま観たNHKの「みんなでニホンGO」という番組で、何でも「様」をつければ敬語だと思っている悪例の、オチが、「お客様は何様ですか」で笑った。

その中で、医療をサービス業と考える一環として、「患者様」の是非が話題になった。

大体、昔から、口語で「様」レベルの言葉を聞くのが嫌いだった。
「神様」「上様」「お殿様」・・・のように、厳然たる階級があった社会を、民主主義は否定しようとしてきたのではないのか。
美しい日本、美しい日本語・・・と言う時、ほとんどが、古典的秩序を維持する「形」のことを言っている。

民主主義を広めることと、旧秩序を維持することは矛盾する。
旧秩序が一概に悪いわけではない。旧秩序には堅苦しさとともに、立場に甘んずることの気楽さもあった。上下関係がハッキリしていれば「様」で呼び、呼ばれる関係は、解りやすい約束事だった。

しかし、人権と人格を認め合う民主主義には、機能や立場の上下はあっても、人に上下はない。
にもかかわらず、旧秩序で使われていた尊敬や謙譲を使うことが、美しい日本語だと考えるから、おかしなことになる。
今日の実体にない仮想の階級を作り上げて、古社会のように使うから無理になる。

立場上の上下と、階級の上下はまったく違うものだ。
客商売の、売り手と買い手は、立場であって階級ではない。
階級は入れ替わることはないが、客の立場は何時でも入れ替わる。
立場上の上下は仮想階級であって、相対的だから、尊敬語や謙譲語もあくまで仮のものであり、気持ちのこもらない浮いたものになる。

「様」呼びには、この「嘘」が同居している。
民主主義社会での敬語とは、階級につけるものではなく、人格につけるものだろう。
「様」は社会形式の呼称であり、本当に、相手の人格を見つめ、尊重して発する言葉なら、むしろ「さん」の方が、口語として真実の敬意が籠もるように思う。

「様」と呼びかけられれば、どこか身構えるが、「さん」と呼びかけられれば、だれでも、素直な気持ちになるのではなかろうか。

お医者様
「患者様」はおかしいと言っていた、自他共に知識人と認めているであろう人が
「お医者様は、技術を持って明らかに患者の上なのだからおかしくない」と言っていたので、『やっぱりか』と思った。

ずっと以前から、この「お医者様」には違和感を感じていた。
「様」は、前述のように、階級的な尊敬語だと思うので、民主主義の時代では、どのような職能にも、基本的に敬称は付ける必要はないと思う。
医師、または医者であり、先生も職能の代名詞として問題ないと思う。
あえて敬称を付けたいなら、人格を尊重する「お医者さん」だろう。

「お医者様」という言い方は、ハイソサエティーと自認する人達の中での「ざあます」的な標準語のようで、以前、TVでノーベル賞作家が、「ちゃんと、お医者様にみて頂きます」のような使い方をしていたので、『おいおい、言葉の専門家がそれはないだろう』と呆れた。
今回も、案の定、知識人と自負している人の口から「お医者様」が出た。

「お医者様」は、いかにも尊敬しているように聞こえるが、実は逆だ。
誰の言うこともきく気の無いような自信家が、背に腹は替えられず、医者に掛からなければならなくなった時、自分を納得させるために使う呪文だ。
医師という職能の人間に従うのではなく、「お医者様」や「神様」という、初めから上の階級に従わざるを得ないのだと、自分を納得させるための「言ワザ」として、好んで使っている。そう思える。

「先生様」が変に聞こえるのは、敬称に敬称を付けるからではなく、職能(代名詞)を階級化しているからではないだろうか。