魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

自動車参上

2010年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム

やるとは聞いていたが、本当にやったので呆れてしまった。

音無しの電気自動車は危険だというので、各社とも、エンジン音と似たような音を付けることにした。
中には、音楽を検討した会社もあったらしいが、結局、紛らわしいから、従来のエンジンと同じ音にしたのだそうだ。

わかったようなわからないような、またもバカげた「石頭」だ。

せっかくの、「静粛」という電気自動車の長所を、わざわざ潰すのだ。
これに始まったことではない。何か新しい良い物が出てくると、必ず「抵抗勢力」が現れる。近年最も記憶に残っているのが、携帯電話の「マナー」という陳腐なものだが、

人間は、合理性より、不合理な「慣れの文化」に固執する
合理的なものに生活を合わせるのではなく、自分の身体や、感覚に合わせようとする。

それが、悪いわけではないが、自分の世界を大切にしているうちに、環境はどんどん変化する。
朝の布団が気持ちいいからと言って、布団の中で仕事をするわけにはいかない。やがては布団から出るしかないのだ。

日本のサッカーに、先制点を取ったら、後半、逆転負けをするパターンがある。
経済の停滞は、日本全体が、いまだに、成功体験を忘れられないことにある。

時代の流れを良く見極めて、良い道具は使いこなさなければならない。
日本では画期的なものがいくら出ても、自分たちの生活パターンに合わなければ、道楽品としか見ない。
(実際、道楽感覚が日本のユニークさでもあるのだが)

日本の道楽の山、つまり、ガラパゴスから、外国は「これはいける」と目を付けたものを素早く売って出し抜いて行く。
後で「パクられた」と言っても遅いのだ。

電気自動車の「静粛」を押さえ込むのではなく、活かすこと、あるいはそれを上回る技術を付加すべきだろう。

音が静かで危険だというなら
上回る技術として、車の方が人体を感知するセンサーを付けるべきだろうし、そこまで出来ないというなら、なにも、ガソリン車が百年押さえ切れなかった騒音を、わざわざ真似ることはない。

ただ「音」を出せばいいと思うから、音楽しか思いつかない。
(この辺りが、日本の技術者の、涙ぐましいばかりの愚直だが)
要は、「危険を避ける」ことだから、車に喋らせればいいのだ。

むかし、日本初の路面電車が走った時、電車の前を走る人がいて、「電車が来まっせ、危のおおまっせ」と走っていたそうだ。それ位とろとろ走っていたわけだが。
今の自動車なら、適当な音で、自分で言いながら走ればいい。
セーンサーで感知して話せばもっと良い

「おそれ入ります、自動車めを通してやってクダサイ・・・」