魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

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2010年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム

№900

いよいよ、900本。1000本までカウントダウンしたいところだが、ヤヤコシイので、ファイル№を付けることにした。
千本を目標にしているので、早く楽になりたい(我ながらバカだ)
鳩山総理のマネをしているわけではないが、目標を勝手に決めて苦しんでいる。

一日一本とすれば、8月末になるから、ほぼ、ちょうど丸4年。
駄文でも、書いていると、何か、自分自身成長したような気がする。
(成長するような歳でもないのだが)
確かなことは、4年は生きていたということだろうか。

占い師のブログなので、感覚的、直感的な話だから、何の裏付けも必要ないのだが、一応、ネットでチェックはしている。
主に、Wikipediaなどをチェックするが、データチェックだけで、意見や解説は採用しない。

人の意見は様々だが、数値などのデータは、一応、Wikipediaを信用して良いのだろうと思う。そういうことだけで利用するには、実に有り難いが、Wikipediaで勉強するのは本当に危険だ。
読んでいると、笑えてくるほど、表面的なガサネタのこともある。

謎解き
ネットの面白さは、信憑性の比較検討だと思う。小説でも、ドラマでも、はたまた、マスコミニュースでもそうだが、情報の信憑性を吟味することや、どういう意図で出た話なのか、と推理するのが面白い。
だが、推理小説は大嫌いだ。

推理小説は、作者が答えを用意している。
(時には作者の想定外の答えがあることもあるが)
そんな、作者が高みの見物をしているようなものを読んで、悩みたくはない。どんなに良いことが書いてあっても、推理小説形式は受け付けない。学校のテストが嫌いだったのもそのせいかもしれない。

定まった答えが無いからこそ、謎解きに引きつけられる。
科学者の探求心も、答えが見えないからだろう。
そういう意味では、占いも同じだ。人生には答えがない。