四柱推命の「通変」という資質概念には、正と偏の分類がある。
正が標準的であるのに対し、偏とは偏(かたよ)って極端なものとされる。したがって正が順調な発展をするのに比べ、偏は一か八かになりやすい。
偏の能力を活かすには極端なエネルギーを上手にコントロールする必要がある。正が火薬なら、偏は原子力のようなものだ。人間ならば、常識的な正当派と独善的な異端児というところ。正は常識に素直で、善意にあふれ温厚だが、偏は常識を嫌い、過激で親しみにくい。ところが意外にも、目立った異常行動は正の方に現れる。
失敗体験の多い偏は、何とか普通になりたいと思っているが、失敗経験の少ない正は学ぶ機会がないので、行き詰まると「反対」をやれば良いと思い込む。芸術・芸能など個性を求められると、単に過激な言動のことだと勘違いする。
もっとも、同じ正の人にはそれが個性的に見えるから、需要と供給はみたされるわけだが、新機軸が生まれたわけではない。偏のように始めから常識はずれのものは一般受けしないが、うまく常識になじむことを学べば、むしろ有用な創造性を発揮する。
余談:正と偏の関係は、血液型の正統派A型と非常識のB型にも似ていて、A型の女優が売れなくなるとすぐ脱ぐが、意外とB型は脱がない。
物事の理解は知識を学習することではない。
単なる優等生は独創性を失い教条主義に陥り本質を理解しないが、遊び体験から学んだものは本質を悟る。
学問は40歳過ぎてからでも遅くはないが、幼児期の体で覚える遊び体験は、理解と創造には重要だとつくづく思う。
近頃は、世の中全体が情報のつじつま合わせにとらわれて、あらゆる分野に「いい加減さ」が無くなっている。恐ろしいことだ。
緻密な論理で全体をコントロールできると思う傲りは、ボルト一本折れても、「,」一つ欠けても、大爆発につながる。
アナログ的であるべきものをデジタル的に理解すると、現実離れのマンガになるのだが、バーチャル世界にいる人は全く気づかない。
宗教にせよ、哲学にせよ、古聖賢の教えはアナログ的であるゆえに、広く深い理解が可能になる。
しかし、言葉通りデジタル理解すると、膨大な単語知識のつじつま合わせになってしまう。しかもそんなメモリー人間を操るのは簡単だ。言葉尻を曖昧な単語でつなぐ「機知」があればいいのだ。知識と論理はあってもそれを意味的につなぎ合わせることのできない「優等生」ほど御しやすい。 (これは膨大なネット情報の中に生きる人にも通じる問題だ)
知的ナルシストは鏡を見せれば納得する。新興宗教に優秀と「される」人々が心酔するワケはここにある。
独善を曖昧な言葉で補強する人間(=自分に都合の良いことを言う人間)を『すばらしい!』と思う。つまり、自分の影を至高の叡智と認め崇めるわけだ。
古聖賢のアナログな教えは、実体をぼかして比喩的に表現したものだが、エセ教祖の「教え」なるものは、信者の妄念を確信に変えるための曖昧な言葉で、中身はない。
これを占いでは「合わせ鑑定」という。言葉だけがミョウに明確なところも似ている。「言語明瞭意味不明」とも言うやつだ。(独善を保護する緩衝材としての言葉使い)
物理的理解による近代の科学、産業の成功が、何ごとにおいても曖昧さを排斥し、当面の論理性だけを偏重した結果、「不可思議領域」を容認するトータルバランスを失ってしまった。
(断言的に言うほど信頼される「インチキ」を受け入れる社会の誕生)
真理に近づくには、「いい加減さ」も必要であり、何よりも、四択にできないもの(=答えを出せないもの)があることを知ることが第一歩だ。
占いにまつわる膨大な知に、真理があるとすれば、それは結局、行間にある。
言葉に表せないものを言葉にすれば、その言葉は実体ではない。
多くの占い初学は、まず言葉に踊らされてしまう。一言一句を丸暗記し、現象に適用させようとする。
指南書は全く外れたことを言っているわけでもないので、占ってみると、時に、当たったような気もするが、やがて当たらなくなる。
これは「論語読みの論語知らず」で、どの分野でも起こることだ。医学生が医学書を読み始めると、自分が重病のような気がしてくるようなもので、「生兵法は大けがの元」とも言う。
学ぶということは、実践を重ねながら知識を反復理解することが大切なのだが、宗教など観念的な思い込みが通用する世界では、この「言葉通りの理解」だけで一派をたてる人も現れる。
教典や聖典、古文書の真の理解は、芸術作品を理解することと同じで、「意味」が大切だ。新聞や教科書を、文字や言葉通りに理解し、記憶することとは全く違う。
余談だが、近頃、国語や社会科嫌いが多いのは、効率重視の教育で「形のないもの」まで無理に形として覚え込ませようという矛盾が、二世紀近くも続いて来たからだろう。教師自身がその申し子なのだから直しようがない。
デジタル理解はバーチャル理解だ。現実離れという点では、神仏や運命の話と似ているが、微妙に、しかも理解の方向性において、アナログ理解とは対極と言えるほど違う。
デジタルが実体を解体し、再構築してバーチャル的実体を造ることにより、さらなる現実遊離を増進するのに対し、古典的なアナログ概念は理解の限界を認識した上で、未知を理解しようとする。
つまり、古典的アナログ理解には暴走に歯止めが掛かっているが、ひとたびデジタル世界にはいると歯止めはない。
占いに興味を持った頃には、巷のノウハウ本よりも、何とか古書、原書を手に入れ、神秘の蘊奥を見てみたいと秘伝書探しをしていた。占い専門店の親父さんにかわいがられて、色々便宜を図ってもらった。師匠のような存在だった。
しかし、本を読めば読むほど、占いの神髄はかえって遠ざかっていく。膨大な単語群。矛盾する論理。現実との隔たり・・・・。いったいこれは何なのだ。
何が真実なのだと悩むうちに、だんだん見えてきた。どれも真実であり、どれも真実ではない。
遙かな時の中で形作られた占い。その学術とは、いわば墓標のようなものだ。形なきものへの個々の努力と研鑽、諸派の伝承が、諸々の仮説や工夫とともに堆積層のように膨大な量をなしている。おそらく、どれ一つ、すべてを解き明かしたものはないだろう。しかし何れにも、通じあうシンプルな答えを内包している。それは、宗教の膨大な典籍や宗派の成立と似ている。
古代からの智というものは、宗教であれ、占いであれ、原形をとどめていない。
まさに玉石混淆。叡智とバカ知恵が同じ顔をして堆積している。しかも叡智さえも断片でしかない。このホコリの山から砂金を探し出すことは不可能と知るべきだろう。
化石や土器を発見しても、それは原型そのものではない。そこから在りし日の姿を想像、推測してこそ初めて意味がある。
古文書を金科玉条とする早トチリで、聖杯探しや奇跡談が横行するのはご愛嬌だが、火炙りにされてはたまらない。
占いも同様で、元の典籍に決定的な意味があるわけではない。「古聖賢の叡智」はヒントにすぎない。
今日では、占うと言えば個人の運を考えるが、もともとは神に集団の運命をお伺いするものだった。
原始時代には集団から離れた個人は生きられなかったが、文明の発達とともに神の束縛から解放され、個人の運命も独立しているように思えるようになった。
しかし実際は、人間はあいかわらず集団や環境に縛られている。
戦争や大災害、経済恐慌、環境破壊と、個の運が良くても集団の運が悪ければやはり滅ぶ。
一人生き残っても幸運とは言えないだろう。
だから、個の運とか人格とかを考えるには、まず、集団の類型化から始まる。地域、文化、体型、体質・・・、縦に横に、手がかりになるものなら何でも類型化する。占星術や干支術も、時空環境の類型化といえる。
しかし、ここでまた、せっかちな人々は類型を実体と思いこむ。
血液型が知れ渡ると、すべての人が等しく四分類されると短絡して血液型の差別がおこる。すると差別はいけないと、今度は血液型分類の全面否定がおこる。これは血液型分類の責任ではない。科学的な問題でも知識や単語が一人歩きしてブームが起きる。世間の人は学問には関心がない。興奮剤がほしいのだ。
つまり、丸太の王様よりコウノトリの王様を喜んだ蛙のように、きまじめな学者より、安ピカなファン・ウソクを求めている。科学が占いをどんなに蔑視しようとも、TVの前では、占いも科学も同列に、単なる見せ物に過ぎない。
そのTVでは「本日の」?!血液型占いまで出てきたが、これはもう大安や仏滅の六曜と同じで、占学とは無縁の、風俗文化そのものになっている。
(血液型は、性格や気質の分類で、運命占いとは関係ないのだが)