カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

積みあがると落ち着かない店

2016-09-11 | 

 回転寿司屋にはあまり行かない。そういうと、すかさず回らない寿司屋に行くのか、とは言われる。言い方が悪い。食べ物屋の選択肢として、あまり選ばないという感じだろうか。ぜんぜん行かない訳ではないのは、たまに連れている人たちの様子で入る事があるということか。特にごちそうを食べに行くという感じでもないけど、とにかくバラバラとした要望に応えてくれる場所として、そうしたもちろん僕の単体の意見としてでなく行くところということである。
 最初に行ったのはまだ子供の頃だから、お皿が積みあがるのも愉快だったし、無邪気にいいところだとは思っていた。それに最初の頃は、オール100円ということではやはり違って、二百円とか三百円とか、皿の種類もたくさんあったと思う。いまだにそういう店も多いだろうけど、最初の頃の回転寿司より今の方がおおむね安くなっているような印象もある。競争がそれだけ激化しているということなんだろう。ともかく、たくさん食べてたくさんの皿が積みあがって、たくさん食べることが出来た男の子として誇らしい感じが食後にもあった。そういう姿に寛容な大人の姿もまたあって、回転寿司の幸福な風景を形作っていた。
 問題は社会人になって、要するに自分で食べに行くという選択において、この高く積みあがる皿というのが、まったく子供の頃と違う風景であることに気づかされることになる。高くなると威圧感がある。皿の淵が金色とか、要するに少し値段の張ったものがたくさん混ざっているのも嫌な感じだ。だけどそんなことはとても言えない。また、妙に百円だけの皿ばかりというのも、見栄があるからちょっとできない。食べた分を厳密に分けることは数える時に可能なのだが、いやこれは合計で、などと言ってしまったりする。その一瞬の判断力も、後から自分を苦しめたりする。結局はやはり寿司屋で、ちょっとした食事としては、やはりそれなりの値段になるのではないか。そうでなければ流行りもしないのかもしれないが…。
 田舎の回転寿司は比較的郊外の駐車場が広いようなところが多いが、出張などに行くと繁華街にも普通に回転寿司屋は見られるようだ。ちょっと宴会などがあった後皆がばらけて、もうちょっと数人で話があるというときに立ち寄ったことがある。周りにもそんな客が結構あって、そういう飲み客の需要はやはり強いのかもしれないと思った。既にちょっと食べた後だから大量に食う訳ではない。そういう感じだと値段も気にならない程度だったかもしれない。
 でもまあ一人だとやはりあんまり行かない。僕は昼酒は得意じゃないし、しかし寿司屋で酒を飲まないのは、なんとなく居心地が悪い。結局酒との関係で、相性が悪いだけのことなのかもしれないです。
コメント
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