カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

サイゴンから逃げていく人々

2016-09-13 | 境界線

 ベトナムのサイゴン陥落のドキュメンタリーを見た。南ベトナム政府は無条件降伏を宣言し、米軍は撤退、多くの市民が逃げまどった。特に米国大使館には多くの市民が詰めかけ、あやふやな感じで人々が塀の中へと入っていく。米軍は米国の大使を退避させるためにヘリを送り込むが、大使はベトナム市民を暗黙でヘリに乗せることを容認し、自分はあえてヘリに乗らない。最初はある程度米軍と関係のある人間を選別していたようだが、何しろ人が多く選別も不可能な感じだった。一機のヘリに米国人が数人、そうして数十人(4,50人という感じか)のベトナム人がなだれ込んで離陸する。沖にある米軍艦隊へ往復する。何機ヘリコプターがあれば移送が済むのか、まったくめどが立たない。名目上あくまで大使を避難させるためだけに行動している米軍は、その輸送を誰も止めることは出来ない。
 一方南ベトナム軍のヘリ部隊も、米国艦隊の船を見つけるとどんどん着陸して、逃げているベトナム市民(多くは兵隊の家族だろう)を戦艦に降ろす。ヘリは船から突き落として海に捨てる。それでも次々にヘリは飛んできて、やはり人を下すとヘリを海に投棄する。中にはヘリが大きすぎて、船の甲板に降り立つことすらできない。人々は低空飛行したヘリから甲板に飛び降りていく。何か塊が落ちてきて、兵隊が受け止めると赤ん坊だったりする。そうして最後にヘリのパイロットは操縦しながら来ている服を脱ぎ、脱出する窓と反対方向にヘリを水面に着水させ、そのまま大破して廃棄。自分は下着姿で戦艦に泳ぎついたりしていた。命がけのアクロバットである。
 サイゴン陥落時に合計で13万もの人々が国外に逃げたと言われる。そのうち7万人以上が、このような米軍の戦艦などに乗船し逃げたと言われる。船は鮨詰め状態。甲板にあふれかえるような人々が、ほとんど着の身着のまま運ばれていった。実はフィリピン政府はベトナム脱出民の受け入れを拒否する声明を出していたが、米国および南ベトナム軍は、とにかくフィリピンに向かって、許可が無くとも後で同意を受けるという方針で移動するのである。逃げる人々を全員助け出すことは物理的には出来ない。しかし、出来るだけの人々は国外に逃がすということを、誰の指令も無いままに、暗黙でただ運ぶということに徹するのである。
 結局ヘリにも船にも乗れずに大使館などに取り残された人々は、待ってもやってこないヘリをひたすら待つか、大使館内のあらゆるものを奪って退避していく。その後北ベトナムに捉えられた人々も大勢いたようだが、その後も国外へ逃げた人々も多かった。南ベトナム軍の兵士たちは、制服や軍靴を道路に脱ぎ捨て、裸足と下着姿で町から逃げた。
 ちなみに「サイゴン陥落」という言い方は米国サイドのもので、勝った北ベトナムではこれを「サイゴン解放」という。サイゴンは現在ホーチミン市(胡志明)と名前を変えている。しかしながら、事実上どちらの名前でも現在は通じると言いう。
 ベトナム戦争の死者は、ベトナム人が200万人。米国人が5万人とも言われている。約10年45兆円以上の戦費が費やされ、結局大きな傷跡が残った。僕の子供の頃にも多くのベトナム難民が日本に船に乗ってやってきた。わがまちにも難民センターができて、時々地域交流でサッカー大会をやったりしたように思う。僕らは子供だったので、色が黒くて痩せた子は、ベトナム難民と囃し立てたりした。あらためてバカだったな、と思う。
コメント
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