翻訳百景/越前敏弥著(角川新書)
主にミステリ作品などを翻訳している訳者自身が、翻訳という仕事そのものや、その活動内容をつづったもの。さらに元になっているのは作者のブログらしい。翻訳というものが、同時通訳や、テレビや映画、さらにはドキュメンタリーなどとも違うということを具体的に記してある。文章は単語を単純に日本語に置き換えたらいいというものでは当然ない。著者は英語を専門としているようだが、英語のニュアンスを出来るだけそのままに日本語にするというのは、至難の技であるというのがよく分かる。また、全体の文意から、どのように訳すのかというのに四苦八苦するする姿も見て取れる。まさに大変である。そうしてやはり翻訳ものにはヒットするタイミングもあるから、時間制限まである。厳しい制約があり、時には複数の人とチームを組んで何日も根を詰めた作業をしなくてはならない。それでも翻訳そのものが楽しいということも伝わってくる。また、そのように翻訳に携わり、翻訳家を目指しているらしい人も多くいるらしいことも見て取れる。これ一本で生きていくにはそれなりに大変そうだけれど、厳しいが夢のある仕事であるというのは理解できるのではなかろうか。
前半はそのような翻訳作業そのもの話。翻訳のテクニックや実際の苦労話など。後半は翻訳家としての自分の生活ぶりなども紹介されている。読書会などにも積極的に開いて、楽しい交流をしている様子が見て取れる。
学校のお勉強で英文を訳すという経験は誰にでもあろうが、翻訳の世界は単にその延長ということとはずいぶん違うようだ。英文を書く前にも文化的な背景や、専門的な知識というものが活かされている。そういうものの理解なしに単語を置き換えても、実は意味としてはまったく通じなかったり、まったく別のものになってしまうこともありうる。ダジャレなど、そもそも音として翻訳不能と思われるものもあるし(しかしそれでも翻訳してしまえることもあるようだ)人の名前一つとっても、いろいろと遊びを取り入れて訳すこともできる。また、日本文化を知らない人が日本の文化を勘違いしたまま書いていることもある。間違いは間違いと分かったまま、どのような対処方法でそれを日本に伝えることが出来るのか。基本的には忠実に訳していけば事は足りても、誤解のまま済ませていいものかという倫理のような問題も残るのではないか。翻訳者というのは、訳しながらそういうことにも悩まされながら、何とか読者に自然にそういうことを伝えられるように、悪戦苦闘の毎日を送っているものらしい。翻訳に関係なく、しかし時には普通に翻訳された日本語を読んでいるはずの人であっても、きっとこの世界を知ることで何か知見の広がることもあるのではないだろうか。