カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

スターこそ長生き

2016-09-15 | 音楽

 僕の若いころには、詩人は21、ロックスターは24までしか寿命が無い、と言われた。詩人は病弱とか食えないとかいうこともあるのかもしれないが、ロックスターは不健康なので、ドラッグや事故などで若くしてよく死んだ。もっとも平均寿命はもっと長かったろうが、多くの人が早死にするのが当たり前に思われていたのだろう。また、やはりあちこちのステージでお呼びがかかるので、移動するときに事故に会うというのもあったのかもしれない。特に国土の広い米国などは、飛行機で移動する必要がある。当時の航空機はあんがいよく落ちて、よく乗っている人が当然犠牲になる。また自家用機のような小さい機体の方が、不安定で落ちたということもあったかもしれない。そのおかげで航空機は目覚ましく発展したとも言われていて、まあ、そんなに無駄な死でも無かったかもしれないが。
 ところが近年のロックやポップなどの芸能の世界の人は、実はかなり健康に気を使う人が多いのだという。食事に気を遣い、よく運動する。中にはいまだにドラッグをやっている人もいるのかもしれないが、ステージで客の期待に応える精神的な圧力のために、つい手を出すということかもしれない。でも結局そんなことをしても長くは続けられない。以前は常習の噂のあった人も、ほとんどは止めてしまうのだという。
 以前はレコードが売れたら、それなりに印税が入って生活が安定した。余裕があるうちは派手に使っても気にならない。また人前からしばらく消えても、またレコードの発売を待ってくれる息の長いファンもいたのかもしれない。ところが現代になると、すっかり固形物としてのCDなどは売れなくなった。ヒットしている曲の目安は、何回ダウンロードされたか、ユーチューブなどで再生されたかという回数が目安になっている。そうして世間に拡散されて、人々はその人のステージを見に行くようになる。要するに活動をやらない限り収入が増えない。だからまともなスターというのは、ステージで安定したパフォーマンスを続けてやれる人ということになるようだ。人が集まる場所では、それなりに動かないと目立たない。ダンスも踊らなければならないし、張りのある歌声も、それなりに維持する必要があるのだろう。さらに往年のスターは家族も増えているし、昔は喧嘩した仲間もまた一緒にやらないと生活できないと懇願される。嫌でも体を鍛え直して、表に立たざるを得ないのだろう。
 そういうのが果たして健康的と言えるのかは微妙な気もするが、少なくともロックスターの寿命は、これからも伸び続けるのではないだろうか。
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古臭いが、もともと古い話だし   インディ・ジョーンズ クリスタルスカルの王国

2016-09-14 | 映画

インディ・ジョーンズ クリスタルスカルの王国/スティーブン・スピルバーグ監督

 BSで放送されていたのを観た。観終わってから見たことあるなとは思ったが、おおむね忘れていて楽しめた。今さらだが、さすがにハリソン・フォードは老けたな、という感じ。頑張ってアクションやっているけど、かなり無理がある。まあ、そういうことも含めて面白くはあるけれど。
 舞台は冷戦時代のソ連との絡みがあって、中南米に秘宝を探して冒険する。クリスタルスカルというのは水晶のドクロで、マヤ文明などで出土されているものらしい。いろいろ意味が有るようだけど、映画では宇宙的なつながりとも発展させて解釈している。映画的には盛り上がるからいいが、それなりに荒唐無稽とまでいえないようなところもあるらしい。まあ、昔のこと過ぎて本当に分からないだけのことだろうけど。
 それにしても何度も裏切る人もいるし、ソ連はステレオタイプ的に悪い。そのような分かりやすい敵がいなくなった現代では、単純に冒険活劇が楽しめなくなっているのかもしれない。もう仮面ライダーなんか見ても、誰が敵か味方かまったくわからんもんね。世の中というのはある程度単純でなければ楽しめないのかもしれない。それだけ人間は昔から馬鹿だということだろうけど。
 インディ・ジョーンズ本人の過去と現在の絡みもあるし、ストーリーはそれなりに良く練られているのではないか。そんなに深みがある作品ではないかもしれないが、楽しいだけでなく、この作品を見続けていること自体に喜びを覚えるような感慨がある。もちろん新しい観客が観ても何の問題も無いが、これを観て過去も観てみようという気分になるのだろうか。シリーズというのは、それなりに美味しい商売かもしれないですね。まあ、皆年を取るので、いつまでも、というのはやはり大変なんだろうけれど…。
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サイゴンから逃げていく人々

2016-09-13 | 境界線

 ベトナムのサイゴン陥落のドキュメンタリーを見た。南ベトナム政府は無条件降伏を宣言し、米軍は撤退、多くの市民が逃げまどった。特に米国大使館には多くの市民が詰めかけ、あやふやな感じで人々が塀の中へと入っていく。米軍は米国の大使を退避させるためにヘリを送り込むが、大使はベトナム市民を暗黙でヘリに乗せることを容認し、自分はあえてヘリに乗らない。最初はある程度米軍と関係のある人間を選別していたようだが、何しろ人が多く選別も不可能な感じだった。一機のヘリに米国人が数人、そうして数十人(4,50人という感じか)のベトナム人がなだれ込んで離陸する。沖にある米軍艦隊へ往復する。何機ヘリコプターがあれば移送が済むのか、まったくめどが立たない。名目上あくまで大使を避難させるためだけに行動している米軍は、その輸送を誰も止めることは出来ない。
 一方南ベトナム軍のヘリ部隊も、米国艦隊の船を見つけるとどんどん着陸して、逃げているベトナム市民(多くは兵隊の家族だろう)を戦艦に降ろす。ヘリは船から突き落として海に捨てる。それでも次々にヘリは飛んできて、やはり人を下すとヘリを海に投棄する。中にはヘリが大きすぎて、船の甲板に降り立つことすらできない。人々は低空飛行したヘリから甲板に飛び降りていく。何か塊が落ちてきて、兵隊が受け止めると赤ん坊だったりする。そうして最後にヘリのパイロットは操縦しながら来ている服を脱ぎ、脱出する窓と反対方向にヘリを水面に着水させ、そのまま大破して廃棄。自分は下着姿で戦艦に泳ぎついたりしていた。命がけのアクロバットである。
 サイゴン陥落時に合計で13万もの人々が国外に逃げたと言われる。そのうち7万人以上が、このような米軍の戦艦などに乗船し逃げたと言われる。船は鮨詰め状態。甲板にあふれかえるような人々が、ほとんど着の身着のまま運ばれていった。実はフィリピン政府はベトナム脱出民の受け入れを拒否する声明を出していたが、米国および南ベトナム軍は、とにかくフィリピンに向かって、許可が無くとも後で同意を受けるという方針で移動するのである。逃げる人々を全員助け出すことは物理的には出来ない。しかし、出来るだけの人々は国外に逃がすということを、誰の指令も無いままに、暗黙でただ運ぶということに徹するのである。
 結局ヘリにも船にも乗れずに大使館などに取り残された人々は、待ってもやってこないヘリをひたすら待つか、大使館内のあらゆるものを奪って退避していく。その後北ベトナムに捉えられた人々も大勢いたようだが、その後も国外へ逃げた人々も多かった。南ベトナム軍の兵士たちは、制服や軍靴を道路に脱ぎ捨て、裸足と下着姿で町から逃げた。
 ちなみに「サイゴン陥落」という言い方は米国サイドのもので、勝った北ベトナムではこれを「サイゴン解放」という。サイゴンは現在ホーチミン市(胡志明)と名前を変えている。しかしながら、事実上どちらの名前でも現在は通じると言いう。
 ベトナム戦争の死者は、ベトナム人が200万人。米国人が5万人とも言われている。約10年45兆円以上の戦費が費やされ、結局大きな傷跡が残った。僕の子供の頃にも多くのベトナム難民が日本に船に乗ってやってきた。わがまちにも難民センターができて、時々地域交流でサッカー大会をやったりしたように思う。僕らは子供だったので、色が黒くて痩せた子は、ベトナム難民と囃し立てたりした。あらためてバカだったな、と思う。
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明治の個人主義:追伸。

2016-09-12 | 時事
 今朝ある本をぱらぱら読んでいると、維新後の近代化政策と明治政府の徴兵についての記述があった。従来の武士による武力ではなくして、一般市民から徴兵する軍隊を形成することが急務だった。そういう中で民衆は激しく抵抗、もしくはその流れから逃れようとした。当時帝国大学英文科の学生だった夏目金之助が、当時はまだ徴兵制の無かった北海道へ戸籍を移動して徴兵から逃れようと企てていたことも紹介されていた。
 シンクロするのはたまたまだけれど、個人のことは時々そういうことはありがちだ。しかしながら漱石の講演と、留学前の学生だった頃の漱石とは、時間軸がかなり違うし、個人の考え方もずいぶん変化していたかもしれない。漱石の身を案じた家族の意向もあったことだろうし。
 国家というものが、まるで意志を持つかのように個人の判断をも巻き込むような流れの有った時代背景を鑑みないことには、漱石が述べている個人主義というものは、なかなか理解しえないものなのかもしれない。
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なお新しい個人主義   私の個人主義

2016-09-12 | 読書

私の個人主義/夏目漱石著(青空文庫)

 漱石が偉大な作家だということは、確定的に誰もが認めることだ。そうして国を挙げての超エリートであったことも間違いない。しかし、神経症にかかったり、ちょっと弱いところがあるような記録もある。変なところがあることも、自分でも自覚的であったという素直さだって持っていた。講演の記録だから、多少持って回った言い回しは多いものの、そういう漱石の気分のようなものが、なんとなく伝わってくる。漱石は落語が好きだったというし、恐らくお話の展開も、何か少し楽しい感じを出したかったのかもしれないという気もする。文章では分かりにくいが、そういう言い回しの可笑しみみたいなものにも気を使っていたのではないか。
 ところでやはり、学生に向けての話ということで、過去に学生であって、さらにその中でもエリートだった自分という姿もあるし、自戒も込めて、このような話をしたのではないか。個人主義というと、何か自己本位でワガママなところがあるような印象もあるわけだが、そうして内容についても、確かにそのようなところも見られない訳ではないのだが、しかしやはり現代でいうところの個人主義というものとは少し違う感じがする。エリートとして、そうして家柄も恐らくいい人が多いという特権的な学生に対して、自由と自戒を求めた内容であるという感じはする。それは漱石が体験的に学んだことであるし、やはり若い日本人に期待したことである。それは世代を超えて我々に対しての言葉である可能性もある。国家というものは大切であるにせよ、その前にやはり個人という自分の考えを大切にすることから始めなければならない。世間的な正義のようなものを、ただ単に鵜呑みすることなく、自分自身でその判断を出来るように考えなければならない。実に当たり前のことだが、十分現代にも通じる考え方である。そうしてそのような普遍さだけでなく、漱石的な新しさも同時に感じさせられる。現代においても新しいことであるというのは、現代においてもやはり多くの人が陥りやすいところであるからかもしれない。
 既にずいぶん偉くて、しかもそれなりのエリート意識があって自信家でもあったはずの漱石が、恐らく落語のような口ぶりをもって、ちゃんとユーモアを交えながら、それなりに真剣に語っている。そうして語りたかったことが個人主義であるというのは、他の作品を読むうえでも考えさせられる内容なのではないだろうか。
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積みあがると落ち着かない店

2016-09-11 | 

 回転寿司屋にはあまり行かない。そういうと、すかさず回らない寿司屋に行くのか、とは言われる。言い方が悪い。食べ物屋の選択肢として、あまり選ばないという感じだろうか。ぜんぜん行かない訳ではないのは、たまに連れている人たちの様子で入る事があるということか。特にごちそうを食べに行くという感じでもないけど、とにかくバラバラとした要望に応えてくれる場所として、そうしたもちろん僕の単体の意見としてでなく行くところということである。
 最初に行ったのはまだ子供の頃だから、お皿が積みあがるのも愉快だったし、無邪気にいいところだとは思っていた。それに最初の頃は、オール100円ということではやはり違って、二百円とか三百円とか、皿の種類もたくさんあったと思う。いまだにそういう店も多いだろうけど、最初の頃の回転寿司より今の方がおおむね安くなっているような印象もある。競争がそれだけ激化しているということなんだろう。ともかく、たくさん食べてたくさんの皿が積みあがって、たくさん食べることが出来た男の子として誇らしい感じが食後にもあった。そういう姿に寛容な大人の姿もまたあって、回転寿司の幸福な風景を形作っていた。
 問題は社会人になって、要するに自分で食べに行くという選択において、この高く積みあがる皿というのが、まったく子供の頃と違う風景であることに気づかされることになる。高くなると威圧感がある。皿の淵が金色とか、要するに少し値段の張ったものがたくさん混ざっているのも嫌な感じだ。だけどそんなことはとても言えない。また、妙に百円だけの皿ばかりというのも、見栄があるからちょっとできない。食べた分を厳密に分けることは数える時に可能なのだが、いやこれは合計で、などと言ってしまったりする。その一瞬の判断力も、後から自分を苦しめたりする。結局はやはり寿司屋で、ちょっとした食事としては、やはりそれなりの値段になるのではないか。そうでなければ流行りもしないのかもしれないが…。
 田舎の回転寿司は比較的郊外の駐車場が広いようなところが多いが、出張などに行くと繁華街にも普通に回転寿司屋は見られるようだ。ちょっと宴会などがあった後皆がばらけて、もうちょっと数人で話があるというときに立ち寄ったことがある。周りにもそんな客が結構あって、そういう飲み客の需要はやはり強いのかもしれないと思った。既にちょっと食べた後だから大量に食う訳ではない。そういう感じだと値段も気にならない程度だったかもしれない。
 でもまあ一人だとやはりあんまり行かない。僕は昼酒は得意じゃないし、しかし寿司屋で酒を飲まないのは、なんとなく居心地が悪い。結局酒との関係で、相性が悪いだけのことなのかもしれないです。
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広島優勝おめでとう。

2016-09-10 | 時事
 広島優勝おめでとう。
 
 広島が強いのはシーズンによっては過去にも何回もあったことだ。期待されながら25年のインターバルが出来てしまった。単純に言ってしまうことは出来ないのだが、正直に云ってそれなりに力が十分と言われている年であっても、優勝ということには手が届かなかった。セリーグの他球団がそれより強いかったというのは、結果的に事実を語っているようだけれど、実はそういう見た目とは違う要因があるという噂がある。
 それというのも、広島というのは伝統的に非常に厳しい練習をするプロ集団であるというのがある。それは強くなるために実に正統的な判断によるまっとうな道ではある。いろいろ金でスター選手を買いあさる巨人であっても、実は広島に次ぐくらい厳しい練習をすることは有名である。しかし、巨人はそれなりに競争が厳しいからそこ、さらに厳しくないことにはレギュラーで生き残ることが難しいからこそそうなっている事実がある。しかし他球団からすると高年棒のスターがやることなので嫉妬が少ない。これはもう負けても仕方がない。
 しかしである。広島というのは意味が違う。実際上、日本のプロチームでありながら、プロ球団のマイナー球団とも言われている。お金が無いので高年棒の選手をそろえられない。むしろ、いい選手として認められると、トレードやフリーエージェントで他球団に選手を買われてしまう。今や、日本のプロ野球全体がメジャーリーグのマイナーに過ぎないという指摘はあるものの、それより下のマイナーである広島には、非常に厳しい状況であったことは間違いが無い。
 さらにであるが、そうであるからこそ、広島の練習はさらに厳しさを増すことになる。勝つためにはもっともっと努力をするよりほかに無い。例え上の選手がさらわれようと、広島球団のアイディンティティは、そういう努力の上にしか成り立ちえないのだ。
 そうすると困ったことに、そこそこ強いプロの球団も、努力が実ることを認めえなくなる。ただでさえ才能という逃げ場があるにもかかわらず、人は努力すると強くなる。しかしそんなことを認めてしまうと、自分の球団も厳しい練習を課して、チームをまっとうに強くする方針に転換するかもしれない。
 要するに、特にセリーグの他球団は、強い巨人よりも先に明確な敵球団を自覚するようになる。自分を守るためには広島をつぶすより無い。広島に安易に負けることになると、自分の地位を安易に苦しめることになるのである。雑草球団は踏みつぶすより無い。実は広島戦に異常に闘志を燃やして戦う選手は相当数いるのは事実らしい。自らの才能や努力を正当化するためには、広島は非常に都合の悪い正当性があるのからである。
 来年からの他球団の練習は、当然厳しくなる。その恨みを晴らす相手は誰か?
 広島が厳しい立場にあり続けるのは、これからも変わらない。しかし、これは厳しいからこそ価値のある戦いなのである。人気も同調している今シーズン。これからも強いためには、その同調が続くか否かであろう。厳しいプロ野球は全体的に素晴らしい試合を増やすだろう。広島の強さは、ファンにとって全体的には朗報なのである。
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目から鱗の常識的面白さ 三国志  きらめく群像

2016-09-10 | 読書

三国志 きらめく群像/高島俊男著(ちくま文庫)

 世の中には三国志ファンというのがたくさんいるらしいことは知っている。僕はまともに三国志を読んだことは無いのだけれど、そういう人々から聞かされた三国志という大雑把な世界というのは聞いたことがあった。だからなんとなく知っているつもりになっているところがあったのだけれど、この本を読むと、その講談のような三国志の物語の世界観とのあまりの乖離に愕然とする、というか目から鱗が落ちまくる、というか、結構驚いてしまった。いや、変なことが書いてある本では無く、むしろ当然まっとうなことが書いてある訳だが、聞かされていた三国志の活躍する武将たちの真の姿や、その時代の三国志の国々や文化というものが、いかに現代のそれとは違うものかということが大きすぎて、改めてそうだったのかかという自分の認識の愚かさに気づかされたということだろう。人間にはロマンも必要だが、事実を知ることがもっと大切だ。もちろん大変に昔のことだから本当にその時代のことを生のように知ることは既に不可能なのだろうが、しかし出来るだけ正確に、そうして時にはちゃんとユーモアもありながら、当時のことを(そして現代にも考えは及ぶが)考えていくことが、本当に読書として楽しいというのは正当なことだと思う。そのように昔の本を読んで理解する素養が無いのだから、このような解説を読むより無い訳で、この本がまともであることで人気が無いとしたら、現代人は本当に哀れなのではないかとさえ思うのだった。
 考えてみると、三国志は歴史書だと前提の認識が先ずあるのだと思う。いや、歴史の書物であることには間違いないが、昔の歴史の記述をする人間の習慣が先ず違うということを我々は前提としても知らない。確かに科白はたくさんあるが、そういう言葉を誰が書き記したのかは定かではない。今も歴史小説はたくさん書かれているけれど、小説として科白があるのは当然だ。そういう意味でも昔の歴史書は、多くの装飾の小説的な要素がたくさん入っているということだろうか。さらに歴史を書いている側の人間は、またそのもとになった記述が残っている資料は、戦争に勝った側のものである。勝てば勝ったと書くが、最終的に勝つ前に負けた過去があったとしたら、それはやんわりと濁して書く。そこを読むものは勘案して察しなければならない。また歴史に残る大将のような人物であれば多くの記述が残っているだろうが、下っ端だとか奥さんだとか、別に現代的な差別意識なんてそもそもないから、よく分からない方が当然なのである。さらに名前というのは、生きているときと死後とは違う。生きているときも立場によって呼び名は変わる。そういうことは現代にも少しくらいは残っている習慣だが、なかなか当時のような感覚は分からない。劉備玄徳なんて日本語では簡単に書いてしまうけれど、当時の人がこの並びでこの人物を読んだり書いたりすることはありえなかったのだろう。また三国志とはいうけれど、国の大きさや位置関係、力関係の違いというのは、もの凄く大きなものがあったようだ。そもそも三国(いや、それ以上だが)が並列に並んでいること自体が不自然だということに考えが及ぶことも無かった。戦闘で勝つ負けるという意味でさえ、単純には分かり得ないことがたくさんある。そういうことが細かにふんだんに解説されている本を、これまでまったく目にすることは無かった。様々なビジネス書などで歴史的な人物を題材にして解説がなされた本がごまんとあるが、そもそもの人物像を掴んでいる著者がどれほどあるというのだろう。おそらくみんなひっくるめて全部根本が間違いだなんて、この本を読むまではまったく分からないことだった。
 ということで、一般の三国志ファンには、あまり人気の出なかった本らしい。だからこそ価値が高い訳だが、面白いので普通に多くの人が常識として読むべきではないだろうか。
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漱石、読むなら何?

2016-09-09 | なんでもランキング

 雑誌「考える人」をぱらぱら読んでたら、漱石の小特集が組んであった。多くの人が漱石作品を読むならなんだ、と紹介している。
 僕が初めて読んだのは、ご多分に漏れず「坊っちゃん」だった。短いのですぐ読めると言われたが、薄い本でも結構根気よく読んだ気がする。何しろ漢字が多かった。まあ、面白いというのは分かって、「吾輩は猫である」も手に取った。これはかなり格闘した記憶があるが、当時はあまり面白いとは思えなかった。休み休み読んでひと月ほど読んでいたのではなかったか。たぶんこれが小学生か中学生の頭くらいのことで、もう漱石はいいかな、と思ったようにも思う。大人になってから「猫」を拾い読みすると、まったく違った落語のようなバカバカしさと面白さがあることに気づかされたけれど、子供にはやはり分かりづらかったのだろうと思う。
 高校生の時に教科書に載っている「こころ」を読んで(そして本も買い直して)、まだ若かったから感動した覚えがある。こんなに面白い作家だったのか。お話が面白いというのもあるし、文体もこんなに分かりやすいものだったのかと改めて思った。今読むと「こころ」はあんまり感心しないから、若い時代の心情と「こころ」のような作品は、よく合うのではなかろうか。調子に乗って「草枕」なども少し読んだが、拍子抜けして面白くは感じなかった。これはたぶん今なら逆に思うだろう。
 しかし「それから」は、違った。何というのだろう。僕はまだ恋愛というのはよく分からない(今も分からないと言えばそのままだけれど)ながらも、この話は自分の話のように感じた。ちゃんと仕事をしないのは感心できなかったけれど、いい話ではないかと思った。その後の自分の人生といえば大げさだが、なんとなくこのような気分は後々まで残った。
 他は何を読んだかはっきり覚えがないが、「行人」「虞美人草」などは途中で放り出したような気がする。「硝子戸の中」とか「坑夫」などは、読んだけれどよく分からなかった。面白くもなんともないので、不思議と印象に残ったという感じであった。
 今は、ふと思い出して、キンドルで「三四郎」を読んでいる。なかなか面白くて、いいぞ。
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頭の良さと実行力   ガンズ&ゴールド

2016-09-08 | 映画

ガンズ&ゴールド/ジュリアス・エイヴァリー監督

 刑務所で知り合った派閥のリーダーに裏社会での生き方のようなものを教わる。そのまま子分として一緒に脱獄。その後、脱獄を手引きしてくれた組織と組んで金塊を強奪することになるが…。
 日本ではユアン・マクレガーくらいしか知名度が高くないということで、彼が主人公のような宣伝ぶりだが、彼が主人公の映画ではない。重要ではあるが。さらにオーストラリア映画ということで、そんなにハリウッドと違うという印象ではないが、どこかドキュメンタリーっぽいタッチがあって、ちょっとだけ冷めた空気のようなものはあるようだ。その分感情の機微が幾分わかりにくいが、それで問題があるわけでもない。
 主人公の青年が頭がいいらしいことは、チェスが強いということで表現されていた。確かにそれは分かるが、犯罪などをやる人の頭の良さというのは、実は少し違うのではないかとは思った。
 脱線するが、凶悪事件を起こす(これは圧倒的に男性であるが)ような人というのは、脈が遅いという特徴があるらしい。ある程度のスリルが無いと、快感を覚えにくいという説明もある。同じような特徴は、例えば一代で富を築くような事業家(サラリーマン社長ではない)にもあるらしい。多額の借金までして自分の行う事業を信じて実行できるというのは、ある意味で凶悪犯罪を実行できるような度胸のようなものと相通じるものがあるのかもしれない。まあしかし、度胸が無くても商売が成功する人もいるんだろうけど。また、変な度胸があっても、犯罪は成功せずに捕まって欲しいものだが。
 ということで、犯罪のスリルのある映画である。どんでん返しもあって最後まで楽しめる。気楽に娯楽を楽しむ分には適当な映画だろう。
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途中で打ち切って忘れる

2016-09-07 | HORROR

 こういうことを正直に書くのはちょっと恥ずかしさもあるが、時々トイレが怖い。行くのも怖いが、代わりがきかないので行くしかない。そうして座っている(家では大でなくとも座る場合が多い)と、まだ怖かったりする。自分でもどうしたものか、と思うことがあるが、一度そう思ってしまうとしばらく怖いような気がする。早く普通の部屋に戻るなり逃げ出したい。しかし、用があるから入っている訳で、その時間は耐えるより無い。
 実は熊本が揺れて、そのあとにこのようなことが度々ある。揺れるのが怖いというのがあったのだろうが、もう揺れるとは思っていないのに怖いときがある。何か得体のしれない気配のような、そういうものが背中の方にある気がする。いつも振り向いている姿勢でいるわけにはいかない。例えばシャンプーをしていて、目をつぶっていても怖い場合がある。シャンプーを中断するわけにはいかない。終わるまでシャカシャカと手を動かしている。しかるべき動作が続きながら、怖いような気分が続く。流して目を開けると、当然何もない。トイレでも実際はそうで、流して手を洗っても、何も起こらない。分かってはいるのであるが、何か怖さが残っている。ちょっとだけ足早に歩いたりする。もともと鏡はあまり見ないが、こういうときはまったく見ない。自分の姿が怖い訳ではない。なんとなく見たくないのである。
 頻繁にするわけではないが、時々瞑想のまねごとをする。聞くところによるとコツがあって、自分の呼吸に集中する。集中していると、いろいろなことが頭をよぎる。そのよぎる事柄をいちいち否定する。今は呼吸である。考えそうなことを中断して、今は呼吸である、と自分に言い聞かせる。同じことでは無く、次々に別の事柄が頭に浮かぶ。ものすごい勢いで様々なことが頭に浮かぶ。全部途中で投げ出して、あえて中断させて呼吸のことを考える。そういうことを繰り返して、だいたい5分だな、と思ったら素直にやめる。そのだいたい5分は本当には計っていないが、本当にだいたい5分だったりする。そういえば怖い気分もあったな、と思う。瞑想が終わるとそういうことを思い出さない方がいい。せっかく忘れていたのだから腹立たしいな、と思う。そうするとその怖かった気分も早く消える。
 だいぶ時間が過ぎて、今は怖さが何故だか和らいだ。仏壇に線香をあげたりする。あれは何だったのかな、と思う。まったくなくなった訳ではないが、たぶん夜に墓地を歩くくらいは出来るだろう。もともと夜はそんなに怖いとは思っていなかった。だからもとに戻っただけである。瞑想が良かったのかどうかも分からない。しかしなんとなく、時々思い出して呼吸のことを考える。何か良いことも思いつくが、容赦なく打ち切って忘れる。呼吸のことを考えても、特に何も楽しいわけではない。何もかも忘れてしまって、怖さも忘れてしまったのだろう。
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日本で金持ちになって欲しい人   わが盲想

2016-09-06 | 読書

わが盲想/モハメド・オマル・アブディン著(ポプラ社)

 スーダンの大学生だった全盲のアブディンさんに、日本で鍼灸を学ぶ留学のチャンスが訪れる。日本語はもちろん、それまで点字すらまともに覚えたことのない青年が、身内である父親の抵抗を受けながら難関をパスし、見事日本にやってくる。ただでさえハンディキャップの塊のような境遇の人間が、持ち前の明るさ(というか無謀さ)で次々に日本での難関を突破していく青春記である。そのパワーも凄まじいが、しかし素直に悩む青年の姿も随所に描かれ、不思議と読むものに力を湧き立たせるような読後感がある。文章も持ち前のユーモアがあって、けっこう重い題材などもフムフムと読ませられる。障碍問題を知らない人も、また外国語を学ぶような人においても、この体験談はきっと役に立つのではないか。繰り返すが、そういう目的が無くとも、独自の面白い文章で、ぐいぐい読むものを引き込む魅力がある。面白い読書体験ということだけでもかなりお勧めである。また、当たり前だが、素直な外国人からの視点で、自分の住んでいる日本の姿も見えてくる。物事を考える上での基礎的な訓練にもなるかもしれない。
 そんなアブディンさんは1978年生まれということで、現在は外語大学で教える身になっているようだ。結婚して子供も三人いるという。文中にもあるがブラインドサッカーのストライカーでもあるらしい。本では長女が生まれるまでが描かれているが、何とそれまでは学生のままである。本人ももちろん悩んではいたようだが、収入が無いままでも結婚して子供まで設ける姿は、何か少し無茶だが、気持ちの良さもある。無謀だけれど悲壮さが無くて、これは別のインタビューか何かで読んだのだけれど、日本の少子化問題の解決の糸口になるかもしれない考え方だとも思った。福井の盲学校時代に覚えたダジャレの洗礼の所為で、今はすっかり自分がダジャレ王だし、広島カープのファンだし、アフリカ系の人々が苦手な日本食もよく食べる。特に鮨に対する愛も凄まじい。それになんといってもその日本語能力が凄くて、漢字圏の人間でないばかりか全盲の身でありながら、漢字をパソコンで入力できるのである。それがどんなに凄いことか想像でも難しい。見えないのだから漢字の形は分かり得ない。さらに日本語としての漢字は同音異義語が凄まじく多い。そうして日本語の点字でも、基本的には分かち書きに漢字の形は分かり得ないのだ。それにもかかわらずどの単語にはどの漢字が当てはまるのかを理解して、変換することが出来るのだ。そうしてその文章も語彙が豊富で読みやすい。こんな外国人は空前絶後ではなかろうか。
 書くのにはそれなりに苦労があったと思うが、それに既に少し時間がたってもいるけれど、ぜひとも続巻が望まれるところである。これだけ面白い人である。もっと話題になって金持ちになって欲しいな、と素直に思うのであった。
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まずは食欲増進

2016-09-05 | 散歩

 夏になると感覚的に簡単に痩せられるのではないかと錯覚する。たくさん汗をかいて体重の変動が激しくなるし、その分カロリーの消費も期待できるような気がする。実際の疲弊度もあるから誤解するのだろう。さらに疲れがひどくなるとなんとなく食欲も減退する気がする。まったく食べられなくなると痩せるよりやつれていくということになるが、それも含めて痩せられるんだったらラッキーである。せっかくつらいのならそれくらいのご褒美があってしかるべきだという気分はあるが、やはり何か食わないと実際には体力的につらいので、ソーメンなどをつるつるやると、これが案外簡単にお腹に大量に入って行ったりして、そんなに元気になれないまま体重は増えたりするのである。人生は不条理だ。
 しかしながらバテているのなら、ちゃんと寝て、飯も食った方がいい。年を取るとそのあたりの感覚は、如実に実感として表れる。若いころは基礎的な体力があったので、そう気にしなくてもいつの間にか回復していただけなのだ。
 いろいろ考え方はあると思うが、実はあんがいビールもいいのかもしれないとは思う。牛だって余計に食べるためにビールを飲まされる。暑くて喉が渇くと、自然にビールは美味しくて、そうしてついでにちょっとつまんでしまう。食い過ぎは確かに困るが、これで少しは食欲が増進しているとは思われる。ワインなどがいいというのも、結局は食欲増進というのが大きいのではないか。
 ということで飲むのを合理化する。さて、体重問題は先送りである。しかしながらそれも健康のため。肥満が不健康というのは、すでに問題外としている。涼しくなったら、ダイエットはさらに厳しいはずなのに…。さらに収穫の秋ともなると…。やはり目先の利益を優先するものには、将来が暗いというだけのことなのであろう。
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見逃すと後悔レベルの高い傑作   君の名は。

2016-09-04 | 映画

君の名は。/新海誠監督

 都会に住む(おそらく新宿、もしくはその周辺)高校生の男と、田舎に住む(おそらく岐阜の飛騨あたり)同じく高校生の女が、どういう訳か入れ替わる。男女の入れ替わりなので大変な騒ぎになるが、週に二三度目覚めてから寝るまでの間、断続的に入れ替わるのだ。目が覚めると元に戻っているが、当たり前だが入れ替わった元の自分の生活の記憶は無い。周りの人間だって中身が別人になっているなんてとてもわからない。名作「転校生」のアニメ版のようだが、しかし突然この入れ替わりが終わる。それまではその設定のためにコメディのような展開だったのだが、そこから物語はとんでもない方向へ飛躍していく。そういえばオープニング画面と関係があったのかと、初めてその時気づくことになる。驚いていると、お話は人々の感情を激しく揺さぶることになっていく。内容を書くことは出来ないが、この斬新さはほとんど奇跡ではないだろうか。
 個人的に新海監督の過去の作品で激しく失望した経験が有り、人に勧められなければ見ることは無かったと思う。さらにヒットしているらしいから、ますます見向きもしなかった可能性さえある。しかしなんとなく気になって観たわけだが、まさに大正解。これほどの傑作を映画館で観ることが出来て本当にしあわせだった。映画の最後の方では、本当に祈るような気持ちでドキドキしっぱなしだった。もちろん涙も止まらなくて、周りに座っている中学生くらいの女の子たちは、なんとなく僕の様子に軽く緊張している様子だった。すいませんでした。
 見終わって考えてみると、練りに練った構成になっていて、そういうパズルの埋め合わせを考えてみるだけでも随分と楽しい映画だ。キャラクターはそれなりに漫画チックだけれど、背景は絵としても精密で、そういう中で配置や構図が斬新で、さまざまにダイナミックなものを見せてくれる。音楽とも相性が良く、いわゆるスタイリッシュな感覚もある。てんこ盛りと言えばそう言えるけれど、これが興行映画としても大変に優れた仕上がりになっていると思う。ヒットしているのでロードショーも延期されるかもしれないが、これは是非映画館に足を運ぶべき作品である。配給が上手くいくと全世界で大ヒットする可能性もある作品だと思う。アニメには興味が無いという人であっても、騙されたと思って観てみて下さいませ。
 なお、関係ないけど、愛する言葉より先に、名前って大切だよな、って身に染みて分かります。人は出会わなければ、恋愛より前に話にならないのであります。
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愛は金である   後妻業の女

2016-09-03 | 映画

後妻業の女/鶴橋康夫監督

 資産のある男の後妻に納まり、その死後に資産を取るということを職業にしている人々と、資産家の子らが後妻を疑って調査を進めて追い詰めていくお話。基本的にコメディになっていて、危ういながらも境界線上の(もしくはきわめて分かりにくい線)で立ち振る舞う守銭奴の心理戦を扱ったといえるだろう。あくどいながら、どういうわけかこの悪人たちの武勇伝のようなところもあって、普通なら一線を越えているらしいあたりから結末は見えているのが映画的な約束なのだが、それすらも越えてしまうような結末になっている。別に驚きはしないが、そこのあたりはなんとなくあやふやで、結局この仕事は続けられるということになるんだろう。ゆすりを受けながら終わらない悪行を強いられるということでもあって、そんなにハッピーとも思えはしないが…。
 最初の疑問点だが、それなりの資産家の資産を何度にわたってかすめているにもかかわらず、あまり裕福そうな生活をしてないようにも見える。いや、首謀者でもある男についてはそれなりに金を使っている様子があるけれど、結局女に金を貢いでいるということであるらしく、普通に健全である。いや、それというのも、それなりに危ない橋を渡っているのであるから、そもそも残された家族が、簡単にそのような事実を受け入れてきた過去にも疑問があるし、後妻に納まるとはいえ、生活能力は極めて低い女であるらしく、そもそもの結婚生活が破綻しているにもかかわらず、公正証書で遺言状はちゃんと書かせることが出来ているのもきわめて怪しいという感じはする。年を取った男でも、色恋には弱いのだという一点であっても、突破するには相当なハードルの高さなのではなかろうか。だからこそ美人局の首謀者と組んで、時事上殺す必要があって、この一点で、かなり警察の捜査などに引っかかりそうな気もする。この映画では保険金の話は見られなかったが、多額の資産と共にそのような金のとり方だってあるわけで、一回の悪行でもっと稼いでいたら、こんなに何回も後妻を務める必要なんて、そもそもないのではあるまいか。
 お話とは関係ないが、キャストの多くはずいぶんご高齢になられたものだな、という感想も持った。珍しく映画館で観たが、客の高齢率も高かった。ご夫婦で観ている客が多くて、ちょっとチョイスとして良かったのかな、という気もしたが、考えすぎであろう。
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