カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

真面目だからこその賢い選択先

2015-07-16 | HORROR

 僕には娘はいないのでそんなに実感を持って考えたことが無かったが、いわゆる風俗嬢というのは、地方出身の女子大生が供給を支えているという現実があるんだそうだ。いろいろ原因はあるわけだが、第一はもちろん経済的理由だ。しかしながら決して貧困ということではない。貧困ではないのだが、じゃあ遊ぶ金欲しさなのか、ということでも違う。まじめな学生だからこそ、風俗関係で仕事をせざるを得ないということらしいのだ。
 高校を卒業したての女の子というのは、当然ながら社会経験に乏しい。曲りなりに接客を必要とする酒の席などの対応が上手くやれない、というのが第一にあるという。性を提供する方が簡単だということだ。考えてみるとそういうケースは外国人などにもみられる。日本語が得意でなくともベッドなら入れるということかもしれない。もちろん、そればっかりではないけれど。
 要するにスキルが無くてもとりあえずできる仕事(なんだろうか?)として、選択せざるを得ないということらしい。それでも選ばないのが普通じゃないかと考える向きもあろうが、これがやはり真面目な人ほどそうではないという実例がある。
 神戸大学法学部三年の鈴木さん(もちろん仮名)は、東北の地方進学校出身。大学近くの家賃4万円のアパート住まい。大学は皆勤。一年生の時は塾や家庭教師や掛け持ちのバイトなどで、週に5,6日働いても(月に)12万程度だったという。ちなみに全国の学生の調査によると、親からの仕送りのみで生活が可能な学生は33.7%である。鈴木さんは何よりも学業を優先したい思いが強く、さらにかなり無理をしてもその程度の稼ぎにしかならず、親に負担をかけたくないというのも理由にあったようだ。
 最初はファッションヘルス。専門課程に入った三年生からはソープランドへ転職。出勤は週三回。平日だと授業を終えて遅出で二本(要するに二人相手にするということらしい)、土日で三四本くらいだという。現在はソープランドでも高級店で、客の料金は4万5千円。手取りは一人当たり2万円といったところ。月にだいたい50万くらいにはなるので、貯金もできている。卒業後に公務員試験を受ける予定で、社会人生活をスタートする資金も計画的にためているという。
 週6日働いていた1年生の頃に比べると、学生生活を維持するための必要な労働時間は激減。「本当にありがたいし、風俗嬢になってよかったとしか思えない。風俗がなかったら大学生を続けることは不可能だったと思う」といい。経済的な心配もなくなり、しっかり勉強できる環境になったという。
 なんだか大変にいい話になっていて、衝撃度も大きい。確かに彼女の場合には悲惨さは微塵も感じられない。多くの風俗嬢にとっては、仕事は完全歩合制でやりがいもあり、店で同年代の友人もできて、実際に楽しいという。もちろん最初はびっくりするらしいが、たいていは何日かで慣れるということだ。
 江戸時代の身売りの娼婦の話のようなものばかり映画やドラマになり、僕らはなんだか間違った認識でこの世界を観ているのかもしれないと思ったことだった。

※参考文献:日本の風俗嬢/名村淳彦著(新潮新書)
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証言者が幽霊だったら   ステキな金縛り

2015-07-15 | 映画

ステキな金縛り/三谷幸喜監督

 殺人事件の被告人が、犯行時刻には金縛りにあっていて動けなかったというアリバイを主張した。普通ならもっとまともなアリバイを主張するはずだという根拠を信じて、金縛りにあったという旅館を訪ねると、そこで落ち武者の幽霊に遭遇してしまう。実は金縛りのアリバイというのは真実で、裁判でその証言を幽霊にしてもらおうとする。しかしながらどうもこの幽霊という存在は、見える人と見えない人がいるらしい。ほとんどの人は見えないというこの証言者の幽霊をどうやって証人として立てたらいいのだろうか? というようなドタバタ・コメディ。深津絵里が可愛らしく映える感じも良かったな、と思った。中井貴一の一人芝居も悲しく面白いのだった。
 ちょっと無茶な設定ではあるのだが、見えない幽霊も特技があって、息を吹きかけることができるという突破口があって、何とか難所を切り抜けることができるという仕掛けはある。さらに霊界のこともなんとなくわかる仕組みだ。見える理屈というのはちょっとアレだけど、まあ、そこのところはもともと非論理的なんで、見逃すことにしよう。
 法廷劇でもあり、舞台でも演出可能かな、という展開である。そこが演技合戦としてもかえって面白いわけで、皆それなりに舞台的な演技をしている。これに合う人と合わない人という感じもするわけだが、要するにこれは観ている側にも言えることだろう。お話はコメディに少し蛇足があるようにも感じられたが、それは欲を張った結果なのかもしれない。結果的にせっかく見えていたのに、主人公にとっては、そうして主人公の親にとっても、少し残念だったな、という気分が残ってしまった。
 三谷作品のこのようなお約束のような喜劇というのは、ツボにはまるタイミング次第という気もする。設定がある程度呑み込めて、そうして物語の進行のテンポのようなものにも乗れないと、途中で疲れてしまうかもしれない。実は僕にはそういうところがちょっとあったのだけど、今回はそうでもなかった。それというのも、深津や中井、西田、阿部という役者の使い方が、それなりにコメディに徹しているからではないだろうか。他の作品でもそうだったのかもしれないけれど、どこか映画的なところがどうしても出てしまう。彼らは映画的な演技もさることながら、普通でもあまり映画的ではなかったのかもしれない。そんなことも考えてしまった。
 それにしても、殺人事件なら、被害者に話を聞けるのが一番手っ取り早い話だ。そういう方法があるとすると、犯人は必死で死体を隠すようになるのではないか。殺人事件と認知されない殺人の方法が無い限り、殺人という手法は取られなくなるのかもしれない。もっともいつまでたっても、実際にはそんな方法などは見つからないであろうけれど…。
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出会いが多すぎると運命に逃げられる

2015-07-14 | 境界線

 最初に断わっておくが、僕自身は誰もが必ずしも結婚すべきだとは思っていない。中には向かない人というのがあって、それは自覚しているかしていないかは別にして、そういう人が無理に結婚してしまうことは、確かに不幸の始まりのような気がするというのがある。向かない人は、素直に向かない道に進むことなく楽しんでわが道を歩めばよろしい。
 さて、そういうことではあるが、結婚はしたくないわけではないが、どうにも出会いが無い、という話はよく聞く。単なる言い訳ということではなさそうで、実感としてそういうことであるというお話である。仕事が忙しかったり、方々で人と会うような環境にないという人は、それなりにいるのかもしれない。それはそうなのかもしれないな、と今までは思っていた。
 ところが、そういう出会いが無いという人の多くは、実状的にはそうではないらしいという話も聞いたのである。出会いが無いということを正確に翻訳すると、いわゆる自分自身が恋としてときめかない、であるとか、この人に運命を感じない、ということが大半であるというのだ。そうしてそういう気分が生まれる最大の原因は、過剰な出会いの場がその人にはあるという環境にあるのだ、ということだった。いくらでも代わりがいる人には、誰が一番適当かなんてことは逆に見えづらくなってしまうらしい。
 ちょっと意味が分かりにくい人もいるかもしれないが、例えるならば、山男ならどうか。いわゆる山に登るような男が下山していると、最初に会う女性に容易に恋に落ちるという話がある。いわゆる長時間の欠乏があって、最初に女の人を目にするだけで、感動のようなことをしてしまうらしい。
 要するに、本当に出会いが少ないような人というのは、普通に考えると、少ない機会であっても、その貴重な少ない機会に、あんがいそれなりに対応して運命を感じたり、恋に落ちたりしやすくなる方が自然だというのだ。そういう機会さえまったくなかったというような人が絶対にいないとは言えないまでも、多くの場合は道行く対象者くらいは目にする機会くらいは誰にでもある。本当に出会いの無い人だと、コンビニの店員さんが笑顔でお釣りを渡してくれるだけでも特殊な運命を感じてしまうという話もあるではないか。実はそういう機会が多いからこそ、特に自分の相手であるという認識が鈍くなってしまい、出会いさえ感じなくなってしまうということのであるらしい。機会が過剰であるからこそ、出会いが無いという感想を持つに至るということになる。
 なんというのかは忘れてしまったが、これは哲学的にも経済学的にも既に立証済みの概念なんだそうだ。学問というのも、妙な研究をするものである。
 まあそういうことなんで、出会いのないと感じる人は、一人で山にでも登るというのが正しい自分の磨き方ということになるのかもしれない。これだけ人間が増えた社会である。孤独になるような機会というのは、自ら抜け出さない限り達成の不可能な領域になっているのかもしれない。
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英国の近代の歴史を見る   世界史をつくった海賊

2015-07-13 | 読書

世界史をつくった海賊/竹田いさみ著(ちくま新書)

 英国にバイキングがいたらしいことは知識としては知ってはいた。しかしながらこの海賊というのはあくまでならず者であって、国家に対しては悪党なのではないかと思っていた。究極のアウトロー。法の支配下には置かれない、自由で、しかし凶悪な男たち(別に女が居てもいいのかもしれないが)。海の上が恐らく昔は無法地帯で、だからこそ彼らのような存在が、過去には存在しえたのではなかろうか。
 ところが、である。これが大変に間違った認識であるということを、わからせてくれる本なのだ。16,17世紀の英国の海賊というのは、きわめて国家的な戦略として機能した。そうして当時二流国家で貧しかった英国を、大英帝国としてのし上げる土台となった貴重な存在であったということを、細かく検証しながら証明している。女王が裏で糸を引いて操る、国家的に最重要な機関であったことが分かるのである。当時の最大の大国であるスペインを苦しめ、そうして覇権を奪っていく。実に狡猾で、さらに卑怯で、しかししたたかな国家的な犯罪者集団が、バイキングの真の姿だったのだ。
 何しろ海賊だから何も生産するわけではない。スペインの立派な船を襲って(おそらく人間は皆殺しして)財宝などを奪うだけでなく、船自体を奪う訳で、のちの英国海軍の船は、実はスペインのものが大半だったのだ。そうして海軍の力をため、さらに海軍の指揮を執るのも実は海賊だった。何しろ海上の知識は豊富だし、奇襲を含めた戦いはこなれている。また商船などを襲う際の情報網というものを持っており、これは女王側近が国家予算としてスパイに多額の資金を投じており、いわば国家の機密情報を海賊が握っており、それにもとづいて戦略的にスペイン船を襲っていたのだ。もちろんスペインは再三にわたって英国に苦情をいう訳だが、女王は海賊が勝手にやったものだとしらばっくれて、堂々と裏で糸を引き、資金を投じ、さらに有力海賊にはナイトの称号を与えて優遇した。もうほとんどむちゃくちゃだが、当時の国家勢力からしてスペインをはじめ列強に囲まれた貧しい国家の英国としては、そのような狡猾さで生き延びる道を選択したということのようだ。また、大陸のカトリック教やイスラム教などに対して、当時の女王がプロテスタントであったという背景もあるようだ。お隣のスコットランド王妃がカトリック教徒だったので、国家動乱の罪をかぶせて殺したりしている。死ぬか生きるかのサバイバルを、海賊という無法者を動員して乗り切ろうという政治手法をとっていたということなのだ。
 もちろんこの海賊の活躍が功を奏して、海運貿易や植民地支配などを進めていく。後塵を拝しているために、システムとしては不十分なところが多すぎるため、やはり単純に奪うようなことばかりをしていたようであるが、結局はそれが上手くいったりする幸運もあったのではなかろうか。後にアフリカの黒人奴隷売買など、国家的な悪事の限りを尽くして、着実に国家は国際社会でのし上がっていくのであった。結局はこの英国のような国が、近代国家の礎になっていくわけで、このような限りない悪事を自ら働いたことで、現代の後進の国を支配する仕組みを作ることにもつながるわけである。そうしてどういう訳か偶然に英国において産業革命が始まったかのようなシナリオで国際的な覇権を握ったようなことにしてしまった。本当の土台になったのは、海賊国家だったのにもかかわらずである。もちろん産業革命に意味がなかったわけではないが、本当に英国の勃興のもとは、他国から奪い自らの利益にしていくという考え方なのではあるまいか。
 ということで、なかなか面白い歴史本である。海賊の視点に絞るあまり、省略されているところはあるそうだけれど、歴史を考える切り口としては、大変に有益な見方なのではないだろうか。
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ゴミ箱は不毛の蓄積

2015-07-12 | net & 社会

 携帯にメールが来ている。内容は7800万日本に送金したいが、何か口座のトラブルがあるらしく、それができない。ひいては僕の口座にこのお金を振り込ませて欲しいとの由。さらに送金後はそのお金は報酬として差し上げるという申し出である。台湾(メールの送信者によるとだが)で税金等処理はして送金するので非課税だそうだ。
 すぐにゴミ箱に入れようかと思ったが、なんとなく気に障る。僕は一部のメルマガなどを除くと、ほとんどのメールは拒否するよう設定しているはずである。基本的にパソコンからのものは来ないはずだ。もちろんいろいろ抜け道はあろうから、僕の知らない方法で送信できるのかもしれない。考えられるのは、僕がメールのやり取りをできるような友人のような関係の人から、僕のアドレスが漏れたということのように思える。基本的に携帯のメールは携帯同士でなければ交わさないように注意していたし、そういう連絡方法をとる人以外は知らないはずなのだ。特に誰かを責めるつもりはないが、恐らく知らず知らずこれらのメールのやり取りに引っかかる人が、僕とつながりがあるらしいと推察される。
 さらに携帯のメールのサービスを詳しく知らないために、スパム報告をして削除するなどの処置がよく分からない。しばらくすると二通目が来て、今度はこの処理が出来なければ会社が倒産するとかいう泣き落とし戦法である。僕個人がトラブルに巻き込まれることは無いという但し書きもある。
 ネット上で処理するのが面倒なので、やはり警察に通報すべきかとも考えた。二通目が来たときにさらに気に障る気分が高まったからだ。要するにイライラする。しかし警察がこれを見ても、そんなに興味を示すのだろうか。いや、何もしないこともないのだろうけれど、時間がかかりそうなのも面倒だ。僕としてはこれのもとになるようなところにちゃんと捜査が届けばいいと思うが、案の定差出人のメールのアドレスの末尾が一通ごとに違う。詳しく知らないにせよ、追跡が容易にできない配慮をしているものらしい。
 そうして3通目。4通目。泣き落としは続き、返事連絡だけでもくれとの由。5通目6通目とこちらがひょっとして詐欺を疑っているのではないか、とか書いてある。実はちゃんと読まなくなったけど、そういう文章で本当に疑念が晴れる人がいるんだろうか、という疑念がさらに強くなる。さらに泣き落としは続き9通目まで来たようだ。一応友人からのメールの場合もあろうからチラ見するが、内容は開くことなくゴミ箱へ。切迫感の演出ということもあろうけれど、これだけ矢継早だと、やはりもっと疑念の湧く方が自然な感情ではないかと考えたりした。
 とりあえずこれで終了したらしい。相当数に送信しているだろうこともあろうけど、やはり普通はすべてゴミ箱に行ったのだろうとは思う。実際に口座を教えるなどする人がいるとは思えないが、何らかの返信をした人はいる可能性はある。その後の展開は知らないが、さらにやはり口座を教えろの一点で攻めるより無いのではないか。せっかくだから休眠口座などで様子を見るような暇な人もいるかもしれないが、まあ、普通はそれも考えにくい。詳しい人で送信元を追跡するような人もいて欲しいが、やはりそれで何かが解決するほどには、手が打てるものかは不透明だ。結局はこのようなメールが止まるということは無いのだろう。
 怒りが沸く効果を狙っている訳ではなく、わずかながらの可能性に賭けて、このような行為が無くならないという図式である。少しでも捕まるようなことがあると減る可能性はあるが、実際にこのような集団と接点があると思われるのは、送金という具体性が無ければならないのかもしれない。いまだに電話での振り込め詐欺・オレオレ詐欺(結局なんという命名だったっけ?)の被害額は増える一方という報道は聞く。商売というか詐欺として成立する事実があるから、やはり一攫千金を夢見てこういうことをやってしまう。そうして不快なゴミが、それぞれの持ち物に蓄積されていくわけだ。こういうのを不毛と言わずして、何といえばいいのだろうか。
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失われた人間性の修復   ブロンコ・ビリー

2015-07-11 | 映画

ブロンコ・ビリー/クイント・イーストウッド監督

 旅しながら興業で食いつないでいるサーカス一座に、親の遺産を継ぐために偽装結婚したものの、そのことに耐えられなくなった夫に逃げられたワガママな女が合流して珍騒動を起こすという物語。ちょっとゆるいロードムービーなんだが、自分勝手な暴君のようにふるまうボスに引き連れられた集団と、そこに迷い込んだような気の強い女が打ち解けていくというのが大きな流れである。皆問題があってそこのいるわけだが、むしろ問題のない人間なんていないという事実が明らかにされていき、結果的に特に問題が大きくひねていた富豪の娘の精神が解放されていくような感じである。
 サーカスと言っても芸が特にもの凄い(ある意味でトリックなしであれば凄いけれど)わけでもなくて、田舎町の退屈なところでは物珍しく人を集めることもできる程度なんだが、彼らは金を稼ぐことと同時に、慈善事業も行っているということである。心や過去に傷があるものであっても、そうしていまだにまだいろいろと問題を起こすような連中であるのだけれど、実は真のところで善良であるということなのかもしれない。
 ふと思い出したが、盗んだ金を慈善事業に寄付したとして、それはいいことなのか? という設問があった。もちろん金に色はついていないので、役立てばいいことなのかもしれないが、もともと盗まれた金は汚れているのではないかとも考えられる。悪いことが結果的に使われ方で、よいお金に変化しうるものだろうか? 答えはどうだったか忘れたけれど、恐らく宗教的には、そういう問題についてのある種の答えのようなお話ではないかとも思った。
 ともかく、飲んで喧嘩して暴れたり、その後一人は警察につかまったり、そうして結果的にテントが火事になり、金も尽きて列車襲撃をやろうとしたりと、次々に問題ばかり持ち上がっていく。なんとなく解決というか、あくまでゆるく何とかなっていくのだが、それは実は過去の行いともつながっているという感じだ。困ったことは多いけれど、実に彼らはそれで活き活きと生きているということになるんだろう。日本人にはちょっと疑問の多い生き方には違いないが、こういう価値観で生きていくというのが、彼らの大きな意味であることも見て取れるだろう。
 ちなみに監督主演のイーストウッドと同じく主演しているソンドラ・ロックは、撮影当時は付き合っていたとされ、その後破局するが、ロックは慰謝料を請求し、恐らくその金で映画監督に転身し作品を残した。まさに生きているという感じがするんだが、まあ、繰り返しになるんでいいでしょうね。
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身だしなみ第一でなくても…

2015-07-10 | 掲示板

 身だしなみというのは大切で、ふだんから身に着けるものに気を付けて、ファッションセンスをも磨く必要がある、という話は聞く。特に仕事をするうえだとか、就活なんかでも、そういう話が漏れ伝わってくる。僕も面談はするので、時々はフムフムと思うこともあるが、しかしふだんはあんまり真面目に聞く気にはなれない。もちろんあまりにもだらしない恰好で面接に来るような人がいると、ひょっとすると落とすかもしれないが、服装だけの問題で判断するという意識は無い。それなりに必要最小限だったら良いし、気にしてても気にしてなくてもそんなに気にならないということか。もちろん僕自身はつれあいが服を準備してくれてそれを着ているので、何にも言える立場じゃないということは言えるが、そうしてそれは助かっていると感謝はするものの、だからと言ってひとがそのようにふるまうことについては、本当に重要なのかということに疑いさえ持っているという感じだ。
 理系の人に多いといわれるが、例えば寝癖をつけたままであるとか、決められた服しか着ないとかいうことを聞くと、どうでもいいことでもあるけれど、少しだけ好感度が上がるということさえある。なるほど、気にする時間が無かったのだろうな、とも思うし、同じ服ばかりでいいという潔さも、偉いなあ、と思うのかもしれない。
 もっともオバマ大統領なんかも、基本的に服装は決められたものを着るスタイルだという。これは理由がはっきりしていて、いろいろ決めることを仕事にしているので、自分のことは、特にファッションで消耗しない気遣いであろう。選択を迷うだけでやる気というものも削がれることが、科学的に分かっていることで、合理的に生きるという意味であろう。
 ファッションを磨かないというのは、つまりそういう意味がある可能性があると思う。もちろんみっともない恰好をあえてしたいとも思わないし、目立たない程度に普通にしていたいという思いはあるだろう。そのためのファッションセンスということも理解できないではない。しかし、やはり迷いたくないというのが、最大の原因だと思う。迷う時間がもったいないし、そういう自分が嫌なのだ。それよりも他に考えたいことがあるし、そのことにより時間を使いたい。それが自分自身であるし、そういう生き方をする選択ができることが、将来の自分のためになるとも思えるのだ。そうして、恐らくそういうことを考えているかもしれないダサい若者に、少なからぬ共感を持って眺めてしまうということになるかもしれない。
 まあしかし、それで仕事ができるのかというのはやはり何の関係もなさそうだ。やっぱり程度問題で、ある程度それなりに、というくらいは、普通っぽく見える必要はあるのかもしれない。
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ウサギよ、自分を過信するなかれ

2015-07-09 | 雑記

 売れっ子作家が忙しいというのは聞いたことがあるが、今ではそういう環境というのは普通にブラック企業でもあるわけで、特に特権的ではなさそうだ。昔のホンダだとか、大企業でも家に帰られないような猛烈な忙しさの仕事場というのはゴロゴロしている。もちろん日本人も大人になったので、今ではそうそうそういう環境にある人が多数とも思えないが…。でもまあ、いまだに官僚なんかは忙しくて帰られないのだろうけれど。
 ところで角田光代である。彼女は一時期月の連載の締め切りが28あるという壮絶振りで仕事をしていたという。いまだに超がつく忙しさであるようだが、しかしながら普通に5時になったら家に帰るようなやり方で仕事を片付けているらしい。要するに仕事量は尋常ではないが、コンスタンスに仕上げることができるような人なのだろう。むしろ多くの忙しいと思っている人は、決められた時間内に仕上げることができずに苦労しているというのが現状ではなかろうか。もちろん僕を含めて。だから角田光代は異常に仕事のできる人ではあっても、忙しさで忙殺するような人でないらしい。まったくすごい人である。
 そういえば角田は自分で弁当なども作るというし(これは小説などと違って、ちゃんと完成品を毎日作れるという喜びもあるらしい)、学生時代からボクシングもやっているという。そうしてちゃんと読書家で、小説なども量産できるというスーパーぶりなのだ。
 面白いなというか、ちょっと意外だったのは、忙しくても周りが見えなくなるようなことは無いらしくて、例えば「寝食を忘れて仕事をする」という表現があるが、昼になったらちゃんと昼ご飯を食べたい人で、5時になったら帰りたい人なんだそうだ。そうしてちゃんとそうしている。要するに抜群に段取りに優れている様子がうかがえる。そうしなければ、ずっと仕事ができないというようなことも言っていたようだ。ふむふむ。
 実は集中したり熱中したりすると、そうして当然のように忙しかったりすると、時々飯を食ったり、人と話したりするのがものすごく面倒に感じることがある。腹は減るので仕方がないが、どうして飯の時間がやってくるんだろうとイライラしたり、電話がかかってきたり、人が訪ねてきたりすると、頭に血がのぼって、本当にカーッという感じで一人でいらついてしまうようなことがある。せっかく調子に乗ってフルスピードで仕事に注中出来ているようなときに、たぶんそんなようなことを思うような気がする。飯なら時々抜けばいいが、特に来客などは閉口する。そういうときは少し興奮しているので、余分に話をしたりして、さらに自分の首を絞めたりする。本当に恨めしく自分はバカである。
 もう死んだと思うが竹内均という人が、時間きっちりに仕事を区切って、しかもたくさん仕事をするというようなことを書いていたように思う。うらやましいものだな、とは思ったが、やはり自分のペースで計画的に仕事をするというような人が、結果的多くの仕事を残すのかもしれない。恐らく角田もそういう仕事術を身に着けているのだろう。たとえるならカメの戦術というか…。ある程度足が速いと思っている人は、早く駆けたら何とかなるとか思っているのではないか。いつの間にか一所懸命走るしかないような状況に追い込まれてダッシュしている。しかしカメはいつもコツコツ仕事をしているので、結果的に目的地に先についてしまうのだ。
 イメージ的にはそういうことだが、しかしこのカメ仕事の人たちは、カメなりに実は速度が速かったりするのかもしれない。早い上にカメだから、僕らはいつまでも追いつくことができないということなのだろう。
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古くて新しい当事者視点   白ゆき姫殺人事件

2015-07-08 | 映画

白ゆき姫殺人事件/中村義洋監督

 美人OL殺人事件が起こり、その同僚のOLが失踪。それをネタにテレビのワイドショーが、失踪したOLを犯人と匂わせた内容を放送する。その取材を通して失踪の実際の状況が徐々に明かされていくが、事件は意外な展開を見せていく、という物語。主にツイッターと通じた現代社会の人とのつながりと共に、実際の報道とつながっていくチープな臨場感と謎解きが絡まったミステリー作品に仕上がっている。あっけらかんとした乾いた感覚がありながら、大ネタをつかんだテレビ局制作会社の派遣労働者のサクセスストーリーのような様相から、事実の核心に迫るにつれ、だんだんとその現実とのずれが生じることによって、物語が二転三転するような展開になっていく。ついでのように起こっていた事件なんかも微妙に絡んだり、また過去のエピソードなども絡んで、それなりの重層的な物語になっていく。そのこと自体が、OLが殺された事実の中に明かされていく面白さが最大の魅力である。
 一つの出来事であっても、そのことに関わる様々な当事者の立場から、まったく違った風景が見えるという視点の転換が面白いわけだ。古くは羅生門からあるトリックなのだが、最初に見えていた事実も踏襲しながら、実は違っていたピースがいくつもちりばめられており、その一つ一つがそれなりに整合性があって、謎が解けていく快感がある。実は初期的に大きくだまされていたに過ぎないということは言えるにせよ、最終的には被害者そのものに、かなり批判的な感情を持ってしまった。それで殺されるなんて確かに行き過ぎではあるにせよ、まあ、仕方なかったんじゃなかろうか。
 いろいろ悪人は出てくるが、登場人物がそんな印象を持つような人々ばかりではなく、演技ではあろうけれど暗い人だったり、実はそれほどでもなかったりというようなこともあって、それは恐らく原作との整合性と、実際に使われているキャストの問題だろうけれど、観ている方が脳内変換を行って納得するより無いようなところはあったように思う。それでもお話は面白いので、感情は揺さぶられながら、これではもっと人が死んでもおかしくないな、などと考えてしまったりした。会社組織というのは実に恐ろしいものだと、ひとごとのように思うのだった。うちでは殺人事件なんか起こらないで欲しいものだ。
 しかしながらこのような背景があるからこそワイドショーを楽しめる人々もいるわけで、僕はふだんは観ないのだけれど、こういうことなら実際に楽しいな、と思ったりした。それはたぶん警察がそんなに表に出ない所為もあろうし、実際の話、ワイドショーなどで露出が多い人が、のちの捜査でちゃんと犯人として捕まるようなことがこれまでにもあったような記憶もある。茶の間の人がタイムリーに楽しめるということが、あるように思う。それはよく考えてみると恐ろしいことを含んでいる訳だが、娯楽を消費する側としてはそれでいいということなんだろう。さらにやはりこの背景までは、一般の人には絶対にわかりえない世界だからこそ、この映画のようなお話が成立するのだ。目の付け所が良かったということで成功した映画ではなかろうか。
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離れた太陽を思う

2015-07-07 | 感涙記

 本日は新暦ではあるが七夕である。梅雨で残念そうなのでこれは旧暦で再度再会を果たしてもらうこととして、さて、本日は(午後5時頃だというが)地球が太陽から一番遠いところである遠日点を通過する。地球と太陽との距離の平均は1億4960万㎞で、今日は1億5210万㎞まで遠くなるそうだ。その差は250万㎞。地球一周(場所で違う)が約4万㎞といわれるから、なんだかずいぶん遠いところまで来ていることは間違いない。太陽から遠くなるので、その分少しくらい涼しくなってもよさそうだが、はて、そんなに違いがあるのかは疑問だ。もともと1億5000万㎞あまりもの距離があることから、250万㎞の違いは2%にも満たない差でしかないからだ。改めて宇宙は広いというか、太陽はあんがい遠いというか、それでも夏は暑いので勘弁してくれというか、ともあれ地球人の実感としてはいい加減なものなのである。
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待つ人待たせる人

2015-07-07 | 雑記

 僕は学生時代にアルバイトで、ファミレスのウェイターをしていた。だいたい2年半くらいだったと思う。時代が時代だから、最初は時給360円だったけれど、やめた頃には800何十円かになっていた。変な時代でした。
 ところでそういうことで、あんまり今はファミレスなんてところには出入りしないまでも、例えば居酒屋なんかでも、若い店員の動きなんかに自然に目が行くことがある。別に批判がましいことを言いたい訳ではないが、今の時代でも、このようなバイト君たちを使うのは大変だろうな、などと思ったりする。何しろ僕もたくさん怒られたわけで、まあ、僕なんかより数段今の人たちは優秀であろうけれど、まあ、難しい人がいないわけではなさそうだ。
 優先順位というのがあって、例えば同時にいろいろ客の動きがあったときどうするのか?ということがある。①ある客は食事を済ませてレジに行こうとしている。②ある客は手を挙げて呼んでいる。③ある客はお冷が空っぽだ。④そこで厨房から料理ができたと声がかかっている。当時のことだけど、これは案外簡単で、ここでは④が最優先である。客にできるだけおいしい(出来立て)の料理を提供する必要があるからだ。その後②にお待たせしましたと出向き。注文票を厨房に渡して①へと向かう。この時待たされた客が怒っているとしても、むやみに注文を待たせてレジに行ってはならないのだといわれた。一番問題なのは③の状態になるまで放置したミスであり、これは氷がカランとでも鳴れば、水がまだ入っていようと合間を縫って注ぎに行くべきであったのだ。さらにこれは一人の場合だけど、普通はこのようなことが重ならないように、自分の動きでコントロールする必要があるんだけれど、これはちょっと文章では難しい。できるといえばできるし、まあ、思い過ごしだったかもしれない。
 ウェイターというのは、客の要望に応えるべく待機(weit)することを語源としている。給仕する人なんだけど待機する人と呼ばれるゆえんである。しかしながら現実には、結構客の方を待たせることが多いのが現実だ。コストの問題があるから致し方ないわけだが、待たせても納得の動きが出来れば客が怒ることは無い、と当時は言われたものだ。果たしてそんなウェイターやウェイトレスというのもが本当に存在するものなのかは、僕にはよく分からないのであった。
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サバイバル子連れ狼   ザ・ロード

2015-07-06 | 読書

ザ・ロード/コーマック・マッカシー著(ハヤカワ文庫)

 理由はよく分からないのだが、近未来の恐らくアメリカで、国家などの機能が働かないほどの災害か核戦争などの所為で、廃墟になってしまった無法の地が舞台だ。父と子が南を目指して放浪している。恐らく冬を前にして、ただでさえ寒くなっている地域を抜け出す必要があるようだ。移動しなくても死が待っており、移動してもリスクは多い。しかしそれでもわずかな望みにかけて、生き延びるために仕方なく移動しているものらしい。カートに必要最小限の荷物や食料を積み、他の人間に極力接触しないように細心の注意を払いながら、空家や放置された家々を時折物色し、壮絶なサバイバルを繰り広げながら旅をしていく。生き残った人間も、同じように飢えており、ひょっとすると善良な人がいるのではないかという淡い期待は持ちながら、しかしもし捕えられでもすると、子供は犯された上になぶり殺しにされる運命であり、父は容赦なくその場で殺されることになるだろうことが示唆されている。実際にそのような場面に何度も遭遇し、一丁の拳銃に弾丸が残り一つだけになってしまっている。身を守る最大の武器であり、ひょっとすると子供の命を最後には絶つための貴重な手段なのかもしれない。
 そのような生活の描写と、父と子の会話のみで物語は展開される。他の人間に見つかる恐怖感と緊張感。しかしながら容赦なく襲う過酷な野宿と自然との闘い。そしていつも飢えに苦しみながら、過去の人間が残した食べ物を探し出し食わねばならない。父親の能力は大変に高く、様々な隠し場所から辛うじて食べ物を見つける能力のようなものがある。そういう意味では幼い息子はお荷物であるはずだが、しかしこの子が居なければ、果たして父はここまで強くなれたのだろうか。
 悲惨極まりなく、過酷なだけでなく、何も希望が見いだせないような世界にありながら、この親子が生きるということは、ただ生きながらえているだけの事でありながら、かすかな希望がある。廃墟や座礁したボートなどから生活に必要なものやわずかな食料を探し出し、一時にオアシス生活をする幸福。その幸福の中にありながら気を抜けない緊張感を保ち、何とか善良な精神を持ちながらえて生きていく。しかしそれでもその先には、やはり絶望の風景以外に見えないのだが。
 なんか、映画化されたような話なんだが、これでほんとに良かったのかな、とも思うわけだが、まあそれはそれとしての考えがあるんでしょう。怖かったけど読み終えて良かったです。
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リンを鳴らすような

2015-07-05 | ことば

 「元の木阿弥」の由来は、戦国武将の影武者となった木阿弥という男が居て、一定期間影武者の身分のために豊かな暮らしができたものの、役を解かれた後に元の貧しい暮らしに戻ってしまったことによる。
 木阿弥さんというのは盲目の僧だったとも言われ、僧の生活がどうなのかは知らないが、なんとなく可哀そうで、しかしそれでいてユーモラスな感じである。
 しかしながら努力してなしたものが台無しになって、結局以前の状態に戻ってしまうようなことは、非常に悲しいわけで、木阿弥さんの悲しみに共通する無常感がある。思わずリンを鳴らしてしまいたくなるような悲しみは、やはり少しおかしみもあるようだ。
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ポジティブからの逃避

2015-07-04 | HORROR

 ラジオを聞いていたら、松岡修造がそばにいてくれたら(何事にもポジティブになれて)幸せになれると思う、というようなことを言っている。運転中だったが、思わずハンドルさばきを誤りそうになってしまった。
 個人的な恨みは何もないが、ちょっと苦手な人というか。テレビなんかで見る分にはすでにそういう人だから仕方ないよな、という程度にしか感じていないが、まさか彼が目の前にいて「がんばろう」とか励まされたりしたら、その場にいたたまれなくなってトイレにでも逃げ出してしまうに違いないと思う。ふつう誰でもそうだろうと、勝手に思っていたのかもしれない。
 しかしながら落ち着いて考えてみると、そこまで(ある種の)人々は、元気になりたいとか、ポジティブにふるまいたいというような願望を持っているのだろうか。ついついそれこそがかなり病的ではないかと思ってしまいそうになるが、しかし、元気になること自体は確かに悪いことではなさそうだ。タレントとしての松岡修造は、たぶん自分自身が生きる道としてはポジティブなキャラクターでいいのかもしれないけれど、まさか日常生活であのままだとまずいだろう。それくらいは誰でもわかっていそうなことで、さらにあのテンションが近くにいてしあわせになれるというのは、どうしても理解を超えているように思える。だからたぶん奥さんの前では少しくらいは静かなんじゃないかと思いますが、違うのだろうか。
 いや、激しく落ち込んでいるときならどうか。やっぱりうるさいだろうな。でも元気になりたくて、それなりにやる気があって、そういえば試合前のような気合いを入れるようなときなら、少しだけありうるな。いや、経験もあると思う。しかし松岡修造。僕は知らない人なので邪魔にはなりそうだけれど。
 もちろんギャグの入った発言ということは、少しは考えてものをいうべきかもしれない。しかしショックが大きすぎて、とても冷静になれなかったというべきだろう。それにしても僕は松岡修造を知らないまでも、実は彼には同情的な気分はあったのである。たぶん、過去には苦労したんじゃないだろうか、なんて思いながら見ていたこともあるようだ。あのような度を越したポジティブさというのは、そのような影が見えるような気がする。そうしないと何だか悲しいというか。そういうものが無いままに、ああいう人は出てこないのではないか。
 そういう訳で、僕とは別世界の人ながら、やはり誰かの役にはたっておられるということなんだろう。末永くのご活躍を祈念いたします。
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田舎者の犠牲者

2015-07-03 | ことば

 僕のネイティブな発音は、いわゆる標準語みたいなものだ。怪しいが事実だから仕方がない。これには訳があって、母が僕ら子供に標準語めいたアクセントを植え付けたからである。もっとも彼女が父と所帯を持ったのは東京の蒲田らしく、その頃にいわゆる東京弁を覚えたのだろう。勝手に想像するが、田舎から上京してきた夫婦にとっては、東京弁は恐怖だったのではないか。それでそれなりに一所懸命になって言葉、特にアクセントに気を配った。僕の姉と兄がこの地で生まれ、しかし父は突然仕事を辞めて田舎に帰ることになってしまった。そうした後に僕が生まれた。ちなみに姉は現在大阪暮らしなので大阪弁。兄も一時期大阪にいたせいか、ちょっとアクセントのある大村弁を使う。僕らきょうだいは、母のそばで話をするときに、少し標準語化したアクセントになる。僕の弟や妹もそんな感じだ。比較的に僕の場合、仕事の関係もあるんだろうが、日常的に丁寧語を使っていることもあって、この時のような標準語で話す場合が一番疲れない。要するにまったくの無意識で自然に発語できるということだろう。
 しかし当然のことながら、僕はこの大村という地で育ったので大村弁も使えないわけではない。いやむしろ幼馴染などとの間では、普通に大村弁の筈なのだが、しかし正直に言うと、知っている間柄ならいいけれど、やはり完全にはネイティブではない。実は今はそんなに気にしないまでも、ある程度意識的にコントロールして慣れなければ、上手く口が回らない感覚がある。
 幼稚園の頃、初めて複数の同世代の人間が周りで同時に大村弁を話しているのを聞いてそれなりに戸惑った覚えがある。まったくというか、かなりわからないのである。特にいじめられたということは無かったかもしれないが、疎外感はあった。しかし子供だから、一人で遊んでいても自然に複数の人間が周りにまとわりついてくる。分からないなりに会話を交わし、お前はやっぱりなんか変だ、というようなことはよく言われた。しかしながら僕は独り言でも言いそうなくらいよくしゃべる人間なので、特にそれでどうということは無かったかもしれない。覚えているのは幼稚園の先生が、佐藤君みたいにきれいな言葉で話すようにしましょう、などと言うのだった。こればっかりは恥ずかしくて、やめてくれよ、と内心思っていた。
 実際の話で言うと、僕の発音は母伝来の標準語もどきに過ぎないと思う。これをきれいな言葉というような田舎の先生はどうかと思うが、彼女も当時は若かったのだろうから仕方がない。僕にはこの地が故郷だが、しかしそれは特に愛すべき故郷という感慨は無い。もちろん郷土愛というのはあるんだろうと思うが、大村人だから誇らしいというような感覚が無いのである。しかし断っておくが、だからNHKのような言葉を誇らしいなんてものも微塵もない。東京だって遠いかなたの地方に過ぎない。単に言葉による郷愁が無いだけの話なのか、これに苦労させられたことによる嫌悪がもとなのかは分からないが、なんとなく関係がありそうな気分というものがあるのである。
 結局は田舎が悪いのかな、と思ったりする。母が若いころに感じたであろう日本人の東京に対する思いや、それに対峙する地方の言葉のあり方のいびつな形に、僕自身は知らず知らず翻弄されたに過ぎないと思う。そうして郷土も東京も、ともに自分自身のアイディンティティにならなかった。
 まあ仕事があるからこの地に居ていいわけだが、どこに住もうと特にどうということは感じないのだろうとは思う。そういうニュートラルな感覚というのは、ひょっとすると少数派かもしれないな、とは思うけれど。
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