カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

出会いが多すぎると運命に逃げられる

2015-07-14 | 境界線

 最初に断わっておくが、僕自身は誰もが必ずしも結婚すべきだとは思っていない。中には向かない人というのがあって、それは自覚しているかしていないかは別にして、そういう人が無理に結婚してしまうことは、確かに不幸の始まりのような気がするというのがある。向かない人は、素直に向かない道に進むことなく楽しんでわが道を歩めばよろしい。
 さて、そういうことではあるが、結婚はしたくないわけではないが、どうにも出会いが無い、という話はよく聞く。単なる言い訳ということではなさそうで、実感としてそういうことであるというお話である。仕事が忙しかったり、方々で人と会うような環境にないという人は、それなりにいるのかもしれない。それはそうなのかもしれないな、と今までは思っていた。
 ところが、そういう出会いが無いという人の多くは、実状的にはそうではないらしいという話も聞いたのである。出会いが無いということを正確に翻訳すると、いわゆる自分自身が恋としてときめかない、であるとか、この人に運命を感じない、ということが大半であるというのだ。そうしてそういう気分が生まれる最大の原因は、過剰な出会いの場がその人にはあるという環境にあるのだ、ということだった。いくらでも代わりがいる人には、誰が一番適当かなんてことは逆に見えづらくなってしまうらしい。
 ちょっと意味が分かりにくい人もいるかもしれないが、例えるならば、山男ならどうか。いわゆる山に登るような男が下山していると、最初に会う女性に容易に恋に落ちるという話がある。いわゆる長時間の欠乏があって、最初に女の人を目にするだけで、感動のようなことをしてしまうらしい。
 要するに、本当に出会いが少ないような人というのは、普通に考えると、少ない機会であっても、その貴重な少ない機会に、あんがいそれなりに対応して運命を感じたり、恋に落ちたりしやすくなる方が自然だというのだ。そういう機会さえまったくなかったというような人が絶対にいないとは言えないまでも、多くの場合は道行く対象者くらいは目にする機会くらいは誰にでもある。本当に出会いの無い人だと、コンビニの店員さんが笑顔でお釣りを渡してくれるだけでも特殊な運命を感じてしまうという話もあるではないか。実はそういう機会が多いからこそ、特に自分の相手であるという認識が鈍くなってしまい、出会いさえ感じなくなってしまうということのであるらしい。機会が過剰であるからこそ、出会いが無いという感想を持つに至るということになる。
 なんというのかは忘れてしまったが、これは哲学的にも経済学的にも既に立証済みの概念なんだそうだ。学問というのも、妙な研究をするものである。
 まあそういうことなんで、出会いのないと感じる人は、一人で山にでも登るというのが正しい自分の磨き方ということになるのかもしれない。これだけ人間が増えた社会である。孤独になるような機会というのは、自ら抜け出さない限り達成の不可能な領域になっているのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする