カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

もう少し客の感受性を信用しよう   バーレスク

2015-07-25 | 映画

バーレスク/スティーブ・アンティン監督

 こういうのを見ていると、いわゆる女の人の裸(これはダンサーだから厳密にヌードではないけれど)に対するエロの感覚というのは、東洋のそれとはずいぶん違うのではないかということだ。あちらの女性の体形が大仰というのは最初にあるが、見せ方がドカーンという感じで、力強い。歌舞伎で見栄を切って、どうだ!という見せ方している。悪いということではないのだろうけれど、それってエロなんだろうか?という感じかもしれない。いや、明確にエロを売っていることは分かるのであるが、それが僕にはエロには見えないという感じかもしれない。歌やダンスは素晴らしいけれど、まあ、それは彼らのものなんだよな、という冷めていく感じがあるということだ。一種の頂点にあるというエンタティメントなんだろうが、そういうエロさ加減がそんなに美しくは感じないということなんだろう。同じような西洋であっても、ヨーロッパのバレエのような肉体美というのであれば、分からないなりに感心したりもするんだけれど、米国の夜のダンサーというのは、パワーの方が強すぎて、滋養強壮剤と麻薬とウイスキーでなければ正気でいられないような戸惑いを感じる。そういうものなんだということだが、すでに酔っぱらってへべれけだ、という終焉を迎えるより無いではないか。
 さらに映画的に演技があるわけだが、お約束のわざとらしさが鼻をつくというのがある。どう考えても登場してからすぐに誰がヒロインとはっきり分かるコントラストがありながら、周りの人間がちっとも理解しようとしない。一部の人間を除いて。そうして偶然のチャンスが巡ってきて、皆がびっくりするという感じだ。おいおい、お前らは本当にプロだったのか? という突込みがどうしても入ってしまう。これほどの実力差がありながら、むしろ素人的に明確でありながら、プロの方が素人よりも数段感受性が低い。そういう物語なんだから仕方がないにせよ、もう少しそれらの必然が微妙な差で分かるように考えるのが演出というものではなかろうか。サクセスストーリーでありながら、これでは最初から実力がある人間が、圧倒的すぎる力をただ発揮できなかっただけの時間の経過にしか見えないのである。分かり切っていることを遠回りしていくことより、何かそれなりの知恵なり努力なりで乗り切る道を見たいということなんではなかろうか。そうすると平均的な米国人には意味が分からなくなるという懸念があるのかもしれないけれど、やはりそれは自国民を蔑みすぎる行為なのではなかろうか。
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