おとなのけんか/ロマン・ポランスキー監督
子供同士でちょっとした喧嘩のようなことがあり、一方が怪我をしてしまった。それで加害者の方が被害者の家に出向いて謝罪するという場面。実にその一点のみの物語。
通り一遍の謝罪と受入れが済んだように見えて、謝罪側の父親が忙しい人らしく、携帯電話がしょっちゅう鳴っている。なんだか不穏な空気である。実は形だけの謝罪であって、そんなに大きな事とはとらえていないことが見え見えなのである。そこでやはり被害者の方はそれがどうにも引っかかる。寛大であるという態度を見せながら、しかしもう少し何とかならないか。加害者側の母親だって、この忙しい夫に何か不満がありそうだ。帰る帰らないで、どんどんこの二組の夫婦の内情がさらされていき、ついには酒を飲みかわして本格的な喧嘩に発展していくのである。
子供を持つというのは、このようなリスクがある。加害者にも被害者にもなりうる。事実そのような覚えがあるようだ。謝罪の時はできうる限り理解してもらいたいと思うが、受け入れが大柄すぎるということも経験がある。不快さが残ってなんだか気分がわるいということもある。さらに被害を受ける場合も、やはり相手が軽いと、いったい何しに来たのだ、という怒りも沸く。たかが子供のことかもしれないが、それは分かっていても、お互い様でありながら、大人同士の付き合いがそもそもあんまりなければ、気持ちの伝わり具合がどうにも上手くいかないものである。いっそのこと保険か何かで、事務的にすんなり済ませられないだろうか。今は交通事故なんかが、結局そういう様相を呈しているという感じだ。程度が軽い場合の方が、かえってそれなりにこじれそうにも思われる。軽いといっても跡が残るような怪我だってある。そういうものは、表面以外にも傷が入っている。わだかまりというのは、やはり厄介なのだ。
映画の方は、事態がどんどん悪くなっていく感じがある。敵味方も時々入れ替わる。実際の被害も発生して、それでもしつこく喧嘩は続く。もともと何の話だっけ? 当事者たちだってそんな気分になるのではないか。この場合は謝る側と受ける側がそもそもはっきりしているはずだ。しかし被害者の方は、結果的にもっと被害をひどく受けているようにも見える。日本人の感覚からすると、いささかバランスが悪い。恐らくそれは、客を受ける側とも連動しているせいもあるのかもしれない。ホームに受け入れる側のマナーが、日本の場合と少し違うのだろう。主導権がありながら、自ら傷口を広げるネタを提供している。そうして相手はそれを受けて、それなりに最悪な形で失態をやらかす。また謝らなければならないのに、被害が広がってますます謝罪の受け入れが難しくなるのだろう。
妙な話だが、これがそれなりに面白い。ちょっとしつこいことになってしまって、お互いにうんざりして、しかしそう簡単に離れられない仲になってしまう。もうどの程度どちらの方が悪かったのかさえよく分からない。しかし喧嘩はまだ終わったわけではない。そういう途方のくれ方が、シニカルな笑いになっている。人間は容易には懲りない。たとえそれが子供の喧嘩であっても。しかし彼らはもう懲りたのではないか。これだけ長く喧嘩をすると、やはりそういう達観に達するという気もする。そうでなければ、また続きをやるしかないのである。