カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

鏡の前に立って見てみると   サラダ好きのライオン

2012-09-03 | 読書
サラダ好きのライオン/村上春樹著(マガジンハウス)

 村上春樹と言えば中高生の頃から読んでいるので、もうかなりの付き合いだ。いつの間にか僕も相対的に年をとるので、慣性で読んでいる部分はあるにせよ、感じ方はそれなりに変化している。やっぱり構成的に上手いなあ、と唸らされる時もあるけれど、この世代特有の無責任というか、鼻につく部分もある訳だ。アンチ・ハルキファンというがあって、というか、そもそもこれがたまらなく嫌だという人たちが一定数居るのも、ファンである僕としても、理解はできるところだ。多くの場合無視しているだけなので、日本の大きな賞とは無縁な国際的な作家が生まれてしまったのかもしれないとさえ思っている。
 ただしかし、やはりこれは日本語の問題でもあって、この微妙なニュアンスを理解できる私たちネイティブな日本語の使い手たちだからこそ、このような反応が生まれてしまうのではなかろうかと思われる。平たく言うと微妙にわざとらしいのだけど、どこか萩本欽一のような同意の世界があるのだけど、いい時はそれがいいのは確かで、決定的にファンンを分けてしまうのかもしれない。
 もっとも僕は欽ちゃんは個人的に嫌いな人じゃないけれど、面白くは無いと思う。村上さんは面白いけど、部分的に鼻につくだけで、あの世代的に仕方無いと許容している。それに昔はそれが良かったという自分自身の気恥ずかしさも同時に持っており、やはり自分の中の血になっていることは間違いなかろう。誰にだってそういう後ろめたいようなところはあって、村上春樹はそのような自分の鏡の様なところがあって、やはり静かに楽しみたいというのはあるのかもしれない。

 ところでこのエッセイで、村上さんは運転中に歯を磨いたり(信号待ちと言っているが、ちと怪しい)することが暴露されていて、ファンサービス(なのか)もしっかりあるお得版という気もする。読書家ウンチクもそれなりにあって、しばらくは居酒屋さんなんかで、誰かからも聞くことになるんじゃなかろうか(それだけ影響力は大きいもんね)。後はまあ、焼き増しみたいなところもあるけど、同じ人間が書き続ける限りそんなことはどんな作家にもあることなので、アイディンティティとして仕方のないことだ。むしろそのような生活を頑なに守っているようなところがあるようで、人はライフステージにおいて変化する方が自然だから、むしろ村上さんは、あんまり生活を変えない人らしい事が見てとれる。
 さっきは鏡と言ったけれど、総体的に僕の方はずいぶん変わってしまったものだなあと、感慨深くさえ思えた。実際に年齢が追いつくことなんてないのだけど、昔はずいぶん年上のお兄さんだと思っていた人が、なんだかもうすぐ僕もそのようになってしまうお爺さん手前の人になったな、と思う訳だ。前にも書いたけれど、愚作でいいから書き飛ばしてくれたらいいのにな、と願っているところである。
コメント
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