カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

恥の文化の生まれるところ

2012-09-30 | culture

 日本は恥の文化と言われた過去があるが、これはもともと日本特有の文化であるとは言えない。恥の文化と言い出したら、韓国の「恨」の方がすさまじいともいえる。ロンドン・オリンピックでは、中国人選手が金メダルではなく銀や銅であることに、国に対して申し訳ないといって泣いている姿に西洋社会が驚いたという話もある。いい記録であることに変わりが無いし、個人がそのような感情を抱くことに違和感を覚えるということだろう。しかしながら、そんなことを言うとメダルの数に比例して金が少ないと批判の多かった日本はどうなるのだろう。それが悪いことだという批評も多かったはずである。
 それではこのような恥の文化はアジア特有のものかというと、特にそんなことは無い。実はアメリカだってヨーロッパだってそのような風潮はあるのであって、特にスポーツ界ではそのような国民的な激しいバッシングを受ける場合も多々あるようだ。オリンピックはむしろ個人競技が多いので、そのような国民的な感情を喚起しにくいということもいえそうで、サッカーのワールドカップでは、平気で戦犯・国賊扱いを受ける場合が多いようである。日本のメディアなどは、そのような風潮こそ選手を強くするなどというような事を平気で言ったりしている。そんな感情を見習えというのは、かなりスジ違いだとは思うが、興奮した頭には分かりづらいものかもしれない。
 実は昨日のボルト選手の続きなのだが、ボルト選手自身が強くありたいというモチベーションには、この恥の感情が強くあるように思えるのだ。ボルト選手はその圧倒的強さゆえに国民的に厚い期待を集めている。しかしながらその過去のレースにおいては、怪我のためにレースで思うような活躍ができなかったり、フライングで失格になったりするなど、大きく期待を裏切る事をしてきている。ジャマイカ・メディアも容赦が無く、生き恥であるとか、死んだ方がましであるとか、そのような結果に陥るボルトを激しくなじるのである。もともと内気なところのあるボルトくんは、そのことに激しく傷つきナーバスになってしまったようだ。そうしてそのようなバッシングを受けないためには、本当に歴史に残る王者となり、誰にも文句を言わせたくないというモチベーションに転嫁させているところがあるようなのだ。激しいトレーニングに耐えきる精神力は、そのような高い目標に向かえる闘争心で、そしてその原動力は、激しいバッシングを受ける恥の感情なのかもしれないのだ。
 日本においては、メダルの取れなかったオリンピック選手は、まったく無視されるような扱いを受ける。もちろん期待を集めた選手においては多少の違いはあるかもしれないが、少なくとも公的メディアにおいて「恥さらし」となじられることは、考えにくくなっているだろう。恥の文化といわれるものは、曲がりなりにも表面的には、かなり薄くなった考え方になりつつあるようだ。
 考えてみると恥という感情の多くは、対面的な立場において生じる可能性が高いものだ。一方が恥であるという感情を抱くということ自体は、本来的には文化とはあまり関係が無いのかもしれない。考えつく形容としては、一族の恥であるとか、一家であるとか、そして国の、というような属性に対して抱かれるものらしい。国のためなどに何かをしなくてはならない個人に、恥の文化は芽生えるものらしい。
 誰かのために頑張ることは、あんがい尊い事でも何でもないのかもしれないとも思う。なまじ変な期待などもたれない人生は、張り合いは無いかもしれないが、それなりに平和なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする