議論のルールブック/岩田宗之著(新潮新書)
日本人は議論に向かないという話は方々で聞かされてきたことである。それが本当かどうかはよく知らないのだけど、中国人の議論上手は現地では感じていた。一見とんでもないような事でも、堂々と発言する姿は、ある意味では呆れもするが、またある意味では羨ましくもあった。またテレビなどでしか知らないけど、米国人の屁理屈もそれなりに立派に見える。聞いて居る方が赤面してしまうような事も、かなり図々しく主張出来て動じない。偉いというかどこかに行って欲しかったりはするけど。
そうではあるが、ネットのことである。これは国際的にどうなのかはやはりよく知らないが、日本人の言論の幼稚さにはとにかくびっくりした。もちろん自分は棚に上げている。面白がって炎上も見てみるが、幼稚を越えて見苦しい。右翼も左翼もあったもんでは無く、単にレベルがどんどん下がっていく。もちろんそれが楽しいのだろう。そうして残酷な文字の羅列が、ネット上に刻印されている感じだ。本当に残ると後世に残念という妙な記念碑が増えているように思う。もちろんそれが日本人なのかどうか、議論の余地はあろうと思うが。
議論が下手だと思うのは、年配の先輩方にはもともと感じてはいた。最初から喧嘩腰、もしくは気合の入り過ぎ。声が大きく粘り腰だと、本当にあいつの本気が見える、などというような同調の声が後で上がったりして、さらにびっくりする。なんというレベルの低さ。これが本当に議論なのだろうか。
会議が終わって、根回しが足りないよ、と何度言われたことか。もちろん今は意味が分かるが、それが議論と関係無いからしなかっただけなんだけどね。もちろん撃沈してばかりで面白くないので、最小限は見習うほど僕も堕落する訳だが。
原因は分かっている。日本人は発言者の人格を見ているのだ。内容はその人格とイコールとまでは言わないが、ある程度は連動していると考える。人格者でも間違った考え方の人もいるし失言もする。それが当たり前だという想像力が働いていない。そもそも発言の内容こそが大切なのは論を待たない訳だが、その当たり前のことが、現実には理解されているとは到底思えない。
本書にもあるのだが、そもそも論で言うと、議論のルールを求めるという考え方にも問題はある。ルールなき議論があっても議論は可能なのであって、そのジャッジをよそに求めている心情がさらに情けない。しかしそうあるべきだと考えている人が少なからずいて、それがまっとうだとさえ信じても居るのだろう。ルールを決める前に自分の意見を闘わせよう。それが何より第一歩のはずなのだ。第一なんで勝つことを前提に闘わなくてはならないか。議論は勝つより前に、やはり自分の考え方であるはずだ。それを相手がどう思うか。それは聞いてみなくちゃ分からないだろう。それはお互い様でもあって、自分だって相手の意見を聞けるのだろうか。ルールというのはつまるところそういうことなのだろう。
さてしかし日本人は議論が下手か。どのような数値化が可能かは分からないが、やはり経験的には下手なような気がする。それが僕の印象であり意見だ。何故なら論点を議論するより背景に終始する人が多いように感じるから。それが好きなら仕方が無いが、やはり黙ってサッポロビールの国なんだろう。いや、既にそれも過去ではあるが、黙っていた方が尊敬されたりしてしまう。
うるさい人に任せていいか。そういう疑問には確かに説得力はある。議論上手が怪しいのは、結局困ったことかもしれない。