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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

黙ってても分からないのだけど   議論のルールブック

2012-09-15 | 読書

議論のルールブック/岩田宗之著(新潮新書)

 日本人は議論に向かないという話は方々で聞かされてきたことである。それが本当かどうかはよく知らないのだけど、中国人の議論上手は現地では感じていた。一見とんでもないような事でも、堂々と発言する姿は、ある意味では呆れもするが、またある意味では羨ましくもあった。またテレビなどでしか知らないけど、米国人の屁理屈もそれなりに立派に見える。聞いて居る方が赤面してしまうような事も、かなり図々しく主張出来て動じない。偉いというかどこかに行って欲しかったりはするけど。
 そうではあるが、ネットのことである。これは国際的にどうなのかはやはりよく知らないが、日本人の言論の幼稚さにはとにかくびっくりした。もちろん自分は棚に上げている。面白がって炎上も見てみるが、幼稚を越えて見苦しい。右翼も左翼もあったもんでは無く、単にレベルがどんどん下がっていく。もちろんそれが楽しいのだろう。そうして残酷な文字の羅列が、ネット上に刻印されている感じだ。本当に残ると後世に残念という妙な記念碑が増えているように思う。もちろんそれが日本人なのかどうか、議論の余地はあろうと思うが。
 議論が下手だと思うのは、年配の先輩方にはもともと感じてはいた。最初から喧嘩腰、もしくは気合の入り過ぎ。声が大きく粘り腰だと、本当にあいつの本気が見える、などというような同調の声が後で上がったりして、さらにびっくりする。なんというレベルの低さ。これが本当に議論なのだろうか。
 会議が終わって、根回しが足りないよ、と何度言われたことか。もちろん今は意味が分かるが、それが議論と関係無いからしなかっただけなんだけどね。もちろん撃沈してばかりで面白くないので、最小限は見習うほど僕も堕落する訳だが。
 原因は分かっている。日本人は発言者の人格を見ているのだ。内容はその人格とイコールとまでは言わないが、ある程度は連動していると考える。人格者でも間違った考え方の人もいるし失言もする。それが当たり前だという想像力が働いていない。そもそも発言の内容こそが大切なのは論を待たない訳だが、その当たり前のことが、現実には理解されているとは到底思えない。
 本書にもあるのだが、そもそも論で言うと、議論のルールを求めるという考え方にも問題はある。ルールなき議論があっても議論は可能なのであって、そのジャッジをよそに求めている心情がさらに情けない。しかしそうあるべきだと考えている人が少なからずいて、それがまっとうだとさえ信じても居るのだろう。ルールを決める前に自分の意見を闘わせよう。それが何より第一歩のはずなのだ。第一なんで勝つことを前提に闘わなくてはならないか。議論は勝つより前に、やはり自分の考え方であるはずだ。それを相手がどう思うか。それは聞いてみなくちゃ分からないだろう。それはお互い様でもあって、自分だって相手の意見を聞けるのだろうか。ルールというのはつまるところそういうことなのだろう。
 さてしかし日本人は議論が下手か。どのような数値化が可能かは分からないが、やはり経験的には下手なような気がする。それが僕の印象であり意見だ。何故なら論点を議論するより背景に終始する人が多いように感じるから。それが好きなら仕方が無いが、やはり黙ってサッポロビールの国なんだろう。いや、既にそれも過去ではあるが、黙っていた方が尊敬されたりしてしまう。
 うるさい人に任せていいか。そういう疑問には確かに説得力はある。議論上手が怪しいのは、結局困ったことかもしれない。
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想像以上に酷く、しかし感心してしまう   トランスフォーマー

2012-09-14 | 映画
トランスフォーマー/マイケル・ベイ監督

 脚本や演出は驚くほど陳腐で観ていて恥ずかしくなる程だが、しかしこの映画の魅力はそこでは無いので我慢してみるとやはり凄い映画という変な映画。なんと言うか本能的に興奮する要素(たぶん男の子)がふんだんにあって、日曜の朝についつい早起きしてしまう事を思い出すような映画だ。親にとっては迷惑なロボットもの(さらにオモチャまで買わされてしまいそうだし)なんだけど、そのロボットが車やらヘリコプターやら戦車などに変形するCG映像は、本当に官能的でさえある。戦うのを期待するものの、壊れてしまうのが敵味方かまわず本当に惜しい気がする。出来れば両方不死身でどんどん変形を続けて欲しいと願うほどなのだ。
 おそらくその陰で人間は虫けらのごとく殺されている訳なんだけど、そのような命の尊厳なんて微塵も無くて、さらに911を彷彿とさせられるようなきわどい演出なんかもみられた。それが見所で開き直っているのだろうけど、やり過ぎてかえって考えさせられないというということなのだろう。馬鹿でも行き過ぎると崇高になるように、過剰で馬鹿なところがこの映画のいいところなのだろう。何の教訓も得られないし、まさかこの映画で学ぶべきことを見出すような人間は生まれえようがないのだけど、有害なものこそ娯楽としては魅力的だということもあるので、子供や大人は呆れながら楽しんでしまうに違いないのである。永遠と過剰でお腹いっぱいになったけれど、ストーリーはまったくどうでもよく映像美に酔ってしまったという感じだった。というかこのストーリーや価値観は、はっきりって唾棄すべき酷いものだ。ほんとに。
 演出的にわざとらしすぎてなんども何度もイライラさせられるのだけど、そういう後に派手なアクションが繰り返しあることがかえってカタルシスになるということも狙いとしてあるのかもと勘繰っては見たが、恐らく考え違いだろう。しかしながら出てくる人の考え方がことごとく変なので、頭は混乱はするものの、どこか違う惑星の違う生物の人間によく似た人たちの物語だという感じにはなるので、それもかえっていいのかもしれないとは思った。スペイン語を話す同志に苦言をいう兵士が居る癖に、宇宙人は普通に英語を話すという愛嬌も、誰も気にならなかったのだろうか。誰が何のためにどうして戦っているのかもよく分からないし、脅威となっている強さの強弱が場面場面においてぜんぜん違うように感じることもかなり混乱した。要所要所はジョン・ボイトやジョン・タトゥーロのような変な個性派俳優が出てくることでバランスを取っているようだった。彼らが楽しんでいる風だから、まあ、これもいいのだろうと了解せよという符号なのだろう。
 映画として酷いものであっても、やはり楽しむ方法はある。だいたいそのような前科のたくさんある監督さんだということを知っておきながらやはり観たくなるということが、彼らの商売の術中なのであって、それに負けてしまったのはやはり僕自身なのだ。あえて完敗したということを認めようではないか。たぶん続編だっていつかは観てしまうのだろう。その時も後悔はしても、やはり楽しめるのかもしれないと期待はしてしまうに違いない。それが映画であるということも言えて、やめられない業のようなものなのだろう。

付記:それにしても飛んでるヘリコプターの多くはオスプレイだったね。既にこの当時から標準配置という感じなんだろうか。
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確認が多すぎて大変である   軽蔑

2012-09-13 | 映画

軽蔑/ジャン=リュック・ゴダール監督

 ほとんどブリジット・バルドーは脱いでいる状態というような映画。以前(僕より先輩のオジサン達からその魅力を聞かされてきた世代なのだ。何しろ古い話だから僕はほとんど知らなかった)彼女が人気があったのが改めて理解できた。ちょっととんがっているけど(役柄として)本当に美しい肢体である。でもまあ映画の撮り方というか、そんな感じでぜんぜんエロでは無いところが偉いと言えば偉い。これが芸術的な視点ということなんだろう。まあ日本人の女性じゃないからということもあるのかもしれないけど、まるで肉感のある彫刻作品を眺めているという感じだろうか。まさかその為だけに撮られた映画では無いとはいえ、実際はその為だけの映画としても成り立つんではなかろうか。
 それにしても一般のフランス人のカップルは、ほんとにこんな会話ばかりしているのだろうか。まあ付き合いだした若いカップルなら少しくらいは分からんではないのだけど、いつまでもいつまでもどこが好きだとか本当に愛しているだとか確認ばかりでまったくもって煩わしい。かと言ってそういう会話を楽しんでいたのもつかの間、一気に危機に突入してしまう。そりゃあそんなにしつこく確認ばかりしてたら仕方ないというか当たり前じゃないかという気が僕にはするが、実際はそういうことじゃなくて、それなりに事件がある訳だ。男には仕事上の下心というか、対面的な余裕を他人には見せたくなるような見栄のようなものがあったのかもしれない。そういう態度に彼女の方は一気に嫌気がさして、そうしてそのような男の不実を「軽蔑」したということなのだろう。
 まあ、そういう見方をするとして、しかし彼女を誘惑するアメリカ人も大胆というか、とにかく金は持ってるし傲慢でもいいんだもんね、というような開き直りと素直さがある訳で、彼女の方にも思わせぶりのような気分はあっただろうにせよ、やはり裏切ってしまう訳だ。それも仕方なしという感じで。男の態度が決定的に悪かったということになっているのだけど、これって強引に合理的な理由を探しているようにも見えないでは無い。もともともっといい人が居れば移り気でもよかったような女だったのではないか。もちろん映画はそのような文法で語られている訳ではないのだけど、普通はそんなような人じゃ無ければこんな結果にはならないと思う。
 いろいろと衰退する物事の比喩として表現がされている問題なのかもしれない。今の日本だと、中国人の男に奥さんを寝とられるという感じだろうか。まあ少し違うかもしれないが、フランスやイタリアの映画はそのようにハリウッドの後塵を拝しているということになるんだろうか。よく分からないけど、それで何の問題も無いように思うのは、そのような考え方こそ「軽蔑」に値するということを感じているのかもしれない。もちろんどこの国の人間だって、寝とられたら頭には来るんだろうけどね。
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居眠り防止あれこれ

2012-09-12 | 雑記

 長男の勉強合宿の時、眠気と戦う話になった。
 教頭先生は息を極限まで止めて眠気を払ったという体験をお話になっていた。机の前でできることと言ったら、確かにそれくらいかもしれない。しかし苦しくなっても、また眠くなるもので、これは繰り返し目を白黒させなければならない苦行のようにも思った。
 一般的には手の甲をつねる(他の部位でもかまわないが)というのがあるようだ。シャープペンや安全ピンなどで体を刺すというのもある。痛みで目覚めるのはある程度は効果がある。やはり問題はどこまで持続力可能かという感じだろう。あちこち刺し傷を作ると、いじめ問題の誤解など、二次的な厄介事も起こりそうだ。
 席を立てない状況でどうするかということなので対処方は限られているが、まわりの人に迷惑をかけていいのなら選択は増えそうな気がする。
 思いきって先生に質問するという手もあると思う。いきなりな何だろうというのもあるが、その際に立ちあがることができるとさらに効果があるだろう。窓際の花瓶がカーテンに掛かって落ちそうだとか、そんなことでもいいのではないか。
 僕は授業中でもかまわず寝てた方だからあんまり対処法は知らないのだけど、目覚めた経験としては、ものを落とした時なんかがあるような気がする。消しゴムがコロコロ転がっていくと慌てて目覚めたりする。机の上の教科書とか辞書とかがドサッと落ちると、こちらもビクッとして眠気が飛ぶこともある。周りの人間がしでかしても一定の効果があったようで、人助けになる可能性もあろう。
 昼寝をするとき、手にスプーンのような金物を持って、地べたにお皿などを置いておく。ソファーでも椅子でもかまわないが、その上でものを持った手をだらりと下げた姿勢で思いきって寝てしまう。完全に寝てしまうと握力が緩んでスプーンを皿の上に落してしまう。その音に驚いて眠気は一気に覚めてしまうだろう。ちょっと休憩の昼寝とは、その程度でいいらしい。
 僕は中学生の頃に新聞配達をしていて、新聞を配りながらその自転車をこぎながら合い間合い間に寝ていたりした。本当に器用だったと思うのだけど、決まったコースなので寝ていてもある程度何とかなるようだった。そのように決まりきった事だと寝てしまうということもあるようなので、何かいつもと違うことをするというのは目覚めるきっかけになるような気がする。勉強しなきゃと思うから眠いのなら、勉強以外の事をすると何とかなるのではないか。
 という訳でどんどん何の目的だか分からなくなってしまったのでやめておくが、なんかいい方法があると言うなら教えてください。まだまだ学校とかかわりある事になっているので、今度の参考としたします。
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細かく分けると原初的な感情が込み上げるらしいこと

2012-09-11 | culture

 運動会と文化祭の打ち上げ飲み会に参加する。訳あって(というかそれなりに皆さん知っておられますよね)運動会は観ることが叶わなかったが、文化祭はそれなりに楽しんだ。高校生っていろいろ盛り上がっていいですね。今更羨ましいとまでは思わないけど、僕らの時代のようにヒネてない素直な感動があって、率直に面白かったですね。生徒たちが総立ちで踊るフィナーレって、漫画的に楽しかった。

 昭和初期の運動会の話で、以前は特に出身(といういい方をされていたのでそのまま引用する)対抗の意識が強くて、その代表として走るときには本当に精神的に命がけでやったものだということだった。もちろん大変に盛りあがったそうだ。今はそのような区切りといのは自然消滅してしまったようにも見えるが、やはりどこどこ出身かということは時折話題にはなり、そういう話を聞くと、同じ出身者の子供には肩入れしたくなるというような事も話されていた。いや、僕にも多少は共感として理解はできるのだが、まあ、最初からあんまりそういう枠の中に生活してなかった習慣の方が長いので、昔話なんだろうな、という感覚の方が強い(これは僕個人の極めて極端な特殊性だろう)。しかしながら、やはりそのような感情というのは、人間の原初的な、本能のようなものがあるのかも分からない。面白いけど、厄介でもある訳だ。
 アフガニスタンには7000mを超えるノシャック山という山がある。これまでこの山の登頂にアフガニスタン人が成功したことは無かったのだという。そのような初登頂を成し遂げることで、アフガニスタンの国民そのものの夢を成し遂げる偉業のようにも捉えられることとしてチャレンジするドキュメンタリーがあった。しかしながら、実際にトライするキャンプ地において、突然許可が滞るような事態にもなる場面があった。どうも政治的な背景があるらしい。そしてそのような背景の真相は、登頂するメンバーの民族の違いらしいということだった。アフガニスタン人であるのは確かだが、現在政治支配している部族の出身者では無いというのだ。アフガニスタン初の偉業が他の部族の栄誉になるのが面白くないのだろうという話だった。
 結局は登頂は成功することになるのだが、このような感情はなかなか厄介だ。大枠では仲間であるはずのものが、細かく分けると反目する原因になってしまう。狭い見方だと笑うこともできようが、しかしこれは本能的な割り切れない感情であるらしいこともまた真実だろう。
 運動会などのように人々が競うことのカタルシスは、ある意味で代理戦争の意味があるということも言われていることである。オリンピックやサッカーもそうだろうし、日本の高校野球などもそうなのだろう。だから根源的に面白く熱の入った真からの応援があるのだとは思うのだが、それだけを利用するというのは、やはり厄介の根源のような気がする。ましてやこれを政治利用する人も居る訳で、話はどんどん厄介になる訳だ。
 まあ、飲んだ席でのささやかな話題程度で納めるくらいが適当な文化ということに過ぎないのかもしれないが、その厄介さという自覚の無さは、さらに人間生活を生きにくくしているように思うのだった。だからその分僕の楽しみは、多くの人より少ないのかもしれないのだけれど…。
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相撲は海を渡るのだ

2012-09-10 | culture

 相撲の欧州選手権の様子を伝えるドキュメンタリーを見た。欧州とはいえ東欧ロシア圏が中心のようで、開催国はウクライナ。
 これがめっぽう面白かった。多少あやしいところもあるのだが、本当に盛り上がっていて、日本の相撲に憧れながら、真摯に相撲に取り組む人々の姿が描かれていて、実に感動的だった。東欧ではもともとレスリングも盛んなようで、格闘技に対する興味も高いようだった。力強い者への素直な憧れと、闘うことの楽しさをストレートに表わしているようだった。日本の格式に対するオリエンタリズムへの憧憬というのも混ざっており、精神的な礼儀も含めて、相撲という格闘技がしっかりと浸透しているという感じがした。取り入れ方については多少の誤解のあるのは確かだが、本当に一所懸命になって指導したり取り組んだりしている姿が紹介されていた。
 元貴ノ浪の春日山親方がレポートがてら思わず指導するのだが、ものすごく熱心に質問をたたみかけてくる。相撲の技術を習得したいというあふれんばかりの気持ちが画面を通して熱く伝わってくる。大人も子供も相撲が楽しくって仕方無いという感じだ。いくら相撲が盛んになっているとはいえ、もともとはレスリングの選手だったり他の格闘技の選手だったりする人ばかりで、本当に見よう見まねで相撲を取っており、親方のちょっとした指導を受けて、本当に感動しながら(感心しているのが分かる)技を吸収しようとしているのが分かるのだ。春日山親方自身もどんどん熱が入っていくようだった。指導するのにお金はいらないというようなことも言っていた。皆の相撲に真摯に取り組むその気持ちが、素直に嬉しいようだった。
 実際の競技も面白かったのだが、人々の相撲に対する素直な興味が、何より見ているものをも突き動かすような熱いものを呼び起こされるのだった。東欧諸国というのは近代の歴史的な背景もあって、日本には比較的なじみの無い国々が多いと思うのだが、これらの国々が相撲を通して、日本についても非常に親しい感情を持っているらしいことも伝わって来た。相撲のような格闘技を生んだ国に素直に憧憬を持っているようなのだ。その背景の一つに大鵬の父親がウクライナ人だったということもあったようで、大鵬という存在はウクライナの精神的な英雄でもあるようだった。日本の偉大なグランド・チャンピオンとして君臨した人間にウクライナの血があることが誇りとなっているのだ。
 日本の大相撲では外国人力士の隆盛の時である。モンゴル人のみならず、ヨーロッパ勢の力士の活躍は周知のとおりである。その情勢をかんがみて面白くないと考えている日本人も多いこととは思うのだが、そのような狭量な考え方で大相撲を考えることは、かえってマイナスの面が大きいのではないかと僕は考えている。相撲の対する憧憬の強い人々がいる限り、聖地である日本の大相撲を目指す人間が増えていくのも当然の話である。そのような中にあって、強い外国人力士が増えるのは、また至極当然のことなのである。もちろん日本人にも頑張ってほしいという気持ちは心情的にはよく分かるのだが、だからと言ってそのような流れを排除するような保守的な考えこそ、大相撲をいう宝そのものを、将来的には損なわせることになっていくのではあるまいか。
 柔道とJYUDOUはすでに違うものだという議論がある。僕もそのような感じを持ってはいる。相撲とSUMOはやはり違うところがたくさんありそうだ。それはやはり当然のようにも思う。しかし、だからJYUDOUやSUMOが日本には意味が無かったり害があったりするものなのだろうか。確かに弊害のある面がまったくないとはいえないまでも、しかし出発点は柔道だったり相撲だったりしているのは間違いのない事実だ。そのことの意味や素晴らしさがあってこそ、海を渡って人々の心をつかんでいることを、もう少し日本人は想像してみてもいいのではないか。野球少年がメジャーリーガーを目指したり、サッカー少年がヨーロッパを目指していても、日本では何の違和感も持たないだろうし、ましてや受け入れる米国や欧州はどうなのだろう。彼らにも愛国心はあるし、自国出身の選手を応援する心は持っているだろう。確かに成り立ちや背景には大きな違いがあれど、国境を超える人間の気持ちまでも政治的に排除するような心持が実際に行われることの方が、何より罪深いことなのではないだろうか。
 ともかく欧州の相撲熱は本物らしいことが分かった。多くの人に日本の大相撲を見たり体験できたりすることが叶えば、またもっと面白いことが起こるのではないだろうか。そのような人間の精神的な熱さこそ、もっと大切にしたり守られたりするべきだと、改めて思わされたことだった。
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制止できない人

2012-09-09 | 雑記

 講演会で後一問くらい時間的に質問を受け付ける余裕があるな、という時に、特に誰も手をあげてなかったのだけど、何となく目が合う人がいて、「いかがですか」というとマイクを受け取ったので、そのまま発言をしてもらったのだけど、それから延々と8分ばかり自説をぶつとは思わなかったよ。いろいろ小さくジェスチャーで制止を促したつもりだけど、これがほんとに止まらない。小さい会で発言のマイクも僕が司会で使っていたのを使い回していて、言葉で制止するのがなんとも難しい。また、その発言の切れ目のなさもなかなか抜け目なくて、ものすごく割って入るタイミングが難しいのであった。まあ、結果的にはちょうど予定時間に終わるという奇跡もあって、皆さんその事件を何事も無かったようにスルーして帰ってしまわれた事が、なんだか不思議な余韻として心に残ったのでありました。おとなしそうなご婦人だったのだけど、いろいろご苦労されているのであろうなあ。
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子供に妖怪のありかを聞かれたらどうするか

2012-09-08 | HORROR

 先日子供達が妖怪を探して徘徊している番組があった。ゆとり教育はそんなことを許しているのか!ということではない。まあ、子供がうろうろするくらい、いいじゃないですか。
 子供たちが妖怪らしきものがいるようなところをウロウロするのだけれど、やはりなかなか妖怪は現れたりしない。仕方ないので道を尋ねるように大人たちに妖怪の在りかや、住んでいそうなところを聞いて回るのだが、誰一人として色よい答えを出してくれる人がいない。そりゃあ、当たり前といえばそうなのだけど、ついでに「妖怪なんて信じちゃいない」と自分の意見を言う人も多かった。
「どうして信じてないんですか?」と、問われると、
「だって、見たこと無いもんね」ということだった。現代人は正直だね。
 実を言うと僕は、妖怪は見たことは無いんだけど、信じているクチなんである。
 こんなことを言うと怪しまれるのは承知している。僕はオカルトの類はそんなに好きじゃないし、極めて合理的に物事を考えることと実存主義的な考えにも共感できる人間ではある。しかし、そうだからこそ、というべきか。人間がいる限り、妖怪というものがいる方が自然だという気がしているだけなのかもしれない。
 前に台湾の元総統である李登輝が(彼はクリスチャンらしい)、神様の存在は簡単に証明できる、と言っていた。「皆さんは愛の存在を確実に知っているし、感じているはずだ。神様の存在というのは、そのようなものだからだ(大意)」というのを読んでから、妙に納得したことがある。僕は神の存在はともかく(も、含めてというべきか)、すぐに思い出したのは妖怪の事だった。愛があるなら妖怪も居る。変な了解だとは思うものの、そんなようなものが世の中に居るのは当然ではないか。
 テレビの前でそんな説明をするのは野暮だし、子供に妙なことを教えるオトナという立ち位置を警戒した人もおられるのかもしれないのだけれど、見たこと無いから信じないというような大人が増えることは、かえって人間の幼児化が進んでいるせいだという気がしないではない。
 見たこと無いから信じないのであれば、地球は平べったくてもいいだろうし、自分中心に物事を捉えても何の問題も無い訳だ。そんなことを言っている訳ではないという反論も分かるけど、結局はそんなことと変わりは無い。
 だからといって妖怪を見たという人とお近づきになりたい訳ではないのであしからず。そういう配分というのは、なかなか難しい問題だね。
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人間の残酷さと逃亡の心理を味わう名作   笹まくら

2012-09-07 | 読書

笹まくら/丸谷才一著(新潮文庫)

 丸谷才一と言えば旧かな遣いの声の大きな人(実際の声は聞いたこと無いけど)という印象があるのだけど、確かに小説家だったな、という感じ。大御所だけど、どちらかといえば作家の顔より批評家の顔の方が大きいという感じがする。随筆はそれこそたくさん読んだことはあるようだけど、また翻訳以外の小説を読むのはこれが初めてかもしれない。
 戦争小説というのはズバリそのもの、戦争の悲惨さを描いたものがそれこそたくさんあるし、小説に限らず、映画の世界でも、その惨状を伝える秀作というのは数多い。逆説的に戦争を讃美するようなものであっても悲惨さが伝わるものであって、要するに人の殺し合いには、人は過剰に反応できるのが当たり前である。そのような物事を知っておいて生きるということに意味がある訳で、たとえそれを娯楽として読んだとしても、その人の糧になる題材である可能性は高いのだと思う。
 この小説は、確かに先の戦争を題材にしたものだけれど、いわゆる戦記ものとはまるで違う。戦場の悲惨さというより、軍隊の悲惨さというのは対比的によく出てくるのだけれど、それは主人公が徴兵忌避者として逃亡生活をしていたということで、当たり前だが本人の体験談としての戦場は一切描かれない。しかし、たとえ戦地に赴いて居ない人間にとっても、戦時中の悲惨さと臨場感は凄まじいものがあり、主にその心理面だけの世界でありながら、個人が戦争に巻き込まれるとどのような事になってしまうのかということが、克明に描かれている。戦争に至った理由はあるとは思うのだが、このような境遇に置かれなくてはならない若者という葛藤は、その時だけでなく、一生の傷を背負うのだということが痛いほどよく分かる物語になっている。
 現在と過去がランダムに錯綜して、しかしその主人公の心理世界は、見事に連動していて、違う時代に生きて活動していながら、置かれている危機感はいつも途切れることが無い。逃亡者としての生活が終わってサラリーマンの境遇に置かれてもなお、彼にとっての戦争はまだまだ終わることは無かったのである。
 考え過ぎじゃないかというような心理の駆け引きがどんどん展開されているものの、しかしそこには確からしい根拠もあって、大きな圧力のもとにありながら、個人の力ではどうにもならない葛藤を繰り返し味わうことになる。それは、実は自分が若いころに行った決断によって導かれている現実であって、しかしその罪とも言えない罪というのは、時代が導いた綾の様なものだったかもしれない。ある程度の考えのある若者なら誰もが考えた道をただ自分は選択したに過ぎなかったのだが、しかしそれで綱渡りのような危機を幾度も乗り越え、そしてある意味で勝利を掴んだはずだったのである。敗戦した日本にあって、少ない勝者であったはずの人間が、終戦後も実は戦争そのものを背負わされることに奇しくもなってしまう。人間の運というか業というか、選択したのは個人だとしても、その背負わされるものの大小は、あまりにも不公平にいびつに違うものであるようだ。
 直接この物語とはまったく関係の無い話なのだが、僕は読みながら何となくオウム事件の逃亡者たちの事を思いだしていた。もちろん最近の一連の逮捕劇の記憶がそうさせたのであろうけれど、境遇が同じとはいえないまでも、逃亡生活というものの姿というのは、徴兵忌避者のそれと、あんがい似ていることもあるのではないか。もっとも彼等は最後まで逃げおおせることはできなくて、最終的には捕まってしまった訳だが、それまでの逃亡生活というものにおいては、この小説の主人公のような葛藤があったのではあるまいか。
 僕ら逃亡生活をしていない人間にとっては、逃亡者がこのような心理になることは自業自得と考えるかもしれない。もちろんそうなのかもしれないのだけれど、個人的にある意味でその境遇にあって逃げられなかった人間という存在も、ひょっとすると居るのではあるまいか。その境遇に強引に巻き込んでしまう代表的なものが、それは戦争だった訳であるが、戦争を起こしてしまうのは人間社会の業のようなものであって、たとえそれが戦争というような具体的な形を取らない場合であっても、社会的に個人を捉えて、または巻き込んで、このような逃亡的な心理に取り込むような社会情勢が生まれないとも限らないのではないか。
 僕はそのような普通らしい人間社会を、心底恐ろしいと思った。それは戦争の恐ろしさであることも確かであるのだけど、身近な日本の社会の中に、平和になってもしっかりと根付いて居るらしいものであるように思うからだ。戦時中から戦後の話というだけでなく、このような日常は、現代社会にもちゃんと生きて残っているように思える。そうしてそういうものこそが、人間の持っている性質のようなものなのではあるまいか。まさにそのことに微塵も気付かない人間ばかりが集まって、個人の逃げ場をふさいでしまう。そのような世界を、地獄と呼んでもいいのではないだろうか。
 奇しくもきな臭い空気の漂っているご時世にあって、タイムリーに読まれるべき名作だと思われる。下手な反戦ものを読むより、この本を手に取るべきなのだと強く感じた次第である。
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儀式も必要な訳で

2012-09-06 | 音楽

 退院するに当たって自分の気分の高揚に合うような曲を聞きたいと考えた。病院に迎えに来てくれたつれあいの車からは、当たり前にツェッペリンで、それも「祭典の日」がかかっていた。これはこれでなかなかいいぞ、ということで帰宅にはふさわしい気分だった。
 外に出てみるとなんだか太陽がまぶしくて、しかしやはり心が晴れやかになる。実はそんなに退院を待ち焦がれていた訳でも無くて、曲がりなりにもそれなりに慣れてきちゃったよ、という気分が少しばかりはあったのだけど、やはりその太陽の力は素晴らしい。そんな思いが単なるやせ我慢だったことが自分でもよく分かった。余裕かましてまだ大丈夫みたいな気分になりたかっただけなのだろう。外の世界はそのような自分の内面をみるみる表に剥がして持ち上げてくれるような感じなのだった。
 さて家に帰ってみると、愛犬もよろこんで飛びかかってくる。僕がどこに行っていたか説明のしようが無かったから、やくざに帰ってこないだけだとでも思っていたのだろうか。いや、帰ってきたから興奮している訳だから、帰ってこない理由は考えていないかもしれない。いつも帰ってくると喜んでくれるのだけど、さらに数日という間隔があるせいか、もう少し興奮度が高いような気がするんだけど、まあ、それは僕の勘違いかもしれない。帰ってくるのが嬉しいのは僕も嬉しいが、しかし何かの期待もあるに違いない。おやつをやって、まだ散歩には日が高いからな。しかし歩くには少し不安だ。期待にこたえられる帰還では無いかもしれないよ。
 家に帰ると子供たちの手前もあるから、大音量で音楽をかける訳にもいかない。そう言えば近所に寄るところがあったりするし、外に出るなら自分の車で何か聞いてみようと思った。
 エンジンを掛けたら流れてきたのはニール・ヤング。おいらも相変わらず古い人間だよ。その後の曲はスミスだった。車の中にあるCDを物色してみると、ちあきなおみとかビートルズとかチャイコフスキーなんかがあった。なんかバラバラじゃん。小林秀雄の講演とか快楽亭ブラックの落語なんかもある。ああ、これは家族じゃ聞けないもんな。
 もう少しゴソゴソしてみると、あれっ、マイケミがあるのであった。子供にウケようと思って買ったのかもしれない。何となくピンと来て、当然のようにwelcome to the black parade を聞くことにした。
 まあ、何と言いますか、これがそれなりに当たりなんですよね。ちょっと大げさすぎるとはいえ、だいたい大げさな生還なんだしさ。普段はちょっぴり馬鹿にしてごめんな、という感じ。
 これで病院の垢は完全にはげ落ちてしまったという訳でした。
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何かを決めたい人が居る世界じゃないんだ

2012-09-05 | culture

 入院中は何しろ暇だから活字ばかり追う。新聞もいつもより念入りに読むし、雑誌も普段はゴシップの類はまったく読まないが、ついついついでに読んでしまったりする。まあ、それでも芸能人の顔を知らないので何の話かはあんまりよく分からないのだが。
 僕はスポーツも本当は好きなのだが、働き出してから本を読む時間を確保するために中継は極力見ないようにしたために、いつの間にか大相撲以外はほとんど興味を失ってしまった。雑誌で野球選手の話が出ていても、なんだかぴんと来なくなってしまった。時代の流れるのは意外に早いものだと思わされる。松井稼頭央が楽天に居ることを知ってびっくりしちゃったよ。
 ところで分厚いので久しぶりに文藝春秋をつれあいに買ってもらって読んだのだけど、これがまた大人たちは政治が好きなんだなあという内容で、久しぶりに何となく驚いた。なんといまだに小沢一郎の話なんかが入っている。彼はまだ政治の世界ではスターというかアイドルというか、注目されるような人なんだね。まあ、確かに以前は存在感のある人だったかもしれないが、僕なんかのノンポリは、とうに終わって久しいと思ってたよ。
 実はその上にさらに情けなく思ったのは、結局小沢一郎が政治で政策として何をやりたかったかがまるで書いて無い事だった。権力闘争が面白いのは分からないではないけど、政治って何の政策をやりたいかが問題じゃないのだろうか。まあだから僕はノンポリなんだろうけど、まったく理解できない世界だ。やりたいことがあって入るんじゃなくて、権力をどうこうするために政治家になるんだっけ? まあ、そういうものかもしれない人が居たって構わないかもしれないけど、それって結局普通の組織は干されるんじゃなかろうか。なんかの実績が無い人がキャリアを積むことなんて無いだろうし、仕事の情熱って、何かやりたいこととか、与えられた何かを形にできるってことが重要な気がしないではない。政治にだってその具体的舞台がありそうなものだけど、消費税がどうだとか(それって目的じゃなくて手段だ)いう話は聞いても、この政治家が政策の顔になってるってことはあんがい稀なことかもしれない(もちろん居ないでは無いが)。いや、新幹線を通す、なんて族議員は居るんだっけ。
 できるだけ、というかあんまり政治話題はブログには書きたくないようなところがあったのだけど、ついつい余分に雑誌読んじゃってすまんこってス。
 維新の会は別だ、という意見もあるかもしれないけど、このような雑誌の興味って、その勢力がどれくらい政局に影響するかってってことに結局なりそうだもんね。それが駄目だと僕がいっても何の影響も無いことは確かそうだけど、根本的にそれが駄目なんだよね。
 まあ仕方なく投票には行くんだけど、特に国政はどうでもいいですね。影響を受けるのは癪だから政策がどうなるかは注視せざるを得ないけど、政局の動向は(たとえそれが大切と言われても)本来はやっぱりそんなに重要である必要はないと思う。だから騒いで楽しむということなんだとはいえるけど、少なくとも小沢一郎がいまだにスターだという記事が生きている時点で、始まる前に終わっている気がする。
 今までもそうなんだけど、出来るだけ何にも決めない政治ということで、これからもよろしくお願いします。
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日常のありがたみ

2012-09-04 | 掲示板

 やっと職場復帰。当たり前だが机の上にはいろいろと書類が乗っている。名刺もたくさん付箋もたくさん。なんだかよく分からないものもあるけど、とにかく朝はその整理。返事できそうなものとできなさそうなものをとりあえず分けて、日付の古いものとか早く済みそうなものを片付ける。どうでもいいのはゴミ箱へ。30分もしたらそれなりにすっきりした感じだが、どのみち今週に済まないものもあるんで、そういうものを放り出しておくスペースにさらに積み上げる。下になっている奴はどうしようかと思うが、まあ、今見ても仕方あるまい。新たに積みあがる分で確認していこう。
 それでも娑婆に出ると何となく新鮮な感覚もあって、気分が悪い訳ではない。駐車場から降りていつものように少し坂道を歩いて玄関からいろんな人に挨拶して、時に立ち話して、久しぶりという感じも少しあるにせよ、やはりそれはいつもの日常。ペースはすぐに取り戻してしまった感じだ。今思うと入院の方が、やはり非日常だったと改めて思う訳だ。
 短かったとはいえ、入院には慣れかかっていたところだった。最初はそれなりに痛みの方が強くてそれどころでは無かった感じだったけど、落ち着くと閉鎖空間もそんなに悪いものでは無い。もっともつれあいも頻繁に来てくれたし、今は携帯があるから電話やらメールやらは結構あったし、さみしいというのはまったくなかったのだけど、行動範囲は至極狭いから、いくら不自由だとはいえ空間には飽きる。今回は座るのがつらいから、長時間かえってじっとしづらい感じがあった。かと言って歩くのもつらい。ベットでごろごろしていると眠くなるのもつらい。なんと言っても入院中の夜が長いことは今までの経験で十分懲りている。昼夜逆転ほどつらいものは無いので、日中は穏やかに、かつ規則正しく生活するのが基本だ。いつもより長くメモを取っていろいろ考えたり、時間を決めて読書の本を入れ替えたり、新聞を精読したり、週間のテレビ番組を入念にチェックしたり(病室ではトータルで1時間くらいしかテレビは見なかったけど)、こまめに水を飲んだり、また、トイレに行ったりする(出るか出ないかはどうでもいい)。3泊4日はそれなりにあっという間だったと言ってよかった。まあもう少し居てもいいかといえば、やはり帰られるのは嬉しかったけど、不快や退屈で嫌になった訳では無かった。
 今回はある程度の制約が必要だったこともあると思う。入院でなかったらいろいろと用事があってアクティブに動いていたことは間違いが無い。しかし動くことがほぼ不可能だったことも間違いが無くて、その理由が明確だったという免罪符が何より心の安寧になっていたところがあるようだった。だって仕方ないじゃん、というところだろうか。いや、それなりに申し訳なかったりしたところもあるし、後で何かしなければならないめんどうが増えたこともそれなりにあろう。その分、仕事は増えたとは考えられるのだけど、しかし隙間ができたというか、息つぎができたという感じなのだろうか。そういうちょっとしたことに過ぎないのだけど、やはり人心地ついた。そしてある意味で充電もできたということなのかもしれない。決してバカンスでは無いのだけれど、なんの後ろめたさも無いすっきりした気分なのである。
 今週どうっすっかな、というのを見渡すと、やはり体力をどうにかしないとどうにもならない案件もあるようだ。来週になると出張もある。やはり貯め込んだやつから片付けねばなるまい。走るには助走も必要。どのみち全速ではまだ走れそうにない。
 そう言えば、いい天気だけど、そんなにひどく暑くは無いな。こういうところは別世界になった訳で、少しばかり儚さも無いではない。日常というのは、少し欠けたくらいがありがたみのあるものなのであろう。
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鏡の前に立って見てみると   サラダ好きのライオン

2012-09-03 | 読書
サラダ好きのライオン/村上春樹著(マガジンハウス)

 村上春樹と言えば中高生の頃から読んでいるので、もうかなりの付き合いだ。いつの間にか僕も相対的に年をとるので、慣性で読んでいる部分はあるにせよ、感じ方はそれなりに変化している。やっぱり構成的に上手いなあ、と唸らされる時もあるけれど、この世代特有の無責任というか、鼻につく部分もある訳だ。アンチ・ハルキファンというがあって、というか、そもそもこれがたまらなく嫌だという人たちが一定数居るのも、ファンである僕としても、理解はできるところだ。多くの場合無視しているだけなので、日本の大きな賞とは無縁な国際的な作家が生まれてしまったのかもしれないとさえ思っている。
 ただしかし、やはりこれは日本語の問題でもあって、この微妙なニュアンスを理解できる私たちネイティブな日本語の使い手たちだからこそ、このような反応が生まれてしまうのではなかろうかと思われる。平たく言うと微妙にわざとらしいのだけど、どこか萩本欽一のような同意の世界があるのだけど、いい時はそれがいいのは確かで、決定的にファンンを分けてしまうのかもしれない。
 もっとも僕は欽ちゃんは個人的に嫌いな人じゃないけれど、面白くは無いと思う。村上さんは面白いけど、部分的に鼻につくだけで、あの世代的に仕方無いと許容している。それに昔はそれが良かったという自分自身の気恥ずかしさも同時に持っており、やはり自分の中の血になっていることは間違いなかろう。誰にだってそういう後ろめたいようなところはあって、村上春樹はそのような自分の鏡の様なところがあって、やはり静かに楽しみたいというのはあるのかもしれない。

 ところでこのエッセイで、村上さんは運転中に歯を磨いたり(信号待ちと言っているが、ちと怪しい)することが暴露されていて、ファンサービス(なのか)もしっかりあるお得版という気もする。読書家ウンチクもそれなりにあって、しばらくは居酒屋さんなんかで、誰かからも聞くことになるんじゃなかろうか(それだけ影響力は大きいもんね)。後はまあ、焼き増しみたいなところもあるけど、同じ人間が書き続ける限りそんなことはどんな作家にもあることなので、アイディンティティとして仕方のないことだ。むしろそのような生活を頑なに守っているようなところがあるようで、人はライフステージにおいて変化する方が自然だから、むしろ村上さんは、あんまり生活を変えない人らしい事が見てとれる。
 さっきは鏡と言ったけれど、総体的に僕の方はずいぶん変わってしまったものだなあと、感慨深くさえ思えた。実際に年齢が追いつくことなんてないのだけど、昔はずいぶん年上のお兄さんだと思っていた人が、なんだかもうすぐ僕もそのようになってしまうお爺さん手前の人になったな、と思う訳だ。前にも書いたけれど、愚作でいいから書き飛ばしてくれたらいいのにな、と願っているところである。
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麻酔を希望する

2012-09-02 | HORROR
僕は注射嫌いである。しかしそれなりに不当な偏見ばかりとも言えないのではあるまいか。
今回もこれ迄に三回ほど点滴をしたが、針跡は六ヶ所残っている。看護婦さんに申し訳なく思うが、血管がはっきりしないようだ。こちらにも恐怖感があるからお互いに恐怖の連鎖が起こることもある。何人も刺手の代わることも少なくない。確かに相性はあるようで、以前職場におられた看護婦さんは見事に当てるのが上手かった。お話を聞くと大の血フェチで、子供の頃から注射を打ちたい憧れがあって看護婦になったようなものだ、とおっしゃっていた。何となく恐ろしげだか、僕にとっては助かることだった。
義捐の心を振り絞って献血をしたことがあるのだけれど、見事に立ち上がれなくなって閉口してしまった。ヤクルトを何本か飲まされたと思うが、気持ちはありがたかったが、今後は来ない方がいいと言われた。
注射針には穴が空いている(じつに当たり前だ)のだが、この穴に僕の肉体の一部が入ってしまわないのだろうかと不安になるのである。理屈ではありえないし、ましてやそれくらい大したことではないようだか、気になると大きなもんだいなのだ。
注射や点滴の時は、強い睡眠薬とか、全身麻酔でできるようになればいいのにな、と願っているのである。
追伸 その後失敗なく点滴は上手くいっております。業務連絡で検討でもされたんだろうか。ともかく、ありがたい事です。
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カレーとライス

2012-09-01 | 
 カレーライスかライスカレーか論争というのはあるけど、まあ実際は興味が無いのでこれは議論しない。
しかしながらカレーライスというのが英語で通じないというのは知らなかった。厳密には通じないというか、カレー&ライスという言い方をするというだけの話のようだが、これは何故か。
 まあこれは言葉通りなんだけれど、日本では分けてなくて混在している姿そのものが馴染のあるカレーライスという形であるのだけれど、そのまま見て分かるものであっても、あくまでご飯にカレーがかかっている、という姿に英語圏の人には見えるということなんだろう。何故ならナンにかかっていてもいいし、パンにかかってもいいものという考えがどうしても根底にあるのだろう。もしくはぜんぜんかかっていなくてもかまわないとか。本来的にそれがカレーという原型の姿で、インド人もタイ人もその他のカレーを食する文化をも、その視点は尊重しているとは言える。
 さらに日本人は米を「主食」という考え方で捉えるからだ、という説明も聞いた。つまりそれは日本人には分かる話だが、多くの諸外国には説明が難しい事のように思える。パンが主食だと考えている国なんてほとんど無いだろうし、その他イモのようなものを主に食べる人たちであっても、それを主食だとは思わないだろう。肉が主食だというのも普通は言わない。パンダなら竹が主食だと言うかもしれないが、もちろん自主的にはそもそも確認しようがない。
 日本は何故カレーライスになったのか、というのは、それは単純に丼文化の為だと思う。天ぷらを乗せれば天丼。トンカツを乗せればカツ丼。マーボ豆腐は麻婆丼。いろいろあって、全部自然だ。それが何故かカレーだけが不自然にカレー丼にならなかった。英国から渡ってきた洋食としての雰囲気が、「どんぶり」という形態を少しばかり拒んでしまったのではなかろうか。ライスカレーかカレーライスかの混乱も、そのあたりの不安定さにあるかもしれない。
 最初から平べったい皿では無く、ご飯茶わんとかに盛られたご飯にカレーを盛って食っていたなら、普通に現在(洋風)カレー丼なんてことになっていたかもしれない。まあしかし、これが文化というもので、そうならなくて良かったような気がしないではないから変なものである。
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