カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

確認が多すぎて大変である   軽蔑

2012-09-13 | 映画

軽蔑/ジャン=リュック・ゴダール監督

 ほとんどブリジット・バルドーは脱いでいる状態というような映画。以前(僕より先輩のオジサン達からその魅力を聞かされてきた世代なのだ。何しろ古い話だから僕はほとんど知らなかった)彼女が人気があったのが改めて理解できた。ちょっととんがっているけど(役柄として)本当に美しい肢体である。でもまあ映画の撮り方というか、そんな感じでぜんぜんエロでは無いところが偉いと言えば偉い。これが芸術的な視点ということなんだろう。まあ日本人の女性じゃないからということもあるのかもしれないけど、まるで肉感のある彫刻作品を眺めているという感じだろうか。まさかその為だけに撮られた映画では無いとはいえ、実際はその為だけの映画としても成り立つんではなかろうか。
 それにしても一般のフランス人のカップルは、ほんとにこんな会話ばかりしているのだろうか。まあ付き合いだした若いカップルなら少しくらいは分からんではないのだけど、いつまでもいつまでもどこが好きだとか本当に愛しているだとか確認ばかりでまったくもって煩わしい。かと言ってそういう会話を楽しんでいたのもつかの間、一気に危機に突入してしまう。そりゃあそんなにしつこく確認ばかりしてたら仕方ないというか当たり前じゃないかという気が僕にはするが、実際はそういうことじゃなくて、それなりに事件がある訳だ。男には仕事上の下心というか、対面的な余裕を他人には見せたくなるような見栄のようなものがあったのかもしれない。そういう態度に彼女の方は一気に嫌気がさして、そうしてそのような男の不実を「軽蔑」したということなのだろう。
 まあ、そういう見方をするとして、しかし彼女を誘惑するアメリカ人も大胆というか、とにかく金は持ってるし傲慢でもいいんだもんね、というような開き直りと素直さがある訳で、彼女の方にも思わせぶりのような気分はあっただろうにせよ、やはり裏切ってしまう訳だ。それも仕方なしという感じで。男の態度が決定的に悪かったということになっているのだけど、これって強引に合理的な理由を探しているようにも見えないでは無い。もともともっといい人が居れば移り気でもよかったような女だったのではないか。もちろん映画はそのような文法で語られている訳ではないのだけど、普通はそんなような人じゃ無ければこんな結果にはならないと思う。
 いろいろと衰退する物事の比喩として表現がされている問題なのかもしれない。今の日本だと、中国人の男に奥さんを寝とられるという感じだろうか。まあ少し違うかもしれないが、フランスやイタリアの映画はそのようにハリウッドの後塵を拝しているということになるんだろうか。よく分からないけど、それで何の問題も無いように思うのは、そのような考え方こそ「軽蔑」に値するということを感じているのかもしれない。もちろんどこの国の人間だって、寝とられたら頭には来るんだろうけどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする