カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

あちらの人が帰ってこないのは当たり前かもしれない

2012-09-27 | 境界線

 ポアンカレ予想をめぐるドキュメンタリー番組を見た。名前は知っているが訳の分からない数学界の難問だ。それもその難問を解いたというロシヤの数学者ペレリマンというひとは、隠遁生活をしており他人前に姿を現さないのだという。
 分かったというのとは違うけれど、大筋どのような考え方であるということは分かった。しかし厄介なことに分かったとはいえ、そのことがより数学の世界の厄介さを思わせられるところが複雑な気分にさせられた。その上このポアンカレ予想のために多くの数学者が数学の迷宮をさまよい、ある意味で人生を失ってしまっているように見えることだった。そのような数学の魔力というものがさらに見る者を困惑させることになって、いくら難しく魅力的な世界だからと言って、現実世界を忘れさせてしまうという数学世界の恐ろしさが、さらに余計に訳が分からないという思いに捉われるのだった。
 数学の問題や定理などを発見する喜びは、世間的には名誉となる場合もあるだろうけれど、あまり金銭的な成功とは直結しないもののように見える。無欲というよりも、そういうことにかまっていられなくなるということかもしれない。それはまわりの人間を困惑させることではあるにせよ、数学そのものとつきあう人間にとっては、恐らくなにものにも代えがたい喜びがあるためであるように感じられる。そうしてそれは、人類や自然や歴史においても不変のものなのだ。
 いや、人間においては影響があるらしいから、いくら人間の頭の中の世界のこととはいえ、少なからず政治的に影響力があるということは考えられる。ペレルマンが世間というものを捨ててしまったように見えるのも、実際にはそのような人間性への不信が根底にあるように匂わされていた。
 数学の世界というのは極めて人間的な癖の世界であるにもかかわらず、しかし人間の連携を拒むものなのかもしれない。哲学の悟りなどは共有してなんなのかは分からないけれど、しかし数学のそれは難解で理解できる人間が少ないとはいえ、しかし共通理解であるはずなのだ。人間が到達できる限界のところにある世界というものを、見てしまった人間というものが齟齬をきたしてしまうとしたら、それは本当に恐ろしいものというしかないのではあるまいか。
 数学に没頭すること自体は病的に見えるとはいえ、決して病気そのものでは無い。しかし、精神病のある面においては、非常に似ているものがあるようにも感じられる。精神病の多くはA=Aという共通理解をはみ出すことによって生じる社会生活への困難さである。多くの人にはそのような共通理解こそが社会性なのだが、その世界においてA=Bの人が存在してしまうと困ってしまうのである。いわば訳が分からない。もちろんB側の人だってA側の人とはつきあえない。数学的な難問の世界というのは、実はA世界とは相いれないB世界そのもののようなことなのではなかろうか。
 もちろんそんなような事を考えてしまうのは人間の癖のようなものだろう。もともと人間というのは、共通理解のためにいろいろと道具を使わないとうまく暮らせないという特徴がある。そのひとつが例えば言語とも言える訳で、言語の違う外国の人とは通訳が必要になってしまう。ゼスチャーでも何とかなるというのは、それは言語の代替として動作で共通理解ができるということに過ぎない。
 数学の世界を理解するためには、数学という言語を手に入れなくてはならない。しかし誰もが可能で無い深みがあるのであるから、やはり通訳が必要なのだ。ペレリマンさんの現実世界への帰還を果たすものも、恐らくはそこのあたりの翻訳機能の役割にかかっているような気がして仕方ないのであった。
コメント
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