タピオ:「カレワラ」に登場する森の神
タピオラ:森の神の領土(森の国フィンランド)
カレワラ:フィンランドの民族叙事詩
夜、シベリウスの「タピオラ」を聞く。
アンドリュー・ディヴィス指揮、ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団で。
フィンランドは、森の国だが、日本もそうである。
森は、恵みをもたらすところと捉えられる。
砂漠の民とは、感性も死生観にも違いが出る。
日本では、森の神は女神。
食をもたらしてくれるが、嫉妬深くもある。
醜い虎魚を供えて、安心してもらう。
森の国には、木造建築。
今日、テレビで、薬師寺の東塔のことをやっていた。
7月末に、薬師寺へ行った時に撮った写真を改めて見た。
素晴らしい。
日本が、世界に誇れる建築物のひとつだ。
エリック・ドルフィーのバス・クラリネットのソロ演奏。
ワクワクしますね。
曲は、「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」。
1941年、ビリー・ホリディーの作。
神はおさなごを祝福する・・・・・。
「イン・ヨーロッパ VOL.1」(Prestige)で聞いた。
エリック・ドルフィーの「イン・ヨーロッパ VOL.1」(Prestige)。
1961年、コペンハーゲンでの演奏である。
収録曲のひとつ「ハイ・フライ」では、ドルフィーはフルートを奏し、それは“知性的である”と誰かが評価していた。
この曲の演奏は、ドルフィーとベースのチャック・イスラエルの二人。
13分を超える演奏で、ドルフィーのフルートが存分に堪能できる。
終始鳴り続ける弦の響きもゆっくり聞くことが出来る。
和泉式部の和歌について感じていることを記しておこうかと思った。
もとより、わたしに和歌に関する素養があるわけでなく、古文の知識があるわけでもなく、あくまで素人の感想でしかないだろうが。
ただ、和泉式部には惹かれるものがあり、岩波文庫の「和泉式部和歌集」を持ち歩いて、通勤の電車の中で開いていたこともあった。
まとまった関連書籍では、馬場あき子著の「和泉式部(河出書房新社、1990年)」、沓掛良彦著の「和泉式部幻想(岩波書店 2009年)」を読んだことがある。
どこまで読み込めたかかは別に、両著とも、詩情への理解深く、ハイレベルなものとの印象をもった。
今回、笠間書院の“コレクション日本歌人選”の一冊、高木和子著「和泉式部」を読んだ。
50の和歌をピックアップし、一首見開き2ページで解説したものである。
私にとっては、和泉式部の和歌を理解するうえで、とても参考になった。
かねてより、和泉式部の和歌は、その意味・詩情を理解しにくいものが多いと感じていた。
単体で素晴らしいと感じるものが少なかったのである。
詞書きが付いていても、それだけでも分かりにくかった。
その和歌がつくられた周辺事情を知ることなしでは、意味がとりにくいこと、贈答歌が多く、お互いにどのような言葉を使ったか、そこらを知ると、理解が深まること、高木著を読んで、いくらか分かるようになった。
言葉の選択の妙、リズムのこと、詩情の地平を広げたことも説明されていて、なるほどと思った。
そして、いくらか理解が出来るようになると、改めて、和泉式部の詩人としての凄さを感じた。どれもこれも激烈である。
容易にまねの出来ないオリジナリティを感じた。
例えば、帥宮挽歌群の次の一首。
うちかへし思へば悲し煙にもたち後れたる天の羽衣
「うちかへし思へば悲し」で切れており、その意味は、“あらためて思うと悲しい”となる。
「煙」は、愛した人の荼毘の煙であり、“死”を意味する。
よって、「煙にもたち後れたる」は、“愛した人は死に、遺体は燃やされ煙となってしまった。わたしはとは言えば、ともに死ぬことなく、遅れをとってしまった”となる。
「天の羽衣」、この「天」は、「尼」でもあり、自分のことであることをにおわせ、煙とともに天に昇る羽衣もない、“死の世界へ昇ることができず、ただ取り残されている”そのような意味となる。
そこには、死をものぞむ、激しい愛のさまがある。悲鳴をあげている女がいる。
和泉式部の色恋は、そんな激しさをともなう。
満たされないときのもの思いも、魂の深淵をのぞくものとなる。
確か、藤原道長は、和泉式部のことを「うかれ女」と呼んだ。
現実の和泉式部は、外から見れば、そう言われても仕方ないところがあったのだろう。
ただ、彼女の心のうちには、内へ、底へと向かう情動が常にあったのだと思う。
それに、贈答歌の妙を思うと、人の心情への理解と、そこに相手の魂を突き刺さんばかりの剣が秘められていたことを感じる。
さて、そんな和泉式部であるが、同時代を交流しながら過ごした紫式部はどう見ていたのか。
この二人には、詩人と小説家の違いのようなものを感じてしまうが。
《紫式部日記に記された和泉式部評》※以下は、このブログ記事の再掲。
【原文】
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほいも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと、ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみそへ侍り。
【私訳1】※いささか勝手に
和泉式部という方は、男性ととてもすてきな歌のやりとりをしました。それはいいのですが、男性にちやほやされていなと気がすまないようなところがあって、しかも、すぐさまからだの関係もできてしまう困ったところがありました。何か節度が欠けているのです。さりげなく、さらっと風雅な歌を詠む才がありました。そのなかにきらりと光るものがあるのです。ところが、歌論的な素養がなくて、本格的な歌人とは言い難い方でした。
【私訳】※なるべく原文に近く
和泉式部というひとは、すてきに歌を交わしました。ですが、けしからぬところがありました。さりげなく、さらっと文を書くと、才がきわだち、その言葉に香りたかさがありました。歌は風雅でしたが、歌の知識や理論には足りないものがあって、まことの歌人とは言えません。思いつくままの即興にも、必ずすばらしいところがあって、目を引くものが含まれています。
チャールズ・ミンガスの「ミンガス・イン・ヨーロッパ VOL.1」(enja)。
先日取り上げた「VOL.2」と同じく、ミンガス一行のヨーロッパ巡演の折、ドイツでのプレイの録音である。
1964年4月26日、西ドイツ、ヴッパーダールでのコンサート。
〈演奏メンバー〉
チャールズ・ミンガス(b)
エリック・ドルフィー(b-cl,fl)
クリフォード・ジョーダン(ts)
ジャッキー・バイヤード(p)
アニー・リッチモンド(ds)
〈収録曲〉
CDに収録されているのは3曲。
1.フォーバス知事の寓話 37:38
2.スターティング 5:29
3.メディテーションズ 22:25
1曲目は、37分を超える。
人種差別に対するミンガスの怒りの姿勢・声が聞かれる。
この曲が最初に収められたのは「Ah Um」。
ミンガスならではの勢い、戦いにのぞむ躍動、弓矢をもって走る、走る、走る。
プレイヤーそれぞれの個性、魅力が存分に発揮されている。
演奏は長いが、厭きない。
30分を超えたあたりで、ミンガスとドルフィーのデュオ、そんなに激しくない兄貴分的な語り口、引き換えヒステリックな悲鳴のような応答が聞かれる。
この二人の関係が感じられる。
ミンガスは、ドルフィーの才に惚れ、好きでたまらないのだが、どうも、ドルフィーには、その圧が嫌でたまらない、そんなところがあるのでないか。
2は、ドルフィーのフルートが注目されている。
3も22分を超える熱演。
元のLP盤は、1と2だけが収録で、1は、片面には収まりきらないもの。
3は、CD盤にするときプラスされたようだ。
夢や夢現や夢とわかぬかな いかなる世にか覚めむとすらむ
平安時代の赤染衛門の和歌である。
赤染衛門の和歌は、人生哲学風である。
知的な女性という感じである。
さて、おもむき変えて、ジェリー・マリガンのこの世の夢のひとつは、バラード集をまとめることだったのか。
好漢ジェリー・マリガンの“私の夢も見てほしい”である。
「ジェリー・マリガン・プレイズ・バラッズ ドリーム・ア・リトル・ドリーム・オブ・ミー」(1994 TELARC)。
わたしが入手したアルバムでは、名前は「マイ・ファニー・バレンタイン」となっている。
14曲、収録されている。
はじめに聞いたのは、「わが心のジョージア」「マイ・ファニー・バレンタイン」「ソング・フォー・ストレイホーン」の3曲。
これに続けて、20年前になるか、チェット・ベイカーと演奏した「カーネギーホール・コンサート」所収の「マイ・ファニー・バレンタイン」を聞いた。
トランペットの音が、曲に色合いをつける。
とてもいいなと記憶に残る演奏のひとつ。
ベイカーのトランペットが、そうさせているのだが、それは、マリガンのバリトンサックスあってのこと、さらに、マリガンという人間が存在してのものと強く感じさせる演奏なのだ、
そこに、マリガンの兄貴分としてのやさしさが感じられるのだ。
さて、「ジェリー・マリガン・プレイズ・バラッズ」の3曲目となっている「ドリーム・ア・リトル・ドリーム・オブ・ミー」。
懐かしい、ウエストコーストのムードいっぱいだ。
◇
俺は、俺らしくやろう。
それで、孤独を感じることがあっても、あたりまえ。
俺が俺である証明のようなものだ。
◇
4曲目「アイル・ビー・アラウンド」は、「ナイト・ライツ」を彷彿とさせる。
6曲目の「ザ・リアル・シング」もそうである。
夜、余計な刺激がない、穏やかな、これらがいい。
このムードが続く。
9曲目が、「わが心のジョージア」。
10曲目が、「マイ・ファニー・バレンタイン」である。
◇
夜、黒い木立を見ると、亡くなった友だちのことが思い出される。
友だちの霊が、そこに来ているように感じる。
俺は、諸事に煩わしさを感じながら生きている。
生きていると言うことは、そんなものかと思いながら。
◇
12曲目は、「マイ・シャイニング・アワー」。
いくらか元気な曲だ。
13曲目は、「ウォーキング・シューズ」。
はれやかな気持ちで、青い空のもと、白い道を歩いている。
ラストの14曲目が、「ソング・フォー・ストレイホーン」。
亡きチェット・ベイカーと演った曲だね。
そこに、チェット・ベイカーがいて、声をかけているような。
“ブエノスアイレスのマリア”、タイトルそのものが興味をそそる。
アストル・ピアソラのタンゴ・オペリータである。
前に、ギドン・クレーメル盤で聞いたことがある。
今、聞いているのは、何と呼んだらいいだろうか。
CDの表には、オペラ、タンゴ の文字。
“milan”の表示。ミラノ盤と言うことにしようか。
1枚のCDに、22シーンが収まっているようだ。
2.Act 1 Scene 2:マリアのテーマ
6. Scene 7:フーガと神秘
10.Act 2 Scene16:ザ・サーカス・オブ・アナリスツ(精神分析医たちのマリア)
CDに付いているこの小オペラの解説にあるActとScene(場)の番号と実際のトラックの番号があっていない。
CD盤には、14トラックのようにプリントされているが、実際には、15トラックまである。
歌われている言葉の意味を聞き取れるわけでもない。
なんとなく接してしまった。
新宿のディスクユニオンで、ミルバのアルバムを見つけた。
セブン・シーズ・レコードの“ベスト・スター・ベスト・アルバム”と言う企画の中の一枚「ミルバ」で、キング・レコードから発売されたLP盤だ。
原盤は、チェトラ(イタリア)と記されていた。
ミルバの歌唱は、アストル・ピアソラの曲を聞く中で接した。
ギドン・クレーメルの「エル・タンゴ~ピアソラへのオマージュ2」で。
「ミルバ&アストル・ピアソラ ライブ・イン・トウキョウ 1988」で。
それで、何でもいいから、ピアソラやタンゴでないものを聞きたいと思っていた。
ベスト・スター・ベスト・アルバム”には、14曲収録されていた。
日本語で歌っている「ウナ・セラ・ディ東京」をはじめ、「リコルダ」「傷だらけの心」 「ひきだしの中の海」「悲恋」「タンゴ・イタリアーノ 」「スペインの瞳」「ミロール」等。
「傷だらけの心」は、大迫力。
さすが、ミルバという感じだ。
ミルバは、コンサートなどで、「リリー・マルレーン」をよく歌ったそうだ。
チャールズ・ミンガスの「ミンガス・イン・ヨーロッパ VOL.2」。
1964年、ミンガスご一行のヨーロッパ巡演時、ドイツでの演奏の記録である。
enjaからのもので、ミンガスのアルバムは結構持っているに、なかった一枚だ。
この一行には、エリック・ドルフィーもいる。
この巡演を終えて、ドルフィーは、単身でツアーを続け、ヨーロッパの地で亡くなる。
このライブは、なかなか熱がこもっている。
先日聞いた、同じ頃、パリでのライブ記録である「メディテーション」(1964 WOTRE MUSIC)とは、選曲は似ているのに、印象は、まるで異なる。
ミンガス、ドルフィーの他は、以下の顔ぶれ。
クリフォード・ジョーダン(ts)
ジャッキー・バイアード(p)
ダニー・リッチモンド(ds)
以下の5つのトラック。
1.オレンジ色のドレス
メンバーそれぞれのソロ。
ドルフィーのバス・クラリネットはいつも通り素晴らしい。
2.ソフィスティケイテッド・レディ
ミンガスのベース・ソロが聞ける。
3.AT-FW・ユー
4.ペギーズ・ブルー・スカイ・ライト
5.ソー・ロング・エリック
「SO LONG ERIC」は、ミンガスの作曲。大作である。
ミンガスは、ドルフィーが好きだった。
その才を素晴らしいと思っていた。
ドルフィーは、ここでも素晴らしいが、彼の魅力はリーダー・アルバムでの方が発揮されているように感じる。