真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 スティーブン・セガールの映画を、小屋で観ることがすつかり難くなつてしまつた。私が住む、関門海峡も西に渡つた地方都市で最後に小屋に掛かつたのは、「イントゥ・ザ・サン」(2005)であつたか。正直箸にも棒にも掛からぬ映画であつたので、感想も書いてゐない。「沈黙の傭兵」(2006)は色んな意味で、といふか別の意味で評判になつてもゐたが、もう私の住む街までは劇場公開が辿り着かなかつた。元々が、近作はアメリカではビデオストレートばかりのセガール(以下セガ)でもあるので、それも仕方のない話であるのかも知れない。以下は、そんなセガの最大にして最強の最狂の問題作、「沈黙の標的」(2003/米/監督:マイケル・オブロウィッツ/脚本:デニス・ディムスター、ダニー・ラーナー、セガ/原題:『OUT FOR A KILL』/出演:セガ他)を三年前の日本公開当時に観に行つた折に書いたものを、全面的に加筆修正したものである。長くなつてしまふので結論を先に述べておく。セガの映画が小屋に掛からなくなつてしまつた、と冒頭で嘆いた。こんな映画を作つてゐては、それも又仕方がない。

 我等が、もとい私は大好きセガの珍、もとい新作「沈黙の標的」を、公開初日に早速観に行つて来た。
 基本的に映画好きの間でもバカにされることの多いセガではあるが、今回の沈黙は半端ぢやなく相当酷いとの評判であつたので、それもそれとして覚悟の上で(一部期待も含む)観に行つたものである。したところが、確かに。感動的に酷い映画であつた。最早素晴らしくすらある程に酷い映画であつた。いくらセガといふ(一応は)金看板があるとはいへ、よくぞ21世紀にこんな映画が海を越えて日本の劇場にまで辿り着いて来たものだと思ふと、一種爽やかな感動すら覚えた。
 象徴を超え伝説となつたのが、もう随分とお手軽な作業にもなつてしまつたのであらうか、発射された弾丸がゆつくりゆつくりと回転しながら飛んで来るCG。弾丸はじんわりじんわりと飛んで来るのに、走行中の車等背景の実写部分のスピードは普通のまま。要は単に異様に遅い弾丸である(火暴)。「マトリックス」がひとつの映像革命であるとするならば、反革命的映像である。
 もう、別にそこまでクズに徹することもないのに、広告からクズである。公開前日のスポーツ新聞にて目にしたものであるが、順不同、敬称略として各(プロレス)団体のトップ・レスラーの皆さんからの絶賛の声が寄せられてある。それがあんまりにも面白いので、以下に仮名遣ひを改めるのみで全文(無断)引用する。一応断つておくと、括弧内はその発言主のレスラーの名前である。

 「いま、セガールを超えるヤツはゐないぜ!」(蝶野)
 「これを見なきや今年のアクション映画は語れないぜ!」(橋本)
 「気がつけば、右手の拳に力が入つてゐました。」(小橋)
 「コイツあ、絶対ホンモノだ!オレもすつかり『セガールLOVE』だぜ!」(武藤)
 「本物は違ふな!お前ら、絶対見ろよ!」(天山)

 恐らく、彼等はこの映画を観てはゐないであらう。この映画、一応配給はギャガである。別に単に詰まらないといふ意味での、プアな広告を打つ分には驚くには当たらないが、かういふ馬鹿のキングス・ロードを驀進する広告を打つとは少々意外である。最早ヤケクソなのであらうか。私も。気が付くと、全身の力が抜けてゐた。腰が砕け、開いた口が塞がらなくなる効能を持つた映画である。
 はつきり言つて、脚本と編集とが完全に狂つてゐる、といふか脚本に関しては未完成のまま撮影してゐたのではなからうか、との説も出て来てしまふくらゐに、本来ならシンプル・イズ・ベストな映画の筈であるのに、無駄に錯綜してゐる映画である。仕方が無いので想像力を全力で駆使して、以下に足りないところや余計なところを足したり引いたりしながらストーリーを掻い摘む。 詰まるところは足りないところや余計なところばかりの映画でもあるので、ざつと全篇をトレースしてしまふ羽目になるのだが。

 初めに入る製作・配給会社のロゴ・マークが、一応はアメリカ資本のアメリカ映画の筈なのに、「一体これは何処の国の会社なんだ !?」といつた風な見たこともないショボくれたマークが出て来るところから、別の意味での期待はいやが上にも高まる。以下本篇内容。
 セガはかつてはゴーストと呼ばれた大泥棒。今はその時の知識、経験を生かして(いいのか、それで)大学の老古学の教授として活躍してゐる。ここで、転身するに当たり劇中では「新しいIDで」、などと言つてゐるので、要は経歴を詐称してゐるのであらう。
 今作の悪役はチャイニーズ・マフィア。在パリの大ボスが、世界各地に散らばる中ボスを統合してひとつの巨大組織に纏め上げようとしてゐる。その内の支那にゐる中ボスが、セガが盗掘、もとい発掘中の遺跡の出土品に紛れ込ませてドラッグを密輸しようとしてゐたところから、セガは事件に巻き込まれることになる。
 その過程で恩師の娘でもある助手の女も殺されてしまひつつ、ドラッグ密輸の濡れ衣を着せられて投獄されてしまふセガ。支那でクスリなんぞでブチ込まれてしまつた日には、濡れ衣であらうとなからうと出て来れない。
 が、支那と合同捜査中のアメリカの麻取(麻薬取締局)は、釈放したセガを泳がせ、麻薬組織の囮にすることを思ひつく。ストーカーに殺されてしまふまで何もして呉れない、日本のネガティブな警察にも見倣はせたい、強力にポジティブな人権無視の捜査方針によつて釈放されることになるセガ。
 獄中でセガは、一人の黒人と仲良くなる。如何にも思はせ振りなアップなんぞもあり、「ひよつとしてこの黒人は組織のスパイか?それとも後でセガの危機を助けにでも来るんぢやらうか」なんてうつかり観客に思はせておいて、その黒人はその後一切出て来やしない。この映画、そんなことばかりである。凡そ平素我々が馴染んでゐる、映画文法といふものが殆ど機能しない。
 結局アメリカの麻取の思惑通り、セガはチャイニーズ・マフィアの標的となつてしまふ。仲良く寝てゐたところを、カミさんは爆殺(その時セガは異変を感じ、起きて家の周囲を懐中電灯で調べてゐた)。セガの眼前で家はカミさんもろとも、凄く大味なCGで木端微塵。さうしたことからセガは、世界各地に散らばる中ボスを血祭りに上げながらの、大ボスに辿り着くまでのキリング・ロードをスタートさせる。

 恩人の娘でもある助手と、最愛の妻の命を奪つた麻薬組織への復讐を決意したセガ。とりあへずどこから手を着けるのかといふと、冒頭(支那)で飛行機に乗せて貰つた時のパイロットのところに行く。と、いつて支那まで又わざわざ行く訳ではない。そのパイロット、支那で運び屋をやつてゐたかと思へば、普段はニューヨークで飛行機学校の教官をやつてゐるとのこと。時には支那で運び屋をやりつつも、本職はニューヨークの飛行機学校の教官。その人物設定だけでも相当に奇天烈ではあるが、冒頭でキチンと「何かあつたら又声を掛けて呉れよ」、とセガに名刺を渡してゐたりもする分、この映画の中ではまだまだ良心的な内である。その飛行機野郎が案の定組織の一味であつたりする超御都合に比べれば。
 そんなこんなで、セガはまづ一人目の中ボスの所在を掴む。殺戮行脚のスタートである。
 一方超法規的措置により、一民間人を犯罪組織の標的にするといふ、豪快な積極性を見せたアメリカ(と支那の一応合同捜査)の麻取ではあるが、そこから先は清々しい無能振りを大発揮。概ねセガのキリング・ロードを、のこのこ事後にトレースするに終始留まる。

 ここから先がよく判らない。これまでも十二分に不可解な映画ではあるのだが。とりあへずセガがあちらこちらに出向いては中ボスを一人一人始末して行くのは、アクション・シーン自体には普通に見応へがあることも含めていいとして。一人の中ボスを倒して次の中ボスの居場所を掴むところの段取りの説明が、不明確であつたり時には平気で全く無かつたりする。正直本来なら馬鹿みたいに単純である筈の映画、といふか馬鹿相手に作られた馬鹿でも理解出来るべき映画の内容が、よく判らなくなつて来る。尤も、あるべき馬鹿の姿としては、変にちやんと筋を追はうなんて殊勝なことは考へず、常時ものセガ映画の、圧倒的に強いセガが大して強くもない悪者を片端から虐殺して行く、愉快なショー・タイムを楽しんでさへゐればいいのであらうが。
 物語が徒に錯綜して行く、といふか観客を無駄に困惑させるところの所以ははつきりしてゐる。殺されて行くチャイニーズ・マフィアの腕には、一々思はせ振りな入墨がある。これがどうやら一つの暗号になつてゐるらしく、セガはいつの間にか手に入れてゐた(頼むから説明してて呉れ)乱数票で暗号を解読し、更にラストでは驚愕、といふか観客をガクッとさせる真相が明かされる。後々触れる。
 物凄く思はせ振りに支那の獄中で仲良くなつた黒人が、その後に全く一切サッパリ出てきやしない。といつたシーンが序盤にあつた。同様のシーンは、その後も後を絶たない。だから頼むから絶つて呉れ。
 とある中ボスの居場所に出張つた折、プロレスラーみたいに強さうな白人の用心棒(基本的に相手はチャイニーズ・マフィアなので、構成員も東洋人主体)が出て来る。これは後でセガと凄い肉弾戦を見せて呉れるに違ひない、と思つて楽しみに観てゐると、いざアクション・シーンともなると0.5秒であつといふ間に(セガに)拳銃で撃ち殺されて終はり。何だよそりや。
  冒頭で、チャイニーズ・マフィアの襲撃を受けて(理由は不明)客も踊り子も皆殺しにされてしまふストリップ小屋が出て来る。そのストリップ小屋も、数日後には全くそのまま、普通に営業してゐたりする。矢張り本当にホンが出来てゐないまま撮影してゐたのかも知れない。それ以前に、ストリップ小屋そのものも秀逸。その他のシーンでは無駄に脱ぐ女が居るにも関はらず、ストリップ小屋のシーンには乳を見せる女が一人しか居なかつたりする。挙句にそれでも踊り子はそれなりにセクシーな衣装で踊つてゐたりもするのだが、中に一人、最早人数分のセクシー衣装を揃へることすら叶はなかつたのか、ジーパンにタートルネックで踊つてゐる女が居る始末である。その女はお調子者の客といふことなのか?
 そのストリップ小屋の近所に、組織絡みのタトゥー屋があり、珍しく能動的に麻取の支那人の方の女が様子見に行くシーンも、思はせ振りなばかりで全く意味がない。まづとりあへず、ストリップ小屋に乳を見せる女が一人しか居ないにも関はらず、タトゥー屋の女は何故だか二人とも気前良く乳を出してゐるところから、既に映画のバランスを欠いてゐる。店に入つて行く麻取の女。そこで何でだか妙に怖気づいたやうな変な芝居で、尚且つ意味のよく判らないヨーロッパ映画風な会話を(その喩へも我ながらどうかと思ふが)店員の女と交はし、一旦は店を後にする。で、結局は又その直後にヤクを買ふ風を装ひ、その店を再び訪れる。更に今度こそそこで何事かが行はれる訳ですらなく、店の女に別の場所に居る男の所へと連れて行かれるだけなのである。タトゥー屋丸々必要無し。加へて、麻取の女が案内だとかされてゐる内に、支那人の麻取の女とコンビを組む白人の男はザコキャラにボコられて、女が連れて行かれたその建物に監禁されてゐる。結局マフィアを始末してグダグダな展開に白黒をつけるのは、後からやつて来て一味を皆殺しにして去つて行くセガ。ところでセガがどうやつて、その場所を掴んだのかに関しては全く説明されない。
 一番ストレンジなのは、大ボス前、最後の中ボスをセガが片付けた、後にのこのこ麻取が後を辿つてやつて来るシーン。建物から、特に何をした訳でもないのに一仕事終へたやうな顔をして麻取が出て行く場面で、急にアメリカの麻取役の白人が歩いてゐる画が、如何にも思はせ振りなスロー・モーションに。表情は腹に一物持つてゐさうな歪んだニヤケ顔。「あれ、ひよつとしてこいつが全部の黒幕 !?」、整合性は全く成り立ちはしないが、まあないこともない展開でもあらう。するとその白人男は、建物を出た直後にマフィアの残党に撃たれて死亡。その残党を倒すのは、フレームの外から(笑)スタスタと歩いて戻つて来たセガ。意味が無いにも程がある。脳がとろけてしまひさうだ。実は不条理でも描いた映画なのであらうか。

 兎にも角にも、セガは麻薬組織の大ボスの元にまで辿り着く。兎にも角にも、としか最早言ひやうもない。ここで、驚天動地の真相が明かされる。ここで、サスペンス映画でよく使用される、これまでの場景がフラッシュ・バックでパッ、パッと挟み込まれて主人公が事件の真相に思ひ至る、といつた表現手法が用ゐられるのであるが、そのシーンの編集が又完全に狂つてゐる。といふかただ編集のみの問題なのか?決してさうでもないやうな気もする。事ここに至るに及び、殆ど思考を満足に纏めることすら最早覚束ない。さういふ映画である。よく言ふならば、観る者を酔はせる映画、とでもいふことになるのであらうか。無論、悪酔ひである。ひとつひとつのエピソードはバラバラ。推論過程は無茶苦茶。止めに辿り着いた着地点も荒唐無稽。普通に観てゐるだけで、段々と頭がクラクラして来る。ここで明かされる大ボスの魂胆とは、何とセガに中ボスを全部始末させて、組織を全部独り占めしてしまはうといふのである!えええつ !!!!!!!! 何ぢやそりや !? プロットが破綻するにも程がある。神経回路のネットワークが正常な繋がり方をしてゐる人間には、絶対に書けない脚本であらう。壊れてゐるとか何だとかいふ以前に、とてもこんなもの思ひ付けない。
 隠し扉から抜け出し、部屋に火を放ちセガを焼き殺さうとする大ボス。表に停めてあつたリムジンに乗り込まうとしたところを、窓からセガに部屋の壁に掛けてあつた青龍刀を投げ付けられて首チョンパ(その最期もどうなのか)。バッタリと倒れる大ボスの首レス死体。何事もなかつたかのやうに、ドアが自動でバタンと閉まり走り行くリムジン。言葉では全く伝はらないかとも思ふが、このシーンはアメリカのバカ映画といふよりは、ヨーロッパのアート映画のテイストとリズムに近い。
 そんなこんなでリベンジ終了。セガはゴーストといふよりは、正にデス神である。尤もゴーストといふ名称も、マフィアの謀議の中で一度きり使はれるだけなのではあるが。二、三日しか経つてゐない筈なのに、爆殺されたカミさんのことなんてすつかり忘れてしまつたのか、セガは麻取の支那人の女と仲良くなつて終はり。めでたしめでたし、といふよりは寧ろジャンジャン!!とでもいつた趣である。 大体がこれもセガ映画のひとつの目立つた特徴でもあるのだが、カミさん、あるいは恋人が殺されてその復讐がテーマの筈なのに(セガ映画は女房殺害率異様に高し)、その癖行きずりで出会つた女と常時もコロつと懇ろになつてしまふところである。ハッキリ言つてしまふが、セガの性向あるいは性行が色濃く反映されてゐる、と見るものである。

 長々と書き連ねて来たが、これでこの映画の尺は90分。要はそこだけはそこそこ普通に撮つてあるアクション・シーンを除いては、全篇強力に思はせ振りな割りには全く意味の無いシーンと、説明が足らないかもしくは堂々と全く欠如してゐるシーン。何処の国の映画だかよく判らなくなつて来るシーンに、見たことも無いやうなヘッポコ映像と完全に狂つた編集。要はエピソードも展開も全てツッコミ所。逆の意味でなら隙が無い。ある意味奇跡のやうな映画である。折に触れての繰り返しにもなるが、かつて映画に関して語られて来た全ての発言の中で私が最も好きなのは、故淀川長治さんの以下の言葉である。「どんな映画にも必ずどこかひとつ、チャーミングなところがある」。今作は、映画一本丸ごとチャーミングである。

 最後に、これまで採り上げて来たのとは全く異なる意味での、といふかそれ以前のレベルのツッコミをひとつ。セガがカミさんとニューヨークのレストランで飯を食つてゐるシーンがあるのだが、背景に、煙草を吸つてゐる女が居る。女だらうと男だらうとそれ以外だらうと、今時ニューヨークのレストランで煙草は吸へまい。実際にはまづあり得ない光景であらう。その店でセガのカミさん含めて他の客は全員正装をしてゐるのに、セガだけアクティブな普通の格好をしてゐたのも変ではあつたが。


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