木戸からの眺め――旧東海道と古代東海道について

木戸からの眺め――旧東海道と古代東海道について

 律令制のもと、中央と地方諸国を結んだ七本の幹線道路を七道駅路という。その古代東海道が曲金北遺跡として木簡とともに発掘され、静岡市駿河区手越あたりから清見寺方向へ一直線に伸びていたことが確認された。すなわち東海道新幹線の路線取りとほぼ一致しているのだけれど、秋葉寺と矢倉神社を通過するあたりから、沼沢に行く手を阻まれて、清見寺方向へ一直線とはいかなかったように思う。

 武田氏の駿河侵攻により江尻城が築かれ、古い東海道の宿場だった称名寺集落も南下したが、それ以前は矢倉の辻から高橋を経て渋川あたりで渡河して西進したらしく、それはおそらく古代東海道と重なるかもしれない。

 海退によって人の歩ける平野部が広がり、徳川の治世になって巴川に稚児橋がかけられ、江尻宿は海寄りの旧東海道に付け替えされた。
 巴川北岸の宿場を過ぎ魚町稲荷前で左折して稚児橋を渡り、久能街道と分岐した東海道は入江の木戸を抜け宿場外へ出て、まっすぐ古代東海道曲金北遺跡方向へ向かう。



 入江の木戸あたりから遠望する旧東海道。木戸跡あたりの標高が5メートル、追分羊かんあたりまで平坦に進み、東海道線と静鉄の踏切で標高8メートル、正面奥に木立が見えるイオンと上原堤、狐が崎駅入り口あたりで標高15メートルとなる。西へ向かう江戸時代の旅人はその高みを見つめてまっすぐ歩いたのだろう。

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江尻宿の摩尼車

江尻宿の摩尼車

  静岡市清水区の入江という町は自分が生まれた町で、編集委員をしている雑誌の江尻宿取材もあって、今年は何度か足を運ぶことになっている。

 旧東海道に沿っていくつか寺があり、慈雲禅寺と東明禅院の参道は長い。徳川の世になって東海道が整備される前は、180度反対向き、白髭神社前の道に正対しており、裏手に新道ができたので本堂が回れ右したからだ。その新道である東海道は旧町割りに対して少し斜交して取り付けられたので、道に面した地所は正面に直角を持たないものが多い。

  久しぶりに参道を歩いて門をくぐったらマニ車があった。漢字だと摩尼車と書き、おもにチベット仏教で用いられて転経器ともいう。転経器と書くと分かりやすくて、中に経文が収められていて、人が回した回数だけ読経したことになる。

 日本でも決して珍しくはないらしいのだけれど、昨年、駒込病院前からバスに乗って北千住まで散歩した際に、小さな寺で古びた仏教用具を見つけ、これはなんだとネットでつぶやいて、マニ車だと教えてもらったのだった。郷里の寺で見るとは思わなかったので、もう一度びっくりした。

 旧東海道沿いの家々は、間口が狭く奥行きが深い。本郷町の旧家裏に回ると敷地内に小さな祠の屋根が見える。慈雲禅寺脇で工事のため更地が出来ていたので、まわってみると奥深い旧家裏が見え、鳥居と歳月を経た樹木があった。魚虎さんが大切に祀られてきた御神木だという。よいものを見た。

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赤い果実

赤い果実

 祖父母の家があった静岡県清水の大内田んぼは、かつて嫁殺しの田んぼという異名があったように、たいへん水に恵まれた、というか底なしの泥田で、お百姓が田んぼに落ちている笠を拾おうとしたら、その下に旅の僧侶がぶら下がっていた、などという恐ろしい話がつたわっている。

 田んぼに赤い旗が立って農薬散布が始まる以前の昭和三十年代、この田んぼと農業用水にはたくさんのシジミやタニシやカワニナなどの貝たちがいた。8月8日の墓参りの際、北街道脇から寺のある帆掛山側を見たら、湧き出した水を集めた小川の側溝に、赤い果実のようなつぶつぶがたくさん付着していた。


 これは通称ジャンボタニシ、スクミリンゴガイの卵であり、子どもは水上でふ化して水中に落ちる。子どもの頃、バケツを持って歩くとたくさんのジャンボタニシがとれ、お百姓に褒められるのでよくとったものだった。死滅してしまったものと思っていたけれどまだ生き残っていた。農業害虫として駆除するなら、水中に掻き落とすと死んでしまってふ化しないらしい。



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特養ホームで考えたこと(2015/08/09)

特養ホームで考えたこと(2015/08/09)

 ケアワーカに「ゆっくり食べようね」とか、「手があるんだからお茶碗持ってお箸で食べましょう」と声かけされているお年寄りは、ひたすら眠いのではないかな。

 Sさんを見ていると眠くて目を閉じていることが多いのだけれど、目を開けていてもほとんど見えていないように思われる。

 眠気と戦いながら急いで食べたいし、白内障があるのか食べ物が見えにくいので、箸やスプーンを置き、手探りして手づかみで食べている。

 目が見えないということについても、人は認知の力があるから悲嘆し絶望したりするのかもしれない。

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隠遁的処世について

隠遁的処世について

  戦争になったら逃げたい。巻き込まれまいとしても巻き込まれてしまうのは、戦争反対と振り上げた拳が、そういう自分の責任を問うように、自分の頭上に落ちてくるのを避けられないという、絶望的に愚かしい人の宿命を感じるからだ。

幕末の血で血を洗う大騒ぎの中でも、ただひたすら逃げたいと思った人はいないのだろうかと思っていたら、柳田國男にこんなことが書かれていた。

幕末のころ江戸の周辺に縁故を求めて逃げていた人々が多かったが 、これもその一つで 、幕末の裏面史としては哀れな話であった 。( 『神隠し・隠れ里 柳田国男傑作選』 柳田国男、大塚英志編

幕末の学者田中江村が維新の動乱を逃れて身を寄せたのが、いま柳田國男記念公苑になっている茨城県北相馬郡利根町布川の小川家だったという話。


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山の向こう

山の向こう

 

 8月8日は母親、十回目の命日だったので、駒込駅午前4時32分発の山手線外回りに乗って清水に向かった。

 清水駅に降り立ち、改札前の売店で末廣寿司の弁当を買い、清水駅前8時27分発のしずてつジャストライン北街道線静岡駅前行きに乗り、押切西バス停で降り、塩田川沿い遊歩道のベンチに腰掛けて朝食にした。

 東京、六義園界隈では聞くことのないクマゼミの大合唱を聞いていると、夏の高部、川遊びに興じた昔のことがあれこれ思い出される。

 墓地に着いたら、最近は参ってくれる親戚もなくなり、夏草がぼうぼうと茂っているので、バケツに水を汲み、軍手をはき、墓石を洗いながら草むしりをした。

 墓地内をひとりごと言いながら歩いているおじいさんがいて、水場脇で目があったので挨拶したら、人懐こい笑顔で近づいてきて
「こんな山の奥に立派な寺があるなあ」
と言うので、

「立派ではないけれどおもしろい寺ですよ」

と答えた。そうしたら掃除中の墓のそばまでついてきて、

「ここの墓は高いんでしょうなあ」

と言うので、

「この寺は高くないと思いますよ」

と答えたら

「200万くらいかな」

と言うので、

「ぜーんぜん、20年も前に買ったけど、墓石の方が高いくらい」

と言ったら

「石の値段はいろいろあるから」

と言う。

「この辺の方ですか」

と聞いたら後ろの山を振り返って

「山の向こうから」

と言うので

「ああ柏尾のほうですか」

と言ったら複雑な薄ら笑いをしていた。


|山の麓に接した墓地なので草むしりすると軍手がこんなふうになる|

 柳田國男はほとんど読んだことがない。kindle で電子書籍として読めることがわかったので 『神隠し・隠れ里 柳田国男傑作選』 柳田国男、大塚英志編ほか三冊を購入して、読みながら帰省した。

 このあと墓参りの途中で大変なことが起こったので、山の向こうから来たという、薄ら笑いの老人のことも一緒になって忘れがたいのだけれど、それはちょっと読みかけた柳田國男のせいかもしれない。大変な出来事については、日記に書けるようなことでもないので、数人の人に詳しいメールを書いた。


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中心のおもしろさ

中心のおもしろさ

 特別養護老人ホームの夏祭りで、白くてまん丸いおむすびが配られていた。 「いかがですか」 とケアワーカーがすすめてくれるので、ふたつもらって、ひとつを妻に渡したら、パクッと食べた断面を見ながら、 「梅干しくらい入れておけばいいのに」 と言う。

 海苔を巻かない白いおむすびは、中心に何も入っていないからおいしいと思うのだけれど、おいしいかどうかという味覚的感じ方とは別に、中心という場所に多面的な論点が存在する。

 塩をまぶしてぎゅっと握った、なにものにも邪魔をされない米本来のうまみについてと、猛暑の屋外で過ごす人への塩分補給という配慮と、菌の繁殖による腐敗防止についての工夫では、そもそもまったく論点が異なる。

 おむすびの話は置くとして、中心が空 (くう) であることの善し悪しを、他者と共有するには高度な思考が求められる。 『鎮守の森は甦る――社叢学事始』 思文閣出版を読んでいたら、編者である上田正昭と上田篤の対談がおもしろい。中心というものについて触れている話が出てきたので、ふたつ並べて書き抜いておいた。

「私は五重塔の心柱ということについて色々調べてみたのですが、中国の木造の五重塔には心柱がないのです。中国の大同にある応県木塔は日本の五重塔とよく似ていますが、中に階段があって、各階に上がれるようになっている。そして各階の中心には仏像が置いてある。これに対して、日本の五重塔は心柱が通っていて、仏像などはほとんど置いていません」 (上田篤)

「松江市の乃自町・乃木福富町・浜乃木町にまたがる遺跡で保存運動に私も協力した田和山遺跡が注目されます。これは弥生時代前期から中期のもので、二重の濠のある貴重な遺跡です。はじめは集落跡だと思われていたのですが、じつは濠の中には住居はなく、二重の濠の外側に住居跡群がある」 (上田正昭)

 前者は、真ん中にある心柱こそが神柱で信仰の対象であること、すなわち、五重塔の建物は心柱のための鞘堂にすぎない可能性について、後者は環濠がいわゆる集落の防御用にあるのではなく、中心にある信仰の対象を護るためのものだったということのおもしろさについて述べている。ね、おもしろいでしょう?



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駕籠町公園

駕籠町公園

 東京は猛暑日連続記録を更新中だそうで、毎日スマホに熱中症警戒情報が届く。子どもの頃から夏好きで、熱暑になると燃えるので、日差しの強い昼どきは嬉々として散歩し、シャツが塩田になるような大汗をかいている。

 さすがに猛暑の中では、幼児を遊ばせるお母さんたちの姿も見ないので、怪しいおじさんに見られるのが嫌で足を踏み入れたことのない、児童公園内を観察したらなかなか面白い。小さな公園内にいろいろな 「なるほど!」 がある。

 昭和52年に開園した駕籠町公園は、いま村田女子高等学校・村田学園小石川女子中学校のある場所にあった。現在地へ移転したのは平成10年だそうなので、古い公園の姿を覚えていてもおかしくないのだけれどなぜか記憶がない。

 地域住民の要望をうけて設置されたという、巣鴨御駕籠町の地名由来を記した石碑があり、簡潔にまとめられた文章も読んでみると意外に奥が深くて面白い。電子書籍で持ち歩いている大石学 『地名で読む江戸の町』 PHP新書にも、江畑潤 『文京区史跡散歩』 学生社にも御駕籠町の解説はないのでありがたい。

 将軍の駕籠を担ぐ御駕籠の者、五十一名に屋敷を与えて住まわせたのが町名の由来だという。御駕籠の者は背が高い者が選ばれ、秘密厳守が義務付けられた。確かに駕籠を担ぐ者の背が低いと支障がありそうだし、将軍御用の際は帯刀を許されて、ことあらば将軍の身を守ることもあるわけで、身体屈強であることが求められたことだろう。秘密に接する機会も多いから、屋敷を与えてこの町内に封ぜられたという格好なのかもしれなくて、宿場の駕籠かきのように身軽な商売ではない。


 元は駕籠町小学校プールがあった場所だそうで、その頃からあったものか、新たに掘られたものかはわからないけれど井戸があり、手押しポンプを操作したら当たり前だけれど冷たい水が出た。ポンプ異常なし。奥にある木は桃だと聞いたので、近寄って見上げたら確かに実が付いていた。桃の実、生育状態良し。


 この夏は編集委員をしている郷土誌に、郷里のお宮さんについて原稿を書いている。かつて、お宮さんの広場というのは広義のアジールとしての機能を有していて、地域の子どもたちの安全を見守っていた。児童公園がそういう聖域であり、不審者が近寄り難い場所であるためにも、用がなくても散歩に立ち寄って無用の観察をし、軽い睨みを効かせるくらいのことは、地域の大人にとって大切なことかもしれない。



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埴谷・吉本論争のヒトデ

 

埴谷・吉本論争のヒトデ

 高等遊民が樽の中に引きこもって夢想したような埴谷雄高の大衆像にたいして、吉本隆明のそれは、六十年安保デモ参加者による賑わいを当てこんで屋台を出すアンパン屋のような、生活者の目線から見た等身大の大衆像だった…というなかなか良い総括のあたりで、 「デモの人手を当てこんで」 となっているのを見つけて引っかかった。




 六十年安保デモ参加者による賑わいを当てこんで屋台を出すにも人手がいる、という意味合いではなくて、六十年安保デモにはそうとうな人出が見込まれるという意味の、人出を人手と誤植したのだろう。

 古事記や日本書記の昔から、日本語は読みにどういう漢字を当てるかがいいかげんにしろと言いたいほど自由で、ひとつの読みにたくさんの当て字が存在するので、ひょっとすると 「ひとでがたりない」 も 「ひとでがみこまれる」 も、どちらも 「人手」 と書くこともある、などと書かれた辞書がないか念のため調べてみたがなかった。



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内藤湖南『近畿地方に於ける神社』が面白くてたまらないという話

内藤湖南『近畿地方に於ける神社』が面白くてたまらないという話

  東洋史学者(国史ではない)内藤湖南が書いた「近畿地方に於ける神社」が青空文庫で読めるのを知ったのでダウンロードしてみた。
 「一體崇道(すどう)神社といふものは私にとつては何でもないことでありまして、そんな事を調べる必要は無いのでありますが、それに興味を感ずるやうになりましたのは…」
という物言いが可笑しくて笑える。調べてみたら
「一体他流試合と申すもので、一寸も私の専門に関係のないことであります」
という前置きをして、日本史を研究するのに応仁の乱以前の古代史など調べる必要はないといった、挑戦的な物言いで講演をした人らしい。面白いなぁ。

 「…ことに京都が帝都になりました關係から、其の時分の大きな神社を一般に尊敬するやうになりましたり、或は又天子が尊崇される神樣とか、或は其の他の大きな神社といふものが段々世に尊敬されて行きました。大和地方などでも龍田などは天武天皇が特別に尊崇されたからそれが盛になつた。一體それがどういふ譯で尊崇されたか分らぬが、兎に角天子が特別に尊崇されることになるとそれが繁昌することになります。」
こういう自分の専門外だからざっくばらんに言いたいことを言わしてもらうけど、的な書き方がなんとも言えず可笑しくて壮快感がある。

 「…それで段々加茂の氏人が擴つて來て、元の出雲氏の占めて居つた京都の北部地方を段々占領しまして、出雲井於神社といふもとの神樣は隅の方に押遣られて、其の大部分は下加茂の境内になつてしまつたといふ形になつたのでありますが、併し其處を占領したからといつて、他の氏族が崇敬して居つた神社を無暗に取拂つて仕舞ふといふことはしないのが我が古の習俗である。」
これなんかは、なるほどなぁ、わかりいいなぁと思う。神社の境内を歩くと、相殿とか合祀とか合祭とかいって、本殿脇や裏の薄暗いところにいろいろな神様が小さな祠になって祀られているが、別の神が別の神の領分を乗っ取ったのだけれど、無暗に取拂つて仕舞うわけにはいかないから、という事情が滲み出ていることが多い。
「一つは又さういふことをしますと能く祟つたものでありますから、神樣を取除けると必ずそれが祟るといふので、大方祟りの爲めに昔からあるものは其のまゝ据ゑてあつた」
というのも、靖国神社のA級戦犯合祀問題にも通じる
「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれた徳ありて、何畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは言ふなり。」
と本居宣長『古事記伝』(巻三)をひいて、正邪はともかく世の常ならぬ者の祟りを鎮めるために祀るのだと言い抜けるあれだ。昔からそういうことをやっている。

 郷里静岡県清水のお宮さんに聳え立っている楠の巨木、あれはそもそも鳥が運んできた糞に混じってそこに生えたものが、成長が早い樹種のためあっというまに大きくなり、尋常(よのつね)ならずすぐれた木に見えて御神木とされたものと思われるが、楠を切ると祟りのため大勢の人死にが出ると言われていて、植木職人も伐採を嫌がったからということもあるらしい。そういう話を思い出した。続きを読もう。

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標準とモノクローム

標準とモノクローム

 広角レンズよりまず標準レンズ、カラー写真よりまずモノクロ写真というのが、写真がデジタル処理になる以前、なにをするにもそれ相応に金がかかった時代の常識だった。というか交換レンズやカラー写真は、庶民にとってなかなか手の届かない贅沢品だったのである。

 28ミリの広角レンズとフルカラーが当たり前の時代になって、他人が写した写真を見せられるたびに、写される写真が平板でつまらなくなったと思うことが多い。その一方で広角レンズじゃないとパンチがない、白黒写真は陰気臭くてきらいだという若い人も増えているように思う。

|本郷五丁目、夕暮れのカンナ|


 初めて自前のカメラをもったころのように、標準レンズと呼ばれるお仕着せの画角で、再現できない色彩の名残を惜しむように撮ったモノクローム写真を、最近は懐かしく思うことが多い。関川さんの本を読んでいたら、その辺のところを上手な日本語で書いておられた。ちょっとメモしておく。

「カラー写真もまた視野の野放図な広がりとおなじく、無用な情報を多量に呼びこむ。それ自体をたのしむというやりかたもあるにはあるのだが、含まれる情報の過剰さは記憶への深い彫りこみをさまたげる。従って、色彩の鮮やかさはむしろ、煙のようにはかない表現しか生まない可能性がある。」 (関川夏央 『昭和時代回想』 集英社より)



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夏とアジール

夏とアジール

 この夏は神社と神社をめぐる樹木について考え事をしていて、電子化されている書籍を kindle で検索したら、島田裕巳 『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』 幻冬舎新書以外に、内藤湖南 『近畿地方における神社』 、内村鑑三 『デンマルク国の話 信仰と樹木とをもって国を救いし話』 、南方熊楠 『神社合祀に関する意見』 があったので、まとめてダウンロードした。

 明け方目が覚めたのでそれらをパラパラと試し読みし、二度寝したら、寝ぼけて考え事をしたのに近い、うすぼやけた夢を見た。

 いまのマンションに引っ越してきた二十年ほど前、当時は管理組合による自主管理も甘かったのか、管理規約を無視し、マンションの一区画を使って学習塾を開いていた者がいた。
 当然、学校が終わって早めに着いてしまった子どもたちの居場所など用意されていなくて、駐車場にとめられた車の間にうずくまってカップ麺を食べたり、トイレが我慢できず非常用内階段で用を足したりし、金儲けの犠牲となる子どもたちに同情しつつ憤慨したものだった。

|路地裏の広場にいる人間を警戒する猫(東大赤門前あたり)|



 昭和の時代、放課後に身の置き場がない子どもたちにとって、お宮さんの森はありがたい居場所になっていた。お宮さんの森がない都会暮らしでは、近所の町会事務所前がそんな場所になっていた。さらに二階に上がれば格安でそろばん塾が開かれており、遊び感覚で珠算が身につき、町内の学生さんたちにとっても、そろばん塾の先生は格好の小遣い稼ぎになっていたのだと思う。

 社叢学の本を読んでいたら、昔は神社が寄る辺なき者のアジール、すなわち 「聖域」 であり 「自由領域」 であり 「避難所」 になっていたと書かれていた。駐車場も、内階段も、町会事務所も一種のゆるいアジールだったと思えることを深く考えてみたくて、 夏目琢史 『アジールの日本史』  同成社を近所の書店に注文した。



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夢の揮発と電子書籍

夢の揮発と電子書籍

  親類の家に上がりこんで泊めてもらい、ただで朝食をご馳走になるため、眠い目をこすりながら起き出し、ちょっと遠慮しながらおずおずと食卓に向かったら、 「大学うかってよかったな」 と叔父に言われ、滑り止めに受験した私立大学になんとか合格したことを思い出し、 「ありがとうございます」 と答えながら、また四年間、高い学費と生活費を母親に払わせるのかと暗澹たる気持ちになる、という嫌な夢を見た。

 夢というのは揮発性が高いので、ちょっと時間をおけばすぐ忘れてしまえるのだけれど、一刻も早く忘れるためには読書が有効で、枕元にあるスマホで電子書籍を読むことにしたている。
 今朝は、布団の中で関川夏央 『昭和時代回想』 集英社文庫の電子書籍版を読了した。この本は嫌な夢を見て未明に目覚めるたびに、ちびちびと熟読したので読み終えるまで随分時間がかかった。

 「画家・田畑あきら子が残した言葉」 の章で出てくる洲之内徹 『気まぐれ美術館』 が再読したくなり、紙の書籍は持っているけれど、名著だし電子書籍化されていないかなと思って検索したら、電子書籍どころか紙の書籍すら絶版になっていた (2015年8月1日現在)。こういうことがあるたびに、もったいない話だなと思う。

 鈴木貞美 『自由の壁』 集英社新書を kindle 版の電子書籍で読み始めた。この本は先ほど読み終えた関川夏央 『昭和時代回想』 集英社文庫の kindle 版と共通点があり、どちらも Mac 版の kindle リーダー (1.12.0) では、この端末との互換性がないというアラートが出て読み込めない。集英社の電子書籍はこの 2 冊しか持っていないので、集英社の本に共通するのかはわからないが、他社の本でこういうことはない。



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