▼コンクと黒焼き

 

 書道教室前に小学一年生から中学一年生まで、歳の順に並べて作品が飾られていた。どの子も上手だけれど、小学一年生の書いた「りぼん」の三文字が嬉しそうでいいなぁと思う。




子どもたちの書いた作品。



 「りぼん」の文字を見ていたたらリボンちゃんが登場するCMの「濃縮リボンジュース」を思い出した。昭和三十年代の家庭では夏になると麦茶を湧かしたり、カルピスや粉末ジュースや濃縮ジュースを薄めて飲んでいた。我が家ではリボンジュースではなくコンクジュースというものを時々もらい、それを水道の水で薄めて飲んでいた。「コンク」は「Concentrate」のことで果汁を濃縮してドロドロにしたものだった。




黒焼き専門店店頭にて。



 黒焼き専門店の飾り窓に素焼きの壺が並んでいる。黒焼きとはカタツムリ、タニシ、モグラ、トンボ、まむし、フナ、タイ、ミミズ、スッポン、イモリ、コウモリ、ウナギ、ニンニク、ナス、玄米、梅干、昆布、ノビルなどなど、いろいろなものを壺に入れて、炭化するまで蒸し焼きにして、その粉を薬用とする伝承療法のことだ。
 瓦職人だった祖父は、田舎道でヘビを捕まえて来ると、生きたままクルクルと丸めて壺に入れ、瓦を焼く釜に入れて黒焼きを作り、滋養強壮に良いのだと言って自分で服用していたという。焼き上がった壺の中を恐る恐るのぞいたら、ヘビが小さな炭になっていて驚いたと母が話していた。黒焼きもまた「コンク=Concentrate」の一種と考えられなくもない。

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▼文久の雪達磨

 


 仕事の打ち合わせで東京都新宿区百人町に出かける途中、蝉の鳴き声に誘われて皆中稲荷神社(かいちゅういなりじんじゃ) 境内を歩いたら、手水舎の手水鉢にたたえられた水が涼しげだった。




皆中稲荷神社にて。



 ずいぶん年季が入って味わいのある手水鉢なので脇にまわってみたら文久元年奉納とある。文久元年は西暦でいうと1861年で、歴史年表を見ると幕末の志士たちが各地で活躍する慌ただしい年であり、この時代の話しがよく出てくる岡本綺堂『半七捕物帳』雪達磨に、文久元年に関する記述があった。岡本綺堂の名文による暑気払いにふさわしい涼しげな語りを抜き出してみた。




文久元年の刻印がある手水鉢。


 文久元年の冬には、江戸に一度も雪が降らなかった。冬じゅうに少しも雪を見ないというのは、殆ど前代未聞の奇蹟であるかのように、江戸の人々が不思議がって云いはやしていると、その埋め合わせというのか、あくる年の文久二年の春には、正月の元旦から大雪がふり出して、三ガ日の間ふり通した結果は、八百八町を真っ白に埋めてしまった。
 故老の口碑によると、この雪は三尺も積ったと伝えられている。江戸で三尺の雪――それは余ほど割引きをして聞かなければならないが、ともかくも其の雪が正月の二十日頃まで消え残っていたというのから推し量ると、かなりの多量であったことは想像するに難くない。少なくとも江戸に於いては、近年未曾有の大雪であったに相違ない。
 それほどの大雪にうずめられている間に、のん気な江戸の人達は、たとい回礼に出ることを怠っても、雪達磨をこしらえることを忘れなかった。諸方の辻々には思い思いの意匠を凝らした雪達磨が、申し合わせたように炭団(たどん)の大きい眼をむいて座禅をくんでいた。ことに今年はその材料が豊富であるので、場所によっては見あげるばかりの大達磨が、雪解け路に行き悩んでいる往来の人々を睥睨(へいげい)しながら坐り込んでいた。
 しかもそれらの大小達磨は、いつまでも大江戸のまん中にのさばり返って存在することを許されなかった。七草(ななくさ)も過ぎ、蔵開きの十一日も過ぎてくると、かれらの影もだんだんに薄れて、日あたりの向きによって頭の上から融(と)けて来るのもあった。肩のあたりから頽(くず)れて来るのもあった。腰のぬけたのもあった。こうして惨(みじ)めな、みにくい姿を晒(さら)しながら、黒い眼玉ばかりを形見に残して、かれらの白いかげは大江戸の巷(ちまた)から一つ一つ消えて行った。
 その消えてゆく運命を荷(にな)っている雪達磨のうちでも、日かげに陣取っていたものは比較的に長い寿命を保つことが出来た。一ツ橋門外の二番御火除(ひよ)け地の隅に居据(いすわ)っている雪だるまも、一方に曲木(まがき)家の御用屋敷を折り廻しているので、正月の十五日頃までは満足にその形骸(けいがい)を保っていたが、藪入りも過ぎた十七日には朝から寒さが俄かにゆるんだので、もう堪まらなくなって脆(もろ)くもその形をくずしはじめた。これは高さ六、七尺の大きいものであったが、それがだんだんとくずれ出すと共に、その白いかたまりの底には更にひとりの人間があたかも座禅を組んだような形をしているのが見いだされた。
「や、雪達磨のなかに人間が埋まっていた」
 この噂がそれからそれへと拡がって、近所の者どもはこの雪達磨のまわりに集まった。雪のなかに坐っていたのは四十二三の男で、さのみ見苦しからぬ服装(みなり)をしていたが、江戸の人間でないことはすぐに覚(さと)られた。男の死骸(しがい)は辻番から更に近所の自身番に運ばれて、町奉行所から出張した与力同心の検視をうけた。
(半七捕物帳 雪達磨 岡本綺堂より)





皆中稲荷神社掲示板。



こうして読んでみると、残暑のなか日陰に寝ころんで、こういう涼しい話を読んで暑気払いするのも良いものだと思う。やはり名文の力はすごい。

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【変わらないけど変わっている】

【変わらないけど変わっている】
 

 静岡市葵区長谷町にて。
「アイスクリーム屋とかけて道路工事と解く」
「アイスクリーム屋とかけて道路工事と解く、その心は」
「どちらもコーンがつきものです」

 そういうくだらないひとり大喜利がしたくなる、なぜかカラーコーンのある一富士店頭。
 わが母が産まれた頃から存在していたらしい古いアイスクリーム屋。持ち帰り用のアイスクリームはまだ食べたことがないのだけれど、円錐形のコーンではなく壺のような形の最中の皮で挟まれている。ひょっとして茶壺だろうか。

 おばちゃんに話しを聞くと昔から変わっていないというし、インターネットのブログを見ると昔のままで変わっていないと懐かしがる人が多い。それでも数年前に自分が撮影した同じアングルの写真を見ると、ブルーのテントやのれんが今のものとは違っている。変わっていないような姿を維持するために変わり続けているわけで、そういう努力に敬服する。

 

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▼水の国と地震の国

 

 8月10日、激しい雨の中、小石川まで打ち合わせに出て、用件が済んで外に出たら雨が一時的にあがっていたので樋口一葉ゆかりの旧本郷田町から石坂という名の坂をのぼり、西片町を経て本郷通りを歩いて帰宅した。雨が降っていないだけで大気は絞りたいほどの水分を含んでおり、日本という国は水浸しの国なんだなぁとつくづく思う。




石坂は妙に面白い表情を見せる坂で、角度を変えて撮影してみた。



 静岡県尋常中学校、いまの静岡県立静岡高等学校を卒業した上田敏は1897(明治30)年に東京帝国大学英文科を卒業するが、在学中は講師だった小泉八雲に教えを受けている。上田敏が小泉八雲に「英語を以て自己を表現する事のできる一万人中唯一人の日本人学生である」と絶賛されて卒業した1897(明治30)年は、小泉八雲が晩年愛した焼津を初めて訪れた年にあたっており、上田敏と小泉八雲と静岡がこの年において小さな接点を持っている。上田敏は41歳という若さで他界しているが、この石坂をのぼった先にある西片町に住んでいた。




ドコモショップで貰ったマウス操作時の手首枕。
ビニール素材を整形して水を封入した簡便なものなのだけれどとても良くできていて
水という素材の使い方が優れている。



 大雨や台風と地震の発生が妙な関連性をもって感じられることが多い。
 8月11日早朝に地震があり、先日も関東地方で地震があったのでその余震かと一瞬思った。このところ地震が多いのは、長雨が続いた上に台風が接近しているせいかな、と思いつつ枕元に転がして寝ている小さなコンピュータで地震情報を検索したら、駿河湾を震源とするマグニチュード6弱の地震だったのでビックリした。清水も震度5強の揺れがあったと速報にあった。




1.8リットル入りの焼酎『眞露』についてくるおまけのヒップフラスコ。
液体の見せ方が綺麗で気に入っている。



 清水の友人たちはは大丈夫かとtwitterに接続したら、安否情報が次々に投稿されており、家財道具の破損はあったものの怪我人がいないようなので安心した。情報の速報性と、安否確認などの双方向性において、いざというときはテレビよりネットにつながる端末を身近に置いておく方が役に立つことを実感した。
 屋根瓦が落下した家屋の被害情報を見て、築55年の実家解体がまだ終わっていなかったら…と思うとぞっとする。

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【しずてつジャストラインバス視察】

【しずてつジャストラインバス視察】
 
 
 8月8日、墓参りを終えて大内観音前バス停から北街道経由静岡駅行きのしずてつジャストラインバスに乗った。

 



左から清水区大内の古道、保蟹寺にて、大内観音前バス停にて。

 普段、都営バスに乗り慣れていて、しずてつバスに乗った際まず戸惑うのが、後ろのドアから乗車し前のドアから降車する際に料金後払いになることで、前のドアから乗車し乗車時に均一運賃前払いをして中央のドアから下車する都営バスと方式が逆になっていることだ。
picture そういうしくみなので乗車距離によって運賃が変わっていくしずてつバスでは(1)のように運転席脇に料金掲示板がある。
 料金支払い時に釣り銭がいらないよう、あらかじめ走行中に両替しておくのがマナーになっているのか、走行中にすたすた車内を歩いて(2)の料金箱についている両替機で両替している人をよく目にする。都営バスなら、危ないから走行中は席を立つなと注意される光景だ。
 この料金箱は料金を投入する機能以外に、両替機能、プリペイドカード読み取り機能、タッチ式の料金支払いカード機能がついたハイブリッド構造になっている。
 なかなか商売上手で(3)のように車内で傘が販売されており、降車時に雨が降っている際にはお客の「泣きっ面に傘」機能もある。
 (4)のようにチラシがぶら下げられていて暇そうな人がちぎって読んでいる。バスの広告収入獲得には車内広告よりこうやってチラシを置かせる方が有効かもしれない。
 このバスはかなり古い車両かもしれなくて(5)の位置にブルーの円錐形一輪挿しがあり、昔のバスに必ず花が飾られていた時代を思い出して懐かしく、ちょっとしたレトロ感あふれる乗客サービスになっている。
 清水・静岡の友だちは(6)のポスターにある『くら寿司』の話しをよくしているのだけれど、まるで常識のように話される『くら寿司』を知らないので戸惑う。小学生時代、清水に帰省するたびに友だちが話している「マルちゃん」のラーメンの話がわからなかったのに似ている。清水区にも葵区にも『くら寿司』があるけれど、東京23区で『くら寿司』があるのは6区だけで、文京区にはないのだ。



北街道をゆくしずてつジャストラインバス。

 そんなことを考えながら、都営バスから派遣された視察団のようにしずてつジャストラインバスを観察していたら、あっという間に静岡駅前に着いていた。

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▼カレー南蛮百連発:029




 静岡県清水。
 駿府ライナーに乗って日帰り墓参り帰省をし、清水到着が昼時だったので、手っ取り早くバス停前の蕎麦屋に入ってみた。清水発祥の蕎麦チェーンで、元気だった頃の母は、このチェーン店名物の桜エビかき揚げ蕎麦が大好きだった。
「安くて美味しいから、清水に帰ってきたら一緒に行こう」
と言われていたけれど、結局母と来たことはない。
 母の立ち日なので、母が好きだったチェーン店で桜エビかき揚げ蕎麦を食べるのも供養のうちかと思って入ったのだけれど、意表を突くようにメニューにカレー蕎麦があった。




意表を突かれたカレー蕎麦。



 メニューに写真があったので、カレー蕎麦に海苔が添えてあることも、桜エビのかき揚げがのっていることも驚きはしなかったのだけれど、食べてみたらびっくりした。
 母は巣鴨地蔵通り商店街近くにあるカレーうどんの人気店『古奈屋』のカレーうどんが大好きで、上京すると『古奈屋』での昼食を楽しみにしていた。『古奈屋』のカレーうどんはカレーをたっぷりの牛乳で割ってつゆを作るのだけれど、それに酷似している。
 母が隣にいたらどんなに喜ぶだろうと思うと、何とも不思議な『古奈屋』のカレーうどん“蕎麦バージョン”との出会いだった。
 気のせいかもしれないけれど、かすかにココナツミルクの香りがし、それがアジアンカレームードを醸し出していたような気がする。桜エビかき揚げも妙にマッチしていて美味しい。

 
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【8月8日の小言念仏】

【8月8日の小言念仏】
 

 8月8日は母親の4回目の命日なので、新宿発静岡行き駿府ライナーに乗って日帰り墓参り帰省した。
 静岡インターを使わず清水インターを使い、北街道沿いに客を乗せたり降ろしたりする路線設定はなかなかふるっていると思い、押切停留所で降りる客も結構いるんじゃないかと思ったが結局一人だけで、北街道を遠ざかっていく駿府ライナーの後ろ姿を眺めて自分が風景の中でちいさな点になっているような気がした。



墓参り途上に歩く塩田川土手の道。

 北街道沿いで簡単な昼食をとり、『ふれっぴー高部店』で墓参り用の花を6束買った。同じく清水野菜村コーナーに、庵原で一昨年亡くなった友だちの農園が椎茸を持ち込んでおり、なつかしい名前が刻印されているので、キュウリ、ナス、オクラ、インゲンなどとともに椎茸を買い込んで東京みやげにした。



墓参り途上に歩く塩田川土手の道。

 故人が亡くなった日を命日と言うが、祥月命日(しょうつきめいにち)と言う人もおり「しょうげつめいにち」と読む人もいるので、初めて聞いたときは「しょうがつめいにち」と聞こえてしまい、正月と命日がどう関係あるのだろうと首をかしげたものだった。わが親戚では命日のことを「立ち日」と呼ぶことが多く、「立ち日」とは文字通り、故人が死出の旅立ちをした日のことだ。



墓参り途上に歩く塩田川土手の下。

 押切バス停で降りて寺まで歩いて墓参りをし、そのまま大内観音前からしずてつジャストラインバスに乗って静岡駅に行き、清水野菜村の野菜と、大好きな東海軒の鯛飯を買ってとんぼ返り帰京するので、半ズボンのまま家を出たら藪蚊に刺されて大失敗だった。

 蚊にくわれながら墓前で目を閉じて手を合わせ、故人に話しかけるように「(墓に供える線香が蚊取り効果もあったらいいのにと思うけど、殺生することになるのでまずいかなぁ…)」などと思う。昔、神妙に坊さんの話を聞いている最中に、腕にアブがたかったのでビックリして叩きつぶして「(ざまあみろ)」と死んだアブを見ていたら、睨まれたことがあるけれど、墓前の線香で藪蚊を殲滅したら気持ちいいだろうな、と思うくらいに痒い。落語の『小言念仏』みたいな墓参りだった。

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【大いなる野生のカメ】

【大いなる野生のカメ】
 


 静岡市清水区押切。
 母親の墓参りに通う際に通りかかる田んぼ。5月31日も、7月18日もそうだったけれど、田んぼの様子をのぞき込んだ途端、畦で甲羅干しをしていた野生のカメが人の気配に驚き、もの凄い勢いで水中に飛び込むのを見て、かつて日記にこう書いた。

「 5月31日もそうだったし、この日もそうだけれど、手前の水路の角にスッポンが住んでいて、上からのぞき込むと甲羅干しをしており、人の気配に気づくとカメとは思えない素早い身のこなしで水中に逃げて行く。あまりに敏捷なのでスッポン取りも容易くはなかったんだろうなと考えを改めた。」



左から、カメがいつも寝ている田んぼの角、鳥除けネットが張られた田んぼ、こちらは田植えが遅かったせいか実の付き方が遅い田んぼ。

 8月8日。この日はあまりに暑くてカメもダウンしていたのか、いつもより反応が鈍くて、甲羅干ししている姿をついに撮影することができたのだけれど、なんとスッポンなどではなく日本各地に繁殖して困っている巨大化したミドリガメだった。
 六義園で、池近くに人影を見つけると餌欲しさに集まってきて口を開けている愚鈍なミドリガメばかり見ていたので、柔道の受け身をするように、斜面で身をひねって転がりながら水中に逃げていくカメの機敏な動作に、思わず野生のスッポンに違いないと思ってしまったのだった。下記のように書き直しておきたい。



あまりの暑さで甲羅干しの最中に熱中症にかかったのか、いつもより反応の鈍いカメ。

「 5月31日も7月18日もそうだったし、この日もそうだけれど、手前の水路の角にミドリガメが住んでいて、上からのぞき込むと甲羅干しをしており、人の気配に気づくとカメとは思えない素早い身のこなしで水中に逃げて行く。あまりに敏捷なので、人に餌をねだったりして堕落せず野生で生きていると、ミドリガメであっても動作は機敏なのだなと考えを改めた。」

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【さらば北街道の和風ラーメン】

【さらば北街道の和風ラーメン】
 

 静岡県静岡市清水区大内、北街道塩田川橋近くにある『和風ラーメン』。
 幼い頃、この近所にあった祖父母の家から高部幼稚園に通っていたことがあり、その当時はラーメン屋はおろか、民家すらない寂しい場所だった。何十年か後、いつの頃か突然ラーメン屋が出現し、いかにひらけてきたとはいえ、こんな場所でラーメン屋をやって商売が成り立つのだろうかと、前を通るたびに余計な心配したものだった。



北街道の『和風ラーメン』。

 2005年夏に母が他界し、同じ大内にある寺に墓参りするようになってから、一度寄ってみたいと思っていたのだけれど昼時で満員のことが多く、やっと入ってみることができたのは何年前だったろう。身内の方が力を合わせての経営らしく、家族が汗を流して立ち働く姿が今も目に浮かぶ。
 駿府ライナー押切バス停で下車して、昼食は一度入ってみたいと思っていた押切の『らいみん』にしようかと思ったのだけれど開いていなくて、結局蕎麦屋で昼食をとったのだけれど「(塩田川手前の『和風ラーメン』でもいいかな)」とも思った。



閉店のお知らせ。

 『ふれっぴー高部店』で買った墓参り用の花をかかえて前を通りかかったら、店の玄関に妙な雰囲気の貼り紙があったので近寄って読んだら、6月にご主人が亡くなられたのを機会に、7月いっぱいで店をたたまれたとのことだった。
 こんな場所で商売が成り立つんだろうかと心配した頃は、大好きだった叔父や祖母も元気に大内に暮らしていたがもう他界して久しい。それくらいの長きにわたって、この場所でラーメン屋を維持して頑張られたご主人の冥福を祈り、ご家族に敬意を表したい。

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【初めての駿府ライナー】

【初めての駿府ライナー】
 

 郷里静岡県清水への墓参り帰省。
 清水区入江南の実家片付けが終わり、立ち寄る場所がなくなってしまうと、東京駅発折戸車庫行きの清水ライナーより、新宿駅発静岡駅行きの駿府ライナーの方が便利なことに気づいた。墓のある保蟹寺近くの大内観音前バス停や、墓に供える花を買う「ふれっぴー高部店」に近い押切バス停に駿府ライナーが停車するからで、新宿駅を発車し東名江田バス停を通過すると、次の停留所は下車する押切バス停ということになる。



左からJR高速バス新宿ターミナル、向こう側に新宿駅ホームが見える駿府ライナー乗車風景、渋滞のため足柄サービスエリアから中井パーキングエリアに休憩場所が変更された。

 新南口にあるJRバス関東新宿営業センターに併設されたターミナルから発車すると聞き、あのあたりにそんな場所があったかと不思議に思いながら行ってみた。
 甲州街道南側にできた新南口は新宿区ではなく渋谷区に属し、新宿駅は新宿区と渋谷区にまたがっている。新南口も跨線橋構造であり、そもそも甲州街道跨線橋に沿ってできた橋上駅舎なので、その下の空間を利用してJR高速バスのターミナルがあるのだった。屋根付きなので雨に濡れずに済むかわりに、今の季節は蒸し暑く、排気ガスが澱んでいて長時間バス待ちするところではないと思う。



JR高速バス駿府ライナー静岡行きで渡る国道1号線新富士川橋。

 焼津あたりで事故があったそうで、東名高速は富士・吉田間で50キロの渋滞とあり、乗車した駿府ライナーは急遽富士インターから一般道に出て国道1号線へ迂回となった。
 高速を降りて一般道に出た直後は、JRの列車が突然線路からはずれて道路を走りだしてしまったような奇妙な感覚が面白く、1号線沿いの風景をバスという高い視線から観光する機会に恵まれたので、1時間弱の遅れを差し引いても、ちょっとだけ得したな、という感じがしている。

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▼アイスキャンデーの棒

 

 新潟という土地はお菓子作りが盛んだと思う。米どころなので煎餅などの米菓づくりが産業として興ったからだろうか。新潟の友だちが上京するたびに見知らぬお菓子を貰うのだけれど、どれもレベルが高くて美味しい。テレビのワイドショー好きだった母は、ブルボン北日本製菓の新製品生コマーシャルを見るたびにスーパーのお菓子売り場に自転車を飛ばしていた。新潟の菓子屋は商売上手でもあった。




上野公園にて。



 新潟県長岡で生まれ育った友だちは、田舎なのでアイスクリームを売っている店が無く、家に冷蔵庫もないので殿町に出ると『川西屋』でアイスキャンディーを買って貰うのが楽しみだったという。メールで教えて貰ったが、昔ながらのキャンディーが美味しそう。



上野公園にて。



 小学生時代を過ごした北区王子にもアイスキャンディーを作って売っている店があり、店の前にはいつも割り箸が干してあった。どうして干す必要があるかというと、使用済みの割り箸を貰ってきて洗って再利用するからで、そのおかげで安くて1本5円だった。
 食べ終わって割り箸を見ると先の方がうっすら茶色いものがあり、
「やった、当たり! ラーメン食べた箸だ!」
などと喜んだもので、いつも空腹でおなかがへこんでいた夏を懐かしく思い出した。


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▼ice cream headache

 

 アイスクリームやかき氷を食べるとき、頭が「キーン」と痛くなることがあり、その現象を医学的には「アイスクリーム頭痛(ice cream headache)」と呼ぶのだという。




上野公園にて。



 冷たい物を食べても頭が「キーン」と痛くなった経験などないという人もいるけれど、僕も母親も冷たい物を食べると頭が「キーン」と痛くなるタイプで、とくにかき氷を食べていると突然痛みに襲われ、しばらくこめかみを押さえて唸りながらこらえることが多かった。



上野公園にて。



 アイスクリームやかき氷をのんびり品よく食べているときはならないのだけれど、より清涼感を得ようと立て続けに流し込むと「キーン」がやって来る。そんな経験から、ノドの奥の方である限度を超えて急激に冷えた血液が頭の過敏な部分にまわると、突発的な痛みが引き起こされるのではないかと思っていたけれど、「アイスクリーム頭痛(ice cream headache)」の解説を読んでもそういう説はないらしい。



上野公園にて。



 こめかみを押さえて唸っている母親に
「お母さん、慌てて食べるからキーンとなるんだよ」
と意見し、母は
「わかってるけどキーンとなるくらいの勢いで食べないと美味しくないんだよ」
と笑い、確かにその通りと思えるほど暑くて、親子でこめかみを抑え「キーン」に耐えている夏があった。

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▼手

 

 母は人の手相を観るのが好きで、手相の見方は五味康介から直接教わったと話していた。少なくとも、有名人に会ったことがあると嘘をついて自慢するような人ではなかったので、本当に会ったのだろうけれど、どこでどういう接点があったのか今となってはわからない。




左から、ずらりと並んだ手形群、高橋尚子の手形、渥美清の手形。



 上野公園の高台に向かう坂に沿って有名人の手形が並んでいる。いつからあったのか、今まで気づかなかったのが不思議で、亡くなられて20年も経っている方もいる。




左は千代の富士貢、右は美空ひばり。



 美空ひばりは小さい人だったというけれど、それほど大型力士でもなかった千代の富士の手形と並べてみても、改めてその小ささに驚く。




王貞治の手形とカラス。



 俳優、歌手、作曲家、探検家、漫画家、映画監督など多彩な顔ぶれで、この人たちにどういう接点があるのだろうと順番に見ていったら一番端が王貞治なので、ああそうかと気づいたのだけれど、坂の上から順に国民栄誉賞受賞者の手形を並べてあるのだった。

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▼蓮を見る人々

 


 湯島の出版社に届け物があり、帰りに水上音楽堂前の横断歩道で信号待ちしたら、不忍池ほとりに人が集まっており、蓮池の蓮が見頃になっているのだった。
 不忍池は15世紀頃すでに不忍池(しのばずのいけ)という名で呼ばれていたそうで、名前の由来は諸説あるけれど、『新編武蔵風土記稿』の周囲に笹竹が多く茂った篠輪津(しのわづ)が転じて不忍になったという説が、この古い池の端に立ってみるともっともふさわしいのではないかと感じる。




不忍池、蓮を見る人のいる水辺。



 猛暑であっても蓮池を渡ってくる風がひんやりと心地よく、ベンチに座ってぼんやり眺めている高齢者の気持ちがわかる気がし、家に引きこもって虚ろな視線をさまよわせてぼんやり座っている親たちを見ていると、何を見て何を感じているかがわかるのは他人とはいえほっとする。




風に揺れる蓮の葉の間に静止している花が見え隠れする。



 子どもの頃、体温計をいたずらしていて割ってしまい、畳の上にこぼれ落ちた水銀が球のように丸くなり、紙片ですくい取ろうとしたら、転がってタンスの下に入ってしまい、あとで母親にひどく叱られたことがある。




風に揺れる蓮の葉の上をさまようひとかたまりの水。



 蓮の葉の上にはたいがい水が貯まっていて、水銀のように盛り上がり、葉っぱが風に吹かれるたびにころころと転がるように動く。これは蓮の葉の表面がが微細で特殊な化学特性をもち、その強い表面張力によって水が弾かれているからで、この超撥水現象を材料工学ではロータス効果と呼ぶ。




蓮の葉のロータス効果。



 植物学では、このロータス効果によって蓮の葉の表面が常に清潔を保つ自浄作用も確認されており、蓮が純粋さの象徴とされる一因にもなっているというけれど、ベンチに腰掛けて蓮を眺めている人々の姿を見ていると、人の精神に対しても浄化作用を持っているかのように感じられ、静かで穏やかな水辺風景になっている。




現在不忍池の半分は蓮に覆われている。
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▼当座の力

 


 仕事帰りに買い物を思いついてJR日暮里駅で電車を降りた。
 日暮里舎人ライナー開業と新駅舎開設、JR・京成による既存駅舎改良により、まったく別の駅のように変貌を遂げつつある日暮里駅は、工事中ということもあって迷子になりそうで驚く。
 それでもかつて暮らしていた地域なので、見慣れた谷中の高台へ向かう出口に出てひと安心した。懐かしい街へと歩き出したら、眼の端に不思議な光景が過(よ)ぎったのが気になり、引き返して写真を撮った。山手線沿いの高台崖っぷちを通って谷中霊園を抜け、上野桜木方面に向かう近道があるのだけれど、工事中でわかりにくくなっているので白地に黒の矢印で指し示してある。




見事な配置とデザインの矢印。



 その矢印と配置がただならぬ気配を放っており、現代美術の作品のように感動したので撮影したくなったのだけれど、角度を変えて写しているうちに「あっ…」と思い当たることがあった。




佐藤修悦さんによる「修悦体」。



 2004年、JR東日本新宿駅東口の部分改築現場で客の誘導係をしていた三和警備保障株式会社勤務の警備員である佐藤修悦さんが、音声だけでなく視覚伝達による誘導を思いつき、ガムテープを使った案内表示を作り始めたら各種メディアで取り上げられて話題となり、その独特の書体は「修悦体」と呼ばれて有名になった。
 その佐藤さんが2007年、JR東日本日暮里駅工事現場の誘導係として配置され、仕事のかたわら視覚伝達誘導作業をされていると聞いたことがあるが、どうもそれの一部らしいと気づき、注意してみたら間違いなく噂の「修悦体」だった。




佐藤修悦さんによる「修悦体」。有名な「現在地」の文字もいいが「繊維街」の文字にこもった伝達意志の力を見よ。



 文字による視覚伝達が自分の商売でもあるので、どうしても職業的視点から見てしまうけれど、完成度や巧拙などという観点では測りえない、当座の用に供するために書かれた文字の力に感動する。そもそも看板などは職人の手書きによる独創が当たり前だったのであり、その時代の文字は、現代という複製時代の文字よりはるかに強い伝達意志と視覚的な力を持っていた。




左から当座的力のある谷中の店名と看板、谷中銀座「後藤の飴」の手書きポスター、「栢木」と書いて「かしわぎ」とその場では読めなかった案内板。



 人が“当座の用に供するため”に産み出すものはBricolage(ブリコラージュ)などという洒落た言葉など知らなくても、“当座の用”に直接的であることによって多くの人の心を捉えて感動させるという好例であり、やがて工事終了とともに消えていくという儚さもまた“当座の美”にふさわしいかもしれない。

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