【闇を描く】

【闇を描く】

友人との仕事打ち合わせが終わり、別れ際の雑談で山里の釣りの話になった。

釣ることに熱中し、ふと我に返り、辺りが闇に包まれていることに気づいたとき、不意に川の流れの中に立っている自分の身体が宇宙に孤立していているような、奇妙な浮遊感を感じること、そして闇が人の情念を動かす力が単に恐れやおののきだけではなく不思議な恍惚感を伴うこともある、などということを話した。

闇の襞に潜む恐怖、苦悩、快楽、郷愁が交錯した世界を、絵として描くことは、光溢れる世界を描けと命じられるより難しい。闇を描いた絵を探して画集をめくったけれど、これぞという絵が見当たらない。それほどに闇を描くのは難しくて、単に画面を墨で塗り尽くした暗黒世界を描けばよいという簡単な話でもないのだ。

色を重ね合わせた末に黒になることを光の加色混合に対して減色混合や減法混色と呼ぶ。インクであれ、染料であれ、絵の具であれ、すべての物質を惜しみなく混ぜ合わせれば、そこに出現するのは漆黒の闇なのである。眼で感じた光の現象を物質である絵の具に置き換え、次々に紙の上に重ねていくのは、光り輝く世界を模倣しているようでいて、実は闇を構築していると言えなくもないのだ。

1994 年 12 月末、パリの女友達を訪ねた冬はかなり体調を崩していた。美術館はルーブル以外どこもがらがらに空いていて、無人の展示室で名のある作品を手に取るように鑑賞できたのは得難い経験だった。

昼間の美術館巡りで疲れ果てているのに、女性たちは夕暮れ時になって買物に繰り出すという。体調がすぐれないので友人のベッドに横になり、古いパリの屋根の連なり、煙突から流れ出る薄煙を眺めながら、ぼんやり絵のことを考えていた。

中学時代の同級生に O 君がいた。O 君は日常の言動がかなりゆったりしていて、高校進学が心配な少年だった。通学路が同じこともあって、何度か家に上がり込んで遊んだが、暮らしは貧しく、根太板が腐りかけた床に畳が敷いてあり、パチンコ店勤めの姉が持ち帰ったパチンコ玉が木箱一杯あるのが印象的だった。

その彼の描く絵が巧いのである。こいつにだけは、かなわないと思った。だがなぜか写生大会に入賞したことがない。それがどうにも不思議で、自分の絵が入賞したときは後ろめたい敗北感を感じていた。

自分は絵の具を混ぜあわせて塗るのが嫌いで、チューブから絞り出してそのまま塗りつけるような描き方が好きで、美術の S 先生には「いつか油絵をやったらいい」と言われていた。

一方 O 君の画材は兄や姉からのからのお下がりらしい使い込まれた年代物で、パレットには大量の絵の具が固まってこびりついたまま、絵の具もあらかた絞り出されて硬化し、鉛のチューブを引き裂いてほじくり出さなければならないほどだった。筆に水をつけて絵の具の塊を溶き、流れ出た色水を何度も塗り重ねて描くことしかできないのだけれど、それがとてつもなく巧いのである。一見なんとも暗い絵なのだけれど、ふしぎな魅力があり、彼の絵を見るたびに「こいつにだけはかなわない」と打ちのめされていた。

校外写生大会で描き上げた作品を校内に持ち帰って壁に張り出し、生徒の互選で入賞作を選んだことがある。生徒が自由に誰だれの作品が良いと言い合い、先生が「そうだな、じゃあ入選とするか」などと言って色紙の短冊を貼っていくのである。

自分の作品はいちはやく選ばれていたのだけれど、もっとも優れていると思った O 君の作品が一向に選ばれない。「ほかに入賞作はないか」と S 先生が言うので「 O 君の作品がいいと思います」と言ったら、「うーん、O の作品ねぇ」と先生は腕組みしたまま首をかしげ、結局、短冊が貼られることはなかった。

どうして O 君の作品が評価されなかったのか今でも不思議だ。卒業式を終え、校門を出るとき先生は「頑張れよ」と声をかけてくれたけれど、「はぁ…」と気のない返事になってしまったのは、先生がなぜ O 君を評価しなかったのかが、心の奥で妙なわだかまりとなっていたのかもしれない。

今でも思い出す O 君の作品のどれもが、闇の中から微かな光を絞り出すような、不思議な希望に満ちた明るさを持っていたように思えてならなくて、友だちのよしみで一枚くらいもらっておけばよかったなと思うことがある。

※写真は 1994 年 12 月のパリにて。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2002 年 1 月 24 日、20 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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