日本映画専門chで大島渚監督の「絞死刑」(68年)を見た。
冒頭、<死刑制度に反対ですか、賛成ですか>と字幕で問い掛け、<死刑廃止反対71%、廃止賛成16%>の世論調査(67年、法務省)の結果が示される。さらに<死刑場を見たことはありますか>と続き、死刑執行の場面が映し出される。目隠しされてぶら下がったRの肉体は<死刑を拒否する>。執行完遂を目論む関係者は、蘇生したRの記憶を回復させようと試み、ブラックユーモアに満ちた不条理劇が展開する。
下敷きになっているのは、58年に起きた小松川高校事件だ。劇場犯罪の要素もあり、マスコミの反応も過熱気味だった。「R」すなわち同校定時制に通う李珍宇被告が逮捕され、もう一件の殺人も自供する。翌年の第一審では、未成年にもかかわらず死刑判決を受けた。検事は論告求刑で「人間としての生存価値はない」と述べている。
李被告は朝鮮人集落の中でも極貧の家庭で育った。優秀な成績で中学を卒業するが、差別ゆえ大企業に採用されず、就職先が倒産するなど辛酸を舐めていた。ドストエフスキーやゲーテに親しみ、獄中でカトリックに帰依した。更生の可能性も高く、大岡昇平らによる減刑嘆願運動も起きたが、62年に刑が執行された。
映画の後半、チョゴリを着た空想の女が登場し、朝鮮人としてのアイデンティティーをRに説く。Rは女に「僕が殺した人たちも、一枚ヴェールがかかったようにしか感じられない」と告白した。Rの現実への疎隔感は、抽象的でありながら触感を伴う女の存在により克服される。
贖罪意識に目覚めたRだが、「僕を有罪とする国家がある限り無罪です」と主張する。「君のそういう思想を生かしておくわけにはいかない」との検事の言葉に納得したRが、「あなた方を含め、すべてのRのために、Rであることを引き受け、今死にます」と話すと、踏み板が外された。だが、吊るされたはずのRの肉体は消えている。大島監督は、国家の抽象性を提示したかったのだろうか。
Rを演じた尹隆道以外は、佐藤慶、渡辺文雄、戸浦六宏、小松方正、奥さんの小山明子と、おなじみの顔ぶれが脇を固めている。さらに、教誨師役の石堂淑朗(脚本家)、保安部長役の足立正生(映画監督、日本赤軍結成メンバー)、検察事務官役の松田政男(評論家)と、大島ファミリー総出演といった感がある。
メーンテーマである死刑についてだが、容認派が漸増傾向にあるという。直近の世論調査(総理府)でも「場合によってやむをえない」が80%を超え、そのうちの60%強が「将来も廃止すべきでない」と答えていた。
殺人が死刑に値すると仮定しても、起因するものを一括りに出来ない。個人的感情、通り魔、ゲーム感覚、テロ、戦争、企業や医療機関の過失……。死刑の是非について明確な意見を持てるほど、俺はまだ成熟していない。25年以上前の映画館、15年前のレンタルビデオに続き、本作は3度目の観賞だったが、次に見る時まで――そんな機会があればだが――、自分なりの答えを出しておきたい。