酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

炎のごとく~ダイアン・アーバスが問いかけるもの

2005-07-25 04:50:19 | カルチャー

 1971年の夏、ダイアン・アーバスは自ら命を絶った。享年48歳、あす(26日)が命日に当たる。本稿ではダイアンの伝記である「炎のごとく」(パトリシア・ボズワース著)を下敷きに、論を進めたい。

 ダイアンは23年3月14日、ユダヤ系の大ブルジョア、ネメロフ家の第2子としてニューヨークに生まれた。後に詩人、作家としてピュリツァー賞に輝く兄ハワードとの絆は強かったが、両親との関係は希薄だった。ダイアン自身、<わたしは孤児だった>と語っているほどである。<仮面家族>で育ったダイアンには、幼い頃から他者との奇妙な距離感――爪弾きされた者へのシンパシー――が芽生えていた。

 <(上流階級から)全力をあげて這いおりてきた>という回想通り、ダイアンは資産家の娘たる自分自身に反逆する。アラン・アーバスと恋に落ち、父の反対を押し切って18歳で結婚した。二人の娘の母として家庭を守りながら、ファッション写真家のアランに協力する。助手、メイク担当、アドバイザーに徹し、業界では<共生生物のような夫婦>として知られるようになる。

 美貌と独特の存在感で周りの者を魅了したダイアンだが、アランと組んでいる時期は奔放さを抑えていた。例外はアレックス・エリオットで、トリフォーの「突然炎のごとく」そのものの三角関係を演じたことは、伝記のタイトルが物語っている通りだ。<すべての形は正しく見れば美しい>というアレックスの言葉は、ダイアンを大きく触発したようだ。

 アランとの20年間のコンビを解消したダイアンは、独自の道を歩み始める。対象はホームレス、障害者、フリークス、倒錯者、異常者たちであった。師と仰いだリゼット・モデルは、<ダイアンの写真の多くは、自分の心にとりついている顔や夜の世界から自分を解放するために撮られたもの>と述べている。畏れとともに封印していた内なる<怪物>が、30代半ばにして覚めた。

 <ダイアンはあらゆるものの真実の姿を暴露したが、それは世の終末をあらわしているようだった>(「エスクワイア」誌編集者)、<ダイアンにカメラを与えるのは、赤ん坊に手榴弾を与えるようなもの>(ノーマン・メイラー)……。本書は数多くのダイアン評を紹介している。近代美術館で催された「ニュー・ドキュメンツ展」を経て、ダイアンは方法論のみならず、<フラッシュを直射して正方形の画面にまとめる>技法で、多くのフォロワーを生むことになる。革新者としての名声は得たが、生活は不安定のままで、金を稼ぐための現場では<禿鷹のように襲いかかり、フラッシュをたく>ことも厭わなかった。ダイアンをパパラッチの先駆と位置づける者もいる。

 ダイアンは独立後、多くの男女と性的関係を持つようになる。アランは再婚し、敬愛するマーヴィン・イズラエルには愛する妻がいた。セックスでは埋められない孤独が、ダイアンの心を次第に蝕んでいく。死の直前、ダイアンは少女時代のジレンマ――傑出していることの畏れ――と闘っていた。「ベネチア・ビエンナーレ」へのノミネートも、写真家として前例のない栄誉であり、エール大学からは開講の誘いを受けていた。本人の意思に反し、神格化され、「生ける伝説」になりつつあった。
 
 ダイアンの死後、追悼写真展が各地を巡回し、その名は世界に知れ渡った。キューブリックの「シャイニング」(80年)も認知度アップに貢献する。映画に繰り返し現れて恐怖を呼び覚ます「双子の女児」のイメージが、ダイアンの写真からの借用であることは明らかだった。双子(時には三つ子)もまた、ダイアンが執着したテーマの一つだった。  

 <ダイアンは人間の孤独の性質と、孤独に陥るまいとして涙ぐましい努力をする人間の姿を追求した。超自然的な能力で被写体と同化し、自ら侵害したように見えるプライバシーを浄化した>……。著者のアーバス論で印象的な部分をパッチワークすれば、上記のようになる。写真の世界は門外漢ゆえわからないが、ダイアンの精神を継ぎ、次代のニューヨークの女王に鎮座したのが、詩人、パンクロッカーとして一世を風靡したパティ・スミスだと思う。エキセントリックでストイック、スキャンダラスな点も共通している。

 80枚の写真から成る「ダイアン・アーバス作品集」をめくってみる。一枚一枚の迫力に息を呑んでしまう。目をそむけたくなる写真に対峙し、鈍いしこりを消化することが、自らの浄化に繋がるような気がしてならない。

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